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【Season2】白い羽の彼女と、勇者になれなかった俺の旅  作者: 東雲 明
第9章 ヴェイリノクス島編

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第132話 池に沈んだ約束

 黒い羽が、木々の隙間から落ちてくる薄い光を呑み込みながら、音もなくひらいた。


 潮を含んだ風が森の奥まで入り込み、湿った葉擦れのあいだから、見覚えのある銀髪だけが場違いなほど白く浮く。


 その顔を見た瞬間、喉の奥で何かが引っかかり、抜こうとしても抜けず、俺は剣の柄にかけた指だけを強くした。


 隣でミユウの肩がわずかに揺れ、その揺れが風のせいではないとわかったときには、もう目の前の女は、昔の名でしか呼べないところまで来ていた。


 リリアは笑わなかった。笑わないまま、俺たちではなく、ミユウの胸元に揺れるネックレスだけを見た。


 あの細い鎖が、ここへ来るまで何度もミユウの指先に確かめられてきたことを、俺は知っている。


 夜の焚き火の前でも、船の上でも、彼女はそれに触れ、何も言わず、ただ指の腹で重みを測るように撫でていた。


 その先にいた相手が、今、俺たちの目の前で、まるで見知らぬ石ころでも見るような目を向けている。


 池の水面は風もないのにかすかに揺れ、そこへ向かってリリアの手がひとつ動いた。


 次の瞬間、銀の軌跡が光を裂いて飛び、吸い込まれるように水へ落ちる。


 小さな音だった。だが、そのひとしずくみたいな音が、この島の森じゅうに広がったように感じた。ミユウの息が止まり、俺の横でアインが「ママ……?」と細く呼び、ジュリアがその袖をぎゅっとつかむ。返事をしたのはミユウじゃない。水面の輪を見つめたままのリリアが、ようやく唇を開いた。


