第二十段 勝ちさび
天照の営田に到着した月読は、目の前の光景に心の中で眉をひそめた。
そこはかつて見事な田んぼだった。
ところが、今や用水路を埋められて木樋も壊され、乾き切った原っぱとなり、稲ではなく牧草が生えていた。
そうして出現した牧草地には高天原の斑馬である天斑駒が放牧され、糞が撒き散らされてあった。
「おお、来よったか、月読!」
天斑駒を愛でていた天照が月読に気付き、嬉しそうに手を振った。
その傍らには素戔嗚が仏頂面で立っていた。
特に不機嫌でなくても素戔嗚は顔が険しかった。
「急に呼び出してどうしたんだ、姉御殿?」
天照に尋ねながら月読は素戔嗚を横目で睨んだ。
素戔嗚の求めで天照が自分の営田を牧草地にしたことも、天津神たちから快く思われていなかった。
情実で田んぼを勝手に乾燥原とするなどいずれ高天原を背負って立つ神人に相応しからぬ行為だった。
「実はお主に頼みたいことがあっての」
月読の心配を余所に天照は明るい声で言った。
自身の危うい行いに気付かない天照が月読には腹立たしかった。
何故に弟を叱らず、一緒に馬鹿な真似をして妹を心配させるのか理解できなかった。
月読も姉弟と仲良く過ごしたかった。
叶うならばそこに他の姉や兄、そして、母と父がいてほしかった。
それなのに、最も近しい姉と弟は自分の気も知らないで……。
◆
月読を訪ねた思兼が彼女に一振りの剣を渡した。
「頼まれた通り貴方のお父上が有する呪能を付与してあります」
知の力を神として祀る思兼は、解析した呪能を道具の形に現して他人にも使用させられた。
彼は伊邪那岐が天照たちを高天原に連れてきた際、その呪能を解析していた。
無論、呪能の完全な再現は無理だったが、それでも、自分しか扱えない伊邪那岐および伊邪那美の複製と違って量産することも可能だった。
ただし、呪能の再現には繊細な技術が必要だったので、量産すれば当然ながら質は落ちた。
また、道具に付与されている呪能が発揮されるかどうかは、使い手の呪力に左右された。
それゆえ、高天原において呪力の点では別天津神に匹敵する三貴子が道具の実験を手伝うことも多く、思兼は天照および月読の姉妹と交流が深かった。
「ありがたい、これで姉御殿から仰せ付かった役目を無事に果たせそうだ」
「しかし、天照も酷なことを頼んだものです」
「そう言ってくれるな」
眼鏡をくいっと上げる思兼に月読は溜め息を吐いた。
彼女は素戔嗚と共に保食神を迎えに行くよう天照から頼まれていた。
保食は農牧の力を神として祀る国津神だった。
ところが、国津神たちのいる葦原中国は、今や安全な場所とは言えなかった。
伊邪那岐が黄泉比良坂を閉ざしたので、呪力が暴走した神人らは行き先を無くし、葦原中国で猛威を振るっていた。
一部は根国に身を隠していたが、そこには黄泉ほどに呪力を鎮める経験の蓄積がなかった。
「まあ、私としましては道具の性能を試してもらえますので、有り難いと思っていますけど」
「相変わらず研究に余念のないことだ」
「常により良いものを追求しなければ、現状を維持することすら出来ません。それは緩慢な死と同義で、生あるものなら、いつも何かに挑戦しているべきです」
「そういったところは高木の親父殿にそっくりだな」
「ええ、今回の一件を父は面白がっています。母は貴方たちを案じていますがね」
思兼の言葉に月読は心が痛んだ。
神皇産霊は勿論のこと、高皇産霊も彼なりに月読たちを愛しているのだ。
それに育まれたと自覚する身として月読は義理の両親の愛情を無碍になど出来なかった。
◆
豊受が国之常立に料理を出しながら問うた。
「天照と素戔嗚のやることを黙認させはしたけど、高皇産霊と神皇産霊はこっちの味方になりそうかい?」
既に豊受は酒肆の戸を閉め、店内には彼女と国之常立しかいなかった。
「見込みはあるように思える。しかし、仏法は身で聞くものだ。伊邪那岐のように体験が伴っていなければ、馬の耳に念仏だろう」
箸を動かしながら受け答えする国之常立に豊受が顔を険しくさせた。
「だから、天照と素戔嗚の好きにさせて伊邪那美みたいに呪力を暴走させようって言うんじゃないだろうね?」
「伊邪那岐の時もそうだったが、私は仏法を弘めるために自分以外の誰かを犠牲にしようとは考えていない」
「アンタがそう自負してても周りが同じように受け取るとは限らないよ」
料理を食べ終えた国之常立が箸を置いた。
「ああ、この世が思った通りに行くものなら、動機の純粋さだけが問題となるだろうな。だが、現実には動機よりも結果が問われる。結果によっては我が身を犠牲にしよう」
「時に自己犠牲ってのは逃げになるのを忘れないでおくれよ」
「ことが成就するならそうした誹りも受け入れようではないか。何もしなければ空亡の神国が完成するだけだ」
席を立って国之常立は厨房の豊受と目線を合わせた。
「妣国に往かんとする素戔嗚と天照の試みは必ず潰える。その挫折が高天原の神人たちに仏法の種を播くと私は信じている」
「誓約の試練に勝った素戔嗚が大それた無茶をやらなきゃ良いんだけどねえ」
「勝ちさびも挫折を引き立てる塩となろう」
そう答えて背を向けた国之常立を豊受が皮肉った。
「なるほど、無茶振りの好きな高皇産霊と気が合うはずだよ」
「もしかすれば高皇産霊たちに後事を託すことになるかも知れんが、その時には彼らを支えてくれ」
振り返らずにそのまま国之常立は店を出ていった。
典拠は以下の通りです。
月読命が保食神を訪ねる:『日本書紀』




