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【Season2】白い羽根の彼女を守るため、ただの高校生だった俺は勇者になる  作者: 東雲 明
第11章 アルカヌム島編

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第156話 皇帝にならない父

 黒鉄の冠が、頭蓋を内側から押し広げるように沈み込んだ。


 玉座の背に縫いつけられた鎖が左腕を引き、肘から肩へ、肩から胸へ、冷たい重みが這い上がってくる。右手に握らされた杖は、ただの金属ではなかった。掌の皮膚を割って血管の奥へ根を伸ばし、そこから灰色の岩山に囲まれた要塞都市の全景が、俺の瞼の裏に流れ込んできた。


 アルカヌム島の北部。霧をまとう岩山の狭間に、黒い城壁が幾重にも連なっていた。尖塔は曇天を突き、城門の上には欠けた紋章が浮かび、石畳の道には青白い光を帯びた文様が脈打っている。風は岩肌を削り、遠くの断崖から落ちる滝は白い糸のように揺れ、その下で要塞都市全体が、巨大な獣の肺のように膨らみ、縮んでいた。


 俺の指先が、勝手に動いた。


 杖の先が、床を叩く。


 たった一度。


 石の広間を埋め尽くす空気が、膝を折った。


 並んでいた石像兵の首が同時に垂れ、壁に刻まれた法の浮彫が青白く燃え、玉座の間の奥に垂れ下がる黒い旗が、誰の手も借りずに真っ直ぐ伸びる。灰色の岩山の向こうから、城壁の上に立つ幻の兵たちがこちらを向き、門の前で膝をつく気配が、足裏から背骨まで一気に駆け上がった。


 喉の奥が、震えた。


 俺が命じれば、動く。


 俺が止めれば、止まる。


 俺が許せば、生きる。


 俺が捨てれば、消える。


 胸の中にあった迷いも、恐れも、焦りも、まるで手のひらの上に落ちた砂粒みたいに小さく見えた。今まで守ろうとして必死に伸ばしてきた手が、急に世界そのものを掴めるほど大きくなったようで、息を吸うだけで、玉座の間の柱が鳴り、城壁の外の霧まで俺の呼吸に合わせて揺れる。


 これが、帝王の力か。


 唇の端が、上がりかけた。


 重い冠が額を裂き、流れた血がこめかみを伝っても、痛みより先に甘い熱がきた。杖を握る右手の骨が軋み、鎖に縛られた左腕の皮膚が赤く擦れても、その全部が力の証みたいに思えてくる。俺の前にひざまずく石像兵たちが、次の命令を待っている。壁の浮彫に刻まれた人々が、俺の裁きを待っている。床に広がる紋様が、俺の言葉を欲しがっている。


 支配すればいい。


 全部、俺の形にすればいい。


 誰も迷わないように、誰も間違えないように、誰も傷つかないように、俺が決めてやればいい。


 そうすれば、ミユウは傷つかない。


 アインも、ジュリアも、怖い思いをしない。


 俺の目の届く場所に置いて、危ないものを全部遠ざけて、必要な道だけを選ばせてやればいい。泣かせるものを壊し、近づく刃を砕き、逆らう者を黙らせればいい。守るためなら、腕一本どころか、世界の首根っこを掴んででも——。


「……あなた」


 声がした。


 玉座の間の奥ではない。


 城壁の外でもない。


 俺のすぐ近くで、細い指が、鎖に触れた。


 ミユウの手だった。白い指先が、黒い鎖の冷たさに震えながらも離れない。彼女の銀の髪は青白い魔法光を受けて淡く光り、頬には乾ききらない跡が残っていた。俺を見る瞳の中に、玉座も、冠も、杖も映っているのに、その奥で探しているのは、そんなものじゃなかった。


「あなた、本当の自分を思い出して」


 その声は、命令ではなかった。


 叱る声でも、泣き崩れる声でもなかった。


 俺の胸の奥、冠の重みがまだ届いていない場所を、両手で包むみたいに呼んでいた。


 俺は杖を握ったまま、ミユウを見下ろした。


 見下ろした。


 その一瞬、自分の目線の高さに吐き気がした。


 俺は、ミユウを見下ろしていた。


 守りたい相手を、玉座の上から。


 喉に引っかかっていた熱が、急に錆びた味になった。冠の内側から流れてくる力は、まだ甘く、まだ強く、まだ俺の指を動かそうとしている。杖を振れば、ミユウの震えも止められる。アインとジュリアの涙も止められる。誰かが苦しむ前に、その道を塞げる。