「そんなもの、まだ持っていたのね」


 冷たい声だった、とは言わない。ただ、その声が耳に届いた瞬間、


 夏でもないのに首筋の汗が冷え、皮膚の下を細い刃でなぞられたみたいに筋が立った。


 ミユウは一歩だけ前に出た。白い羽がわずかにひらき、すぐ閉じる。飛ぶためじゃない、踏みとどまるための動きに見えた。


「リリア……」


 その名のあとに続くはずだったものは、声にならなかった。


 言葉より先に、森の奥からいくつもの気配が滲み出たからだ。


 枝の上。苔むした岩陰。池を囲う細い木々の向こう。


 最初は影だった。次に羽の輪郭が見え、最後に顔があらわになる。 


 黒く染まった羽。白いころの面影だけをわずかに残した輪郭。ミユウが息を吸う音が、耳元で破れた布みたいに頼りなく震えた。


「……そんな」


 その一言だけで十分だった。知らない敵へ向ける目ではなかった。記憶の底に沈めていた名前が、いま一斉に浮かび上がり、それが全部、刃の届く位置に立っている。


 俺は剣を抜きかけた手を止めた。止まってしまった、のほうが近い。


 目の前の連中は、たしかにこの島の闇に汚れた堕天使の姿をしていたが、ミユウの横顔に走ったものを見た瞬間、肉を裂くための力が腕から抜けた。


 女たちはそれぞれ高さの違う枝や岩に身を預け、まるで昔の放課後の続きでも始めるようにミユウを見ていた。けれど声は、あまりにも乾いていた。


「久しぶり、最高天使イリゼ


「まだそんな羽で立っているなんて、息苦しくないの」


「わたしたちはもう、重たいものを全部捨てたわ」


 最高天使イリゼ。その呼び名がこの場では刃より鋭く働いた。ミユウの肩が小さく震え、指先がわずかに丸まる。


 俺は前へ出ようとして、半歩で止まった。


 目の前に立つのがただの敵なら、迷う余地なんかない。


 だが、ミユウが昔、同じ教室で、同じ空を見て、笑い合っていた相手だと知った瞬間、剣を振るえばそれごと断ち切る気がした。


 守るために抜く剣が、守りたいものの奥にある時間まで切り裂く。その感触が、まだ刃を抜いてもいない掌に先回りしてきた。


 アインが俺の服の裾を引いた。


「パパ、あのひとたち、わるもの?」


 すぐ答えられなかった。悪い、というひとことで届く相手なら、こんなに厄介じゃない。俺は視線を外さないまま、低く言った。


「……ママのうしろにいろ」


「でも、ママ、いたそう」


 ジュリアの声はか細く、けれど耳に刺さる。


 見れば、ミユウの頬は血の気を失っていて、それでも一歩も引いていない。


 あの背中を見ていると、支えたいと思うより先に、支えを拒まれてしまう気さえする。彼女は今、妻でも母でもなく、昔の名で呼ばれたままの場所に立っていた。


 リリアが枝から降りる。靴先が湿った土を踏んだだけで、周囲の空気が少し沈んだ。彼女は池ではなくミユウだけを見た。


「あなた、まだ間に合うわ」


 その言葉に、ほかの堕天使たちがゆるく笑う。楽しげではない。乾いた葉を指で潰すみたいな、軽く、すぐ形を失う笑いだった。


「こっちへ来なさい、最高天使イリゼ


「もう背負わなくていいのよ」


「守るだの、耐えるだの、そんな重たいもの、似合わない」


「あなたはずっと、無理に光っていたもの」


 ミユウは返さなかった。返さないまま、胸の前で片手を握る。その爪が手のひらに食い込んでいるのが、少し離れた俺の位置からでもわかった。


 俺は剣の柄をさらに強く握り、いつでも飛び出せるよう膝に力を溜める。


 だが、飛び出した先で何を切るのか、その輪郭が定まらない。


 黒い羽か。差し出される手か。ミユウの昔にまとわりつく影か。


 迷いは刃を鈍らせる。わかっている。わかっているのに、目の前にあるのが「誰かの娘で、誰かの友達だったもの」だと知った途端、斬撃の軌道に余計なものが入り込む。


「あなたも、わたしたちと一緒に堕天使になりましょう」


 リリアがそう言ったとき、誘いというより、沈みきった者が水底から手を伸ばしてくる気配に近かった。


 引きずり込むための力はあるのに、そこにいる者自身も、自分が冷たい泥に半分沈んでいることを忘れたみたいな声だ。


「きっと楽になるわ」

「泣かなくて済む」

「見送らなくて済む」

「失う前から震えなくて済む」


 一語ごとに、ミユウの呼吸が浅くなる。羽の付け根がかすかに震え、彼女は一度だけ目を閉じた。


 昔、この連中とどんな日々を過ごしたのか、俺は全部は知らない。


 けれど、知らないからこそ、その沈黙が重かった。今ここで交わされているものは、俺の入れない時間の破片だ。


 あのネックレスも、その時間の中で手渡され、抱えられ、ずっと失くせなかったものなのだろう。


 ミユウがようやく声を出した。


「……あなたたちを、そんなふうに見たくなかった」


 細い声だったが、逃げなかった。その一言で、リリアの目がわずかに細くなる。


 怒ったようには見えない。ただ、差し出した手の上に落ちてきたものが、自分の望んでいた重さではなかったと知ったときの目だった。


「なら、見なければいいの」


 返したのはリリアではなく、左手の指先に黒い光をまとわせた女だった。ミユウの後ろ、アインとジュリアのほうへ視線が流れ、その動きだけで俺の背中に冷たいものが走る。俺はすぐ二人の前へ出た。


「下がれ」


「あ、あなた……」

「いい、来るな」


 ミユウの声を切るように言った。ここで彼女まで守ろうとしたら、全部こぼれる。少なくとも子どもたちは俺が──そう思った瞬間、別の女が枝を蹴った。


 速い。風を裂くというより、もともとそこにいた空気の層を一枚めくって現れたみたいに、距離が消える。


 反射で剣を抜く。金属が鞘を離れる音が森に走り、俺はその刃を、相手の喉ではなく、伸びてきた腕とミユウのあいだへ差し込んだ。


 火花が散る。黒い爪が剣身を掠め、嫌な高音が立つ。受けられた。


 だが斬れない。目の前の女の顔に、笑っていた少女の面影があるとミユウの反応が教えてしまう。俺が一瞬でもためらった隙に、右から別の影が滑り込み、黒い羽の先が鞭みたいにしなってミユウの肩を打った。


