第十四段 禊ぎ
穴から出てきたところを伊邪那岐に斬られ、泉守道者は黄泉平坂に押し戻された。
分解された呪力の一部は穴を塞ぐ岩に付与された。
岩は千引岩なる神岩として黄泉平坂を塞ぐのに呪能を発揮した。
在りし日の伊邪那美なら、複製した神人たちの能力を駆使して突破できたかも知れなかった。
しかし、伊邪那美はもう黄泉神たちを制御できても天津神である伊邪那岐の力には対処できなかった。
出来るのは狂ったように岩を爪で掻いて伊邪那美に訴えることくらいだった。
「伊邪那岐ぃい! どうしてボクと向き合ってくれないのっ!?」
「君が正気じゃないからだ!」
「それが何だって言うのさ! 狂ったってボクはボクでしょ!?」
「そうさ、たとえどんなことがあったって君は僕が愛した君だ! だからこそ、今の君が子どもたちを傷付けてしまいかねないのに耐えられない。許してくれとは言わないけど、お願いだから分かってほしい……」
不気味な沈黙が降りた。
岩を掻く音さえ聞こえなくなった。
伊邪那岐が固まったまま流した汗が地に落ち、伊邪那美の絶叫が沈黙を破った。
「だったら、いつか絶対に一人残らず殺してやる! ボクよりも子どもたちを愛してるんなら、そいつらの命を雑草のように刈り取ってやるから!!」
「伊邪那美!」
伊邪那岐の拳が岩を叩いた。
「そうしたらボクのことを憎んでくれるよね!? 愛してくれなくてもボクにだけ向き合ってよ、伊邪那岐!」
「……それなら、僕は子どもたちを雑草のように逞しく生きさせて見せる。君が僕を愛して子どもたちを憎むなら、僕は子どもたちを愛し、彼らに対する君の憎しみを引き受けよう。今の僕はそんな風にしか君と向き合えない」
額を岩にぶつけ、伊邪那岐が震える声に悔しさを滲ませて呻いた。
「でも、いつか必ず君にちゃんと向き合ってみせる。だから、待っててほしい。絶対に君を迎えに行く」
そして、未練を断ち切るかのごとく伊邪那岐は振り向かずにその場から立ち去った。
◆
伊邪那岐の足音が遠離っていく。
それを聞きながら伊邪那美はへたり込んで呆けた。
暗闇よりもなお暗い闇が伊邪那美の心を染め上げた。
光の一切ない虚無だった。
どう言葉を重ねようとも伊邪那岐が伊邪那美の下から離れたことに変わりはなかった。
そのことを目の前に突き付けられた。
伊邪那美の中でそれまでに築き上げられてきたものが崩れていった。
もしそのままだったら、空っぽになった伊邪那美へ黄泉の荒れ狂う呪力が注がれ、狂気だけで満たされるところだった。
しかし、そうなることはなかった。
伊邪那美に寄り添うがごとく菊理媛神が化生したからだ。
その神人に伊邪那美は自身と伊邪那岐の気を感じた。
目を丸くしながら彼女は悟った。
菊理媛が先程の伊邪那岐と伊邪那美の遣り取りから生まれたことを。
込み上げる涙を堪えながら、それでも、肩や唇を震わせ、伊邪那美は菊理媛に手を伸ばした。
指が菊理媛の体に触れた。
その感触は確かに存在した。
新たに伊邪那岐との間に儲けた子どもが確かに存在した。
その事実に震える伊邪那美の頬を舐めるものがあった。
そうしたのは雷獣たちで、周囲を見回してみれば泉守道者や黄泉醜女たち、黄泉軍らも伊邪那美の周りに集まっていた。
堪えきれなかった涙が零れ、伊邪那美は菊理媛を抱き締めた。
「待ってる、待ってるから……」
どのような形であっても家族がここにもいる。
だから、耐えられる。
いつか迎えに来てくれるその日まで。
◆
葦原中国に帰ってきても伊邪那岐は黄泉を引き摺っていた。
黄泉神らの呪力に長く当てられ、伊邪那岐の力もまた暴走しつつあった。
それを鎮めるためには自身の力を分解しなければならなかった。
ただし、対象が自己であるため、他者の呪力を分解する時とは勝手が違った。
下手をすれば分解する呪能そのものがばらばらになってしまいかねなかった。
そこで、伊邪那岐は呪力の分解に適当な場を求めて流離した。
そうして辿り着いたところが筑紫島の日向国にある橘小門之阿波岐原だった。
そこは海原に程近い河口の広みで、檍が茂っていた。
海原にある海原国も、黄泉と同様に葦原中国から見て異界であると言え、檍はいつも青々とした榊と同じ常緑樹だった。
伊邪那岐は気枯れていた。
黄泉の凄まじさは伊邪那岐の心身に多大なる負担を強い、彼の生気を枯渇させた。
そのような穢れの状態から快復して気良められるには症状を確認し、それに応じた療法を講じなければならなかった。
伊邪那岐は自身を病ませる己が恙みを捉え返すため、生命力の象徴である常緑樹や海原の水、塩などで英気を養い、異界で犯した罪を見詰め直すことにした。
それは身を削ぐように辛いことだったが、伊邪那岐は身削ぎを実修するのに最適な中津瀬に飛び込んだ。
水に浸るため、身に着けていたものが全て投げ捨てられると、禊ぎを実修するまでの流離を形象するかのごとく陸路と海路の旅に関わる神人たちが生まれた。
水中で伊邪那岐が体を洗えば、伊都能売神ら吉凶の力を神として祀る神人たちや航海に関わる住吉三神が生まれた。
それは苦楽に翻弄されてきた伊邪那岐の遍歴を象徴するかのようだった。
そして、左目を洗った時に天照大御神が、右目を洗った時に月読命が、鼻を漱いだ時に素戔嗚尊が誕生した。
それと同時に暴走しつつあった伊邪那岐の呪力が鎮まって彼は浄められた。
もう呪力の分解から新たな神人が生まれることはなかった。
呪力が暴走しつつあったのは、伊邪那美との一件が原因であったのを鑑みれば、身削ぎで生まれた神人たちを彼女との子どもと捉えることも出来た。
その子どもたちが生まれなくなった事実に伊邪那岐は泣き崩れた。
典拠は以下の通りです。
菊理媛神が伊邪那岐神と伊邪那美神の間を取り持つ:『日本書紀』