 でも、それは。


 俺が怖いものを、全部檻に入れるだけだ。


 俺の不安を消すために、みんなの足元から道を奪うだけだ。


 左腕の鎖が、音を立てて締まった。


 黒い玉座の肘掛けから、冷たい棘が伸びる。背中へ食い込み、逃げようとする体を押し戻してくる。頭上の冠がさらに沈み、視界の端が黒く染まった。俺の中に流れ込んだ都市の幻が、いっせいに俺へ膝をつく。城門も、塔も、石像兵も、法の浮彫も、全部が同じ形に折れ曲がる。


「パパ……」


 小さな声が、足元からした。


 アインが、ミユウの後ろで俺のマントの裾を握っていた。指はぎゅっと丸まり、爪が布に埋もれている。顔を上げきれないまま、唇だけが震えていた。


「こわいかお、やだ」


 その横で、ジュリアがミユウの服にしがみつき、涙で濡れた頬を押し当てていた。小さな手が、空いている方へ伸びる。俺まで届かないまま、何度も空を掴む。


「パパ、こっちみて」


 杖の先が、床を擦った。


 石像兵たちが、一斉に剣を抜く。


 俺の迷いに反応したのか、試練が俺を玉座へ押し込もうとしているのか、黒い甲冑のような石の体が軋み、青白い目だけがミユウたちへ向いた。壁の浮彫から刻まれた人影が浮き上がり、長い腕を伸ばす。法を破った者を裁くように、自由に動くものを押さえつけるように。


 俺の右手が、勝手に上がった。


 命じろ。


 従わせろ。


 守るために、支配しろ。


 喉の奥に、言葉がせり上がる。石像兵を止める言葉ではない。ミユウも、アインも、ジュリアも、そこから動くなと縛る言葉だ。俺のそばにいれば安全だ。俺の決めた場所にいれば傷つかない。俺が全部背負うから、何も選ぶな。


 言いかけた舌を、歯で噛んだ。


 血の味が広がった。


 俺は、右手の杖を見た。


 金と黒の装飾が絡み合い、先端には青白い宝石が脈打っている。握っているだけで、城壁も兵も法も動かせる。どんな敵より強く、どんな刃より速く、どんな盾より硬い。俺がずっと欲しかったはずの、誰にも奪われない力。


 違う。


 俺が欲しかったのは、こんな力じゃない。


 ミユウの涙を黙らせる力じゃない。


 アインとジュリアの足を止める力じゃない。


 誰かの怖さを、上から押し潰して消したふりをする力じゃない。


「……俺は」


 声が掠れた。


 冠がこめかみを締めつける。鎖が左腕を引き裂く。玉座の背が、俺の背骨を飲み込もうとする。


 それでも、俺は足の裏を床に押しつけた。


「俺は、家族を俺の思い通りにしたいんじゃない」


 石像兵の剣が、ミユウの前で止まる。


 俺の右手は、まだ杖を握っている。


 指が震えた。


 離せば、この力を失う。


 離さなければ、俺はこの玉座から降りられない。


「転ばないように道を消すんじゃなくて、転んでも立てる場所を作りたい。怖いものを全部奪うんじゃなくて、怖くても戻れる腕でいたい。間違えない世界じゃなくて、間違えても壊れない家族でいたい」


 言い終える前に、杖が熱を帯びた。


 掌の皮が焼ける。


 俺は歯を食いしばり、右手を開いた。


 杖が落ちる。


 床に触れた瞬間、青白い宝石が砕け、玉座の間に張り巡らされていた法の紋様が、硝子のように割れた。石像兵の剣が砂になり、壁の浮彫から伸びていた腕が崩れ、黒い旗が風を失って垂れ下がる。


 だが、鎖は切れなかった。


 むしろ、俺の左腕をさらに強く玉座へ縫いつけた。


 黒鉄の冠が、俺の額から血を吸い上げる。視界が白く弾け、膝が落ちかけた。玉座の奥から、低い唸りが湧く。捨てるなら潰す。降りるなら砕く。支配を拒むなら、お前ごとこの秩序の外へ弾き出す。そんな声ではない声が、骨の中で鳴った。


「あなた!」


 ミユウが鎖に両手をかけた。


 細い指が黒い鉄に食い込み、白い光が滲む。けれど鎖はびくともしない。ミユウの肩が震え、白い羽の気配が背中で一瞬だけ揺らめいた。彼女は唇を噛み、俺から目を逸らさない。