 鈍い音。白い羽が乱れ、彼女の体が横へ弾かれる。


「ミユウ!」


 叫んだ声が自分のものとは思えないほど荒れていた。


 踏み込んだところへ、今度は足元の土が黒く染まり、影が絡みつくように盛り上がる。


 飛び退く。遅れた爪先を冷たい何かが掠め、布が裂けた。すぐ前でリリアが指を払う。その仕草ひとつで、空気が針になって降ってくる。俺は剣で払い、背後にいる子どもたちへ腕を広げた。


「走るな、しゃがめ!」


「はい……!」

「パパ……っ」


 二人の声が震え、振り向きたくなるのをこらえる。そのわずかな隙に、ミユウが立ち上がっていた。


 肩口から血が伝って白い衣を染めている。それでも彼女は、自分の傷を確かめるより先に、俺たちの前へ出ようとする。


「やめろ!」


 声が飛ぶ。だが、やめなかった。ミユウは白い羽をひらき、俺の前へ滑り込む。その羽が盾みたいに広がった瞬間、無数の黒い光が叩きつけられた。


 肉を穿つ音じゃない。もっと湿っていて、布と骨と息がまとめて押しつぶされるような音だった。彼女の体が一度のけぞり、それでも踏みとどまる。背中越しに、肩甲骨のあたりが細かく震えているのが見えた。


「どうしてまだ守るの」

「そんなもの、もう捨ててしまえばいいのに」

「あなたは昔から、ひとりで抱え込みすぎたわ」


 声が四方から降る。責めているのか、泣いているのか、境目が曖昧だった。


 ミユウは息を詰めたまま、片手を前へ突き出す。


 白い光が弧を描き、一人の堕天使を押し返す。


 けれどその反動で、彼女の膝が地面に沈んだ。


 俺は影を蹴り破って前へ出る。ここで迷っている場合じゃない。


 そう頭ではわかる。だが、剣先が相手の首筋へ届く寸前、ミユウが昔呼んだであろう名が、聞こえもしないのに脳裏へ差し込んでくる。結果、俺の刃は急所を外れ、羽の縁だけを裂いた。


 黒い羽が散る。血ではなく、煤みたいな粒が舞った。


 浅い。


 舌打ちが喉の奥で焼ける。こんな半端な斬撃を何度重ねても守れない。俺は守るためにここにいるのに、目の前の現実は、守るという意志だけでどうにもならない形に崩れていく。


 リリアが、ようやく俺を見た。


「あなた、邪魔よ」


 静かな声と同時に、池の水面が持ち上がる。水そのものじゃない。


 底に溜まった闇まで掬い上げたみたいな、鈍く重い塊がいくつも空中へ浮かび、槍の形を取る。


 俺は子どもたちの前へ戻るしかなかった。戻る、その一歩が致命的に遅い。ミユウの視線も俺と同じものを見たのだろう、彼女が唇を噛み、俺たちへ向かって羽を広げる。


「あなた、子どもたちを──」


 最後まで聞かなかった。槍が放たれるより早く、リリアの指先がすっと動いたからだ。攻撃の合図ではない。もっと軽い、払うような仕草。それだけで、アインとジュリアの足元に淡い黒が円を描いた。


