第十二段 黄泉国
旅装の伊邪那岐は黒の蔓草を長い茶髪に巻いて爪櫛を挿し、十拳剣を腰に帯びた。
そうして彼は伊邪那美の気を辿り、葦原中国の果てまで歩を進め、不気味な雰囲気の漂う奥山へと分け入った。
やがて真っ暗な洞窟がぽっかり口を開け、伊邪那岐の前に現れた。
穴からは近寄ることさえ憚られるほど異様な空気が流れていたが、伊邪那岐は中へと入っていった。
洞内は極めて急峻な坂になっており、そこを伊邪那岐は杖を突きながら昇った。
坂の上は山吹の花が咲く湖畔と樹海が広がっていた。
その黄色い花に飾られた水辺が黄泉で、伊邪那岐の昇ってきた坂が葦原中国との境である黄泉平坂だった。
山清水を湛えた湖やその畔にある森は美しかったが、伊邪那岐は違和感のようなものを抱いた。
そこに漂う空気は濃密に過ぎるかのごとく感じられ、伊邪那岐は気分が悪くなりそうだった。
そのようなところに黄泉への道を守る泉守道者が現れた。
異形の神人たる黄泉神がいきなり現れて驚く伊邪那岐に構わず、泉守道者は伊邪那美からの伝言を彼に告げた。
それは伊邪那岐と共に葦原中国へ戻るつもりなどないという別れの言葉だった。
◆
黄泉にて自分へ与えられた御殿で伊邪那美は雷獣たちの頭を撫でながら、真っ暗な中で物思いに耽っていた。
伊邪那岐は引き返してくれただろうか。
出来るだけ酷い言葉を選ぼうとしたが、伊邪那岐を傷付けるのが恐ろしく、泉守道者には事務的な伝言しか託せなかった。
それでも、もし伊邪那岐が傷付き、自分を嫌ってしまったら、これからどう生きていけば良いのか。
そう考えて伊邪那美は胸に痛みを覚えたが、頭を振ってその思いを振り払った。
いや、自分の嫌われることが伊邪那岐や子どもたちのためには最善の選択なのだ。
歯を食い縛って伊邪那美は自身の体を抱き締め、嗚咽が漏れそうになるのを堪えた。
雷獣たちが慰めるように伊邪那美の頬を舐め、それに彼女はふっと微笑んだ。
ここでも一人ではないのだから、きっと耐えられるはず。
「伊邪那美!」
そう思い込もうとしていたのに、最愛の人がその決意を揺るがした。
「伊邪那岐……?」
古墳のような御殿の岩扉が叩かれ、涙が出そうになるほど愛おしい声が聞こえてきた。
「僕だ、伊邪那岐だ! そこにいるんだろう!? 君を迎えに来たんだ!!」
震えながら伊邪那美は声を振り絞った。
「……帰れって言ったでしょ……」
動揺を押し隠すように彼女は叫んだ。
「泉守道者から伝言を聞かなかったの? ボクはさ、キミと国産みなんかしたせいであんな目に遭ったんだよ!? 戻るわけがないじゃないか!」
「だったら、それを面と向かって言ってほしいんだ!」
「!?」
「伊邪那美、君とは互いに相手と向き合って一緒になった。だから、別々になる時も、同じようにしてほしいんだ。せめて最後にもう一度だけ君を見て別れたい」
「……」
伊邪那美もそうしたかった。
今の自分が伊邪那岐たちともう一緒に暮らせないのは分かっていた。
それなら、伊邪那岐の言う通りせめて最後にもう一度だけ彼と向き合い、本当のことをちゃんと伝えたかった。
暗闇にぼんやり浮かぶ手を伊邪那美はじっと見詰めた。
その身を黄泉に馴染ませる黄泉竈食いを済ませ、伊邪那美の体は既に黄泉の色に染まっていた。
おかげで暴走する呪力を抑えられているのだが、その姿を伊邪那岐に見られたくはなかった。
(でも、伊邪那岐にお別れを言う間くらいなら、見た目を粧うことは出来るかも)
淡い希望が伊邪那美の胸に湧き起こり、それが彼女の判断を狂わせた。
伊邪那美は自身の外見に呪術を施そうとした。
その術が危うい均衡の上に鎮まっていた伊邪那美の力を再び暴れさせ、彼女に苦悶の悲鳴を上げさせた。
◆
扉を隔てても伊邪那美の叫びは伊邪那岐の耳に届き、何やら犬のものらしき吠え声も聞こえてきた。
黄泉に棲まう異形の犬に伊邪那美が襲われているのか。
居ても立ってもいられなくなった伊邪那岐は、扉を破って御殿の中に入った。
「伊邪那美!」
光が岩扉から洞窟のような屋内へと差し込み、そこにいた伊邪那美を照らし出した。
「……!?」
確かに照らし出されたのは伊邪那美だった。
しかし、伊邪那岐が知っている姿の伊邪那美ではなかった。
いや、正確に言えば伊邪那美たちだった。
伊邪那美の体は一人のものではなかった。
その身には八頭の雷獣が融合していた。
血の気が失せた伊邪那美の肌は、以前よりも白くなっており、銀色の長髪は美しく、衣を着崩した姿も妖艶な色香を感じさせ、それらが却って異形と化した彼女の不気味さを引き立てた。
そして、屋内から吹く冷たい風が伊邪那岐の頬を撫で、饐えた臭いを運んできた。
その元となったものが蛆虫のごとく伊邪那美の体にこびり付いているのを目にし、伊邪那岐も黄泉神たちが異形と化しながらも暴走する呪力をどのように抑制しているのか悟った。
黄泉神たちは呪力を通い合わせることで体をも自在に接合させ、融合と分離を繰り返し、互いに相手の力を相殺して暴走を抑止していたのだ。
それが具体的にはどのような行為を意味するか。
それは伊邪那美の体にこびり付いたものが雄弁に物語っていた。
その事実に伊邪那岐は表情を強張らせたが、彼を固まらせたのはそれだけに留まらなかった。
「あっ、あぁ……」
別天津神に劣らぬ神威が伊邪那岐の肌を粟立たせた。
黄泉神となったことで伊邪那美の力は何倍にも膨れ上がっていた。
それが暴れ狂っているのだ。
「あああああぁぁぁっ!」
そう、伊邪那美は狂っていた。
呪力が暴走しただけではなく、自身の姿を伊邪那岐に見られ、黄泉で何をしていたか彼に悟られて。
あらゆるものが崩れて狂う他なかった。
典拠は以下の通りです。
急峻な坂を上っていった彼方に黄泉国がある:『日本霊異記』
泉守道者が伊邪那岐神に伊邪那美神からの伝言を告げる:『日本書紀』