「思い出して。あなたが、いつも選んできたものを」


 俺が、選んできたもの。


 剣を握った日。


 何も分からない世界で、ミユウの手を取った日。


 アインとジュリアを初めて抱いた日。


 強くなる理由が、誰かを跪かせるためではなかったこと。


 守るという言葉の中に、閉じ込める意味なんてなかったこと。


「パパ」


 アインが裾から手を離し、俺の左足に抱きついた。小さな体が震えている。顔は見えない。けれど、布越しに熱い頬が押し当てられた。


「いかないで」


 ジュリアも、ミユウの服から手を離し、よろけながら近づいてきた。途中で足がもつれ、膝をつき、それでも小さな手を伸ばす。


「て、つなぐ」


 俺は、左腕を引いた。


 鎖が肉に食い込む。骨が軋む。玉座が俺を離さない。支配者の席は、座った者に降りる自由を与えない。帝王の力は、持った者に捨てる痛みを許さない。俺の左肩から血が流れ、指先が冷え、視界の端でアインとジュリアの輪郭が滲む。


 それでも、俺は右手を伸ばした。


 まず、アインの髪に触れた。


 柔らかくて、汗で少し湿っていた。


 次に、ジュリアの指を握った。


 小さくて、冷たくて、震えていた。


 その感触が入ってきた瞬間、玉座の奥で鳴っていた声が遠のいた。


 俺は、もう一度息を吸う。


 要塞都市の幻が、変わり始めた。


 黒い城壁に刻まれていた紋様の一部がほどけ、石畳の道へ柔らかく流れ出す。門の前で膝をついていた幻の人影が、ゆっくり顔を上げる。尖塔の上に絡みついていた鎖が切れ、灰色の岩山を覆っていた霧の隙間から、淡い光が差し込む。


 すべてを同じ高さに押さえつけるための秩序ではなく、ぶつかった時に支えるための枠。


 好き勝手に壊す自由ではなく、誰かの手を踏まないために覚える重み。


 俺は、それを選ぶ。


 守るために命じるんじゃない。


 守るために、そばに立つ。


「アストラルフレイム」


 右手の中に、青白い炎が生まれた。


 剣の形を取った光は、杖のように俺へ命令を流し込んではこない。ただ、掌の痛みと一緒に重さを返してくる。握るのは俺だ。振るのも俺だ。届かないかもしれない場所へ、それでも腕を伸ばすのも俺だ。


 俺は剣を逆手に持ち、左腕を縛る鎖へ刃を当てた。


 黒鉄が悲鳴を上げる。


 玉座の背もたれから無数の棘が伸び、俺の肩と脇腹を押さえ込む。冠がひび割れた額へ食い込み、血が片目に流れ込んだ。視界の半分が赤く染まる。それでも、俺は刃を引かない。


「俺は、皇帝にならない」


 鎖に亀裂が走った。


「俺は、父親でいる」


 刃を押し込む。


 青白い炎が鎖の内側へ潜り込み、黒い鉄を内側から焼いていく。玉座の間全体が揺れ、天井の石片が落ち、床の紋様が波のように歪んだ。ミユウがアインとジュリアを抱き寄せ、けれど俺の右手に触れる距離だけは残してくれる。


 俺はその距離に、息を詰まらせた。


 縛らない。


 押し込めない。


 守る腕は、檻じゃない。


 鎖が、砕けた。


 左腕が自由になった瞬間、玉座が背後で崩れ、黒鉄の冠が俺の頭から外れて床に落ちた。重い音が広間に沈む。砕けた冠の破片が青白い火を散らしながら転がり、石像兵たちの体も、壁の浮彫も、黒い旗も、灰になって風へほどけていく。


 俺は膝をついた。


 石の床が冷たい。


 左腕は痺れ、右手は焼け、額から落ちた血が顎を伝って床に落ちる。その一滴が割れた紋様に触れると、要塞都市の幻が最後にひとつだけ形を変えた。


 城壁の門が、開いていた。


 中から外へ、外から中へ、どちらにも行ける門だった。


 ミユウが俺の前に膝をつき、両手で俺の頬を包んだ。指先は震えていたのに、触れ方は強かった。銀の髪が俺の腕に落ち、白い光が傷口に滲む。


「あなた……戻ってきてくれた」


 俺は返事をしようとして、喉の奥で息を詰まらせた。


 アインが俺の膝にしがみつく。


「パパ、いた」


 ジュリアが俺の指を握り、涙で濡れた顔を上げる。


「パパ、て、はなさないで」


 俺は、二人の小さな手を握った。


 握り返せるだけの力が、まだ残っていた。


 ミユウの額が、俺の額に触れる。血と汗と白い光が混ざり、冷えた石の匂いの中で、彼女の息だけが近い。崩れた玉座の奥で、最後の黒い鎖が床を這うように震えた。


 俺はアストラルフレイムを握り直し、まだ冷たい指先で、ミユウと子どもたちの手の熱を確かめた。

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