第十三段 黄泉神
伊邪那美が発狂したのを見て伊邪那岐がまず考えたのは、分解によって彼女の力を鎮めることだった。
しかし、伊邪那美と融合した雷獣たちがそれよりも早く伊邪那岐へと牙を剥いた。
伊邪那岐は雷獣たちが自分を殺そうとしているのかと思ったが、直ぐに違うと理解した。
(取り込もうとしてる!)
きっと雷獣たちは肉体を共有する伊邪那美の意を受けたのだろう。
異形となった姿を見られたのなら、相手もそうしてしまえば良い。
それに、肉体を融合させればずっと一緒にいられる。
(そう思ってるのかい、伊邪那美?)
問い掛けても答えてもらえそうになかった。
狂ったように叫び声を上げる伊邪那美は、どう見ても正気を失っていた。
たがが外れた伊邪那美の呪力は凄まじく、迫ってくる力を伊邪那岐がどれだけ分解しても衰えなかった。
このまま持久戦となれば、先に音を上げるのは伊邪那岐の方だった。
伊邪那美と一つになることそのものには一考の余地があった。
もう元に戻れないのなら、自分が黄泉神になるくらいの覚悟はある。
(でも……)
雷獣の爪をかわし、伊邪那岐は踵を返した。
そして、黄泉平坂へと向かって走り出した。
伊邪那美も意味のなさぬ叫びを上げながら伊邪那岐を追った。
(それは君と向き合って出された答えじゃない!)
ここで伊邪那美の取り込まれれば、国産みを途中で放り出すことになる。
もしそうなれば、伊邪那岐は自分が許せなかった。
残される子どもたちに水蛭子と淡島が重なった。
◆
湖畔を横切っていると、伊邪那岐は辺りがざわめくのを感じた。
それは伊邪那岐を追う伊邪那美の叫びに呼応しているかのようだった。
伊邪那岐は嫌な予感がして周囲を警戒した。
その読みは当たった。
女性の異形である黄泉醜女たちがあちこちから現れて伊邪那岐を追い掛けた。
黄泉醜女たちは四つん這いで這うようにしていたが、その動きは速く、忽ち伊邪那岐は追い付かれそうになった。
彼は黄泉醜女たちの呪力を分解することも考えたが、素速い上に数が多く、手間取っていれば伊邪那美に捕まりかねなかった。
そこで、伊邪那岐は分解でなくて複製の呪能を行使することにした。
伊邪那美ほどではなくてもその場を凌ぐのには十分だった。
伊邪那岐が髪に巻いていた蔓草を黄泉醜女たちへ投げ付けた。
草木や食べ物の力を神として祀る神人たちの能力を複製したため、蔓草は地面に落ちると、そこに食い込んで何本もの蔓を成長させ、それらに山葡萄が幾つも実った。
呪力が暴走して知能が低下した黄泉醜女たちは、美味しそうな山葡萄に食らい付いて足留めされた。
しかし、伊邪那岐がやっと黄泉平坂に辿り着くと、山葡萄を食べ尽くした黄泉醜女たちが再び彼を追ってきた。
今度は髪に挿されてあった爪櫛が投げ捨てられた。
櫛は地に刺さって筍となり、黄泉醜女たちはそれも食べたが、精の強さに当てられて倒れ伏した。
これで大丈夫と胸を撫で下ろした伊邪那岐の耳に犬のもののような吠え声が聞こえた。
声のする方に目を向けてみれば、雷獣たちが伊邪那岐に迫ってきた。
どうやら伊邪那美から分離して伊邪那岐を追い掛けてきたらしく、その後方には彼女の姿も見えた。
伊邪那美は異形の軍勢たる黄泉軍を率いていた。
神人の能力を複製する伊邪那美の呪能は、黄泉神と化したことによって異形と同調するものに変化し、彼女は黄泉津大神とでも称すべき黄泉の女王になったと思われた。
伊邪那岐は十拳剣を抜き、気配を察知することで後ろ手に雷獣たちを斬り伏せ、その呪力を分解した。
それは時間を空費して後方の伊邪那美たちに追い付かれるのを回避するためだった。
だが、黄泉平坂の麓まで来たところで黄泉軍に追い付かれた。
伊邪那岐は麓に立っていた木を見付けると、それに実っていた桃を黄泉軍に投げ付けた。
桃の実は邪気を祓うと言われていた。
邪とは横様であるということで、横紙破りのように横は道理から外れるほど強く荒れ狂う力が意味されていた。
それ故に黄泉軍は蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
(常世に行ったって言う神人から桃には不思議な力があると聞いてたけど……)
また走り出そうとして伊邪那岐は桃の木に手を触れた。
「僕を助けたようにどうか葦原中国の生きとし生けるものも救ってほしい」
その願いにより桃の木は神樹として大神実命とも呼ばれるようになった。
◆
黄泉平坂の麓にある穴を抜け、伊邪那岐は坂の外に出た。
しかし、これで安全かと言えばそうではなかった。
桃の実を投げ付けられたことで逃げてきた黄泉軍を払い除け、伊邪那美が飛ぶようにやってきた。
「伊邪那岐ぃ!」
分離した雷獣たちが伊邪那岐に呪力を分解されたからか、伊邪那美は些か落ち着いたようで、意味のある叫びを発していた。
それでも、正気を失っていることに変わりはなかった。
このままでは我が身を滅ぼしてでも伊邪那岐を追い続け、葦原中国に災厄を撒き散らしかねなかった。
伊邪那岐は黄泉平坂への入り口を塞げるほど巨大な岩が転がっていることに気付いた。
彼は俯いて唇を噛み、握り締めた両の拳を振るわせた。
そして、吹っ切った表情で顔を上げた。
高皇産霊の呪能を複製し、伊邪那岐は伊邪那美に向けて目映い光を放った。
伊邪那美が複製するほどには明るくなかったが、彼女の目を眩ますには事足りた。
それに伊邪那美が怯んだ隙に今度は国之常立の呪能を複製し、その呪力で大地を震わせた。
地震で突き上げられた岩が黄泉平坂への入り口に転がっていった。
入り口の穴も地殻の変動で変形し、岩とぴったり合う形になった。
黄泉の番人である泉守道者が現れ、黄泉平坂への穴を塞がんとする岩を止めに入った。
だが、伊邪那岐はそれを見越していた。
彼は泉守道者を十拳剣で斬り、その呪力を分解した。
それによって生まれた力で伊邪那岐は岩に結界の呪能を持たせた。
典拠は以下の通りです。
泉守道者が泉門塞之大神または道返大神とも言われる:『日本書紀』