「パパ?」


 アインの声がひどく近くでして、次の瞬間には遠くなった。


 振り返ったとき、二人の輪郭が透けていた。最初は陽炎みたいな揺らぎ。次に、服の色が背景に溶ける。ジュリアが目を見開き、小さな手を俺へ伸ばす。


「パパ、やだ……」

「ママ! パパ!」


 飛びつこうとしても、その体はもうこの場の重さを失いかけていた。


 俺は剣を放り出す勢いで手を伸ばす。指先が触れた。


 たしかに、触れた。なのに掴めない。冷たい水の表面に掌を押しつけているみたいに、そこにあるはずの体が指のあいだから滑る。


「やめろッ!!」


 怒鳴り声が森を裂く。リリアは瞬きひとつしない。俺の叫びも、子どもたちの泣き声も、その耳には届かないものの列に並べられている。


 アインが最後に見せたのは、泣き顔じゃなかった。歯を食いしばって、消えていく自分の手を見下ろし、それでも俺のほうを見た顔だった。


 ジュリアはその袖を掴もうとして、空を掴んだ。二つの小さな影が淡くほどけ、霧みたいに薄くなり、次の瞬間、そこにはもう湿った土しかなかった。


 何もない。


 何もない場所に、俺の手だけが空を切る。


 耳鳴りがした。世界が一度白くなり、すぐ黒へ沈む。


 呼吸の仕方を忘れたみたいに胸が動かず、腹の奥が熱く縮む。目の前でミユウがよろめいた。


 子どもたちが消えた場所を見ている。その目に映っているものを、俺は見たくなかった。


「返せ」


 自分でも驚くほど低い声が出た。喉を通るたびに血の味がした。


「返せよ……!」


 踏み込む。今度こそ迷わない、そう思った瞬間、黒い羽が四方から重なる。


 ミユウの元クラスメイトたちが、俺を止めるためではなく、ミユウへ向けていっせいに動いた。


 彼女たちにとって、奪うべきものは最初から俺じゃない。俺の背後で、子どもたちのいた場所が空になった今、狙いはひとつに絞られていた。


「あなたも、もうわかったでしょう」

「守っても消える」

「抱いてもこぼれる」

「だったら、こちらへ来なさい」


 言葉と同時に、黒い光が幾筋も走る。ミユウはそれを避けなかった。避けきれなかったのではなく、俺にはそう見えた。


 肩、腕、脇腹、羽の根元。白い衣が裂け、血が細く飛ぶ。彼女の体がぐらりと揺れ、それでも膝をつかない。踏みとどまるたび、土に赤い雫が落ちる。俺は駆ける。今度こそ間に合えと、肺が潰れるほど息を押し出す。


 だが、その前にリリアがいた。


 彼女は俺を見ず、血に濡れたミユウだけを見つめ、ひどく静かに言った。


「あなたはまだ、そんなものを追うの」


 そんなもの。池に沈んだネックレスのことだと、すぐわかった。


 ミユウの視線が、初めてそこで揺れた。子どもたちの消えた空間と、黒い羽に囲まれた現実と、その奥にひそむ池の水面。


 その三つのあいだで、彼女の目だけが細くさまよう。次の瞬間、リリアの指先から弾かれた黒い光がミユウの肩口を打ち、彼女の体が大きく後ろへ流れた。


 倒れる、と思った。俺は手を伸ばす。


 届かない。


 ミユウは地面を二歩、三歩とよろけ、その足が向かった先は俺じゃなかった。池だ。


 水面にはさっき投げ捨てられた鎖の気配がまだ沈んでいる。見えるはずがない深さなのに、彼女にはそこにあるとわかっているらしかった。血で濡れた指が宙を掴み、唇がかすかに開く。


「……やめろ、ミユウ!」


 叫んだ。命令でも懇願でもなく、ただ喉が裂けるままに出た声だった。


 彼女は振り向かなかった。


 白い羽の端が泥と血で重く垂れ、片方は何本も羽軸が折れている。それでも、その背中には妙な静けさがあった。


 壊れかけたものだけが持つ、これ以上削る場所のない静けさだ。池の縁で一瞬だけ足が止まり、俺はその一瞬に全力を投げる。届け。せめて指先だけでも。


 ミユウの肩が、ほんのわずかに震えた。


 それが俺の名に反応したのか、池の底に沈んだ記憶に引かれたのか、わからない。


 次の瞬間、彼女はその傷だらけの体のまま、水面へ身を投げた。


 白が沈む。


 音は小さい。水しぶきも高くは上がらない。重たいものが静かに呑まれるときの、嫌にやさしい音だけが残った。


 俺は池へ駆けた。背後で黒い羽が鳴る。リリアたちの気配が動く。だがもう、そんなものに構っている余裕はなかった。


 水際の泥に足を取られ、膝から崩れ落ちる。手を突っ込む。冷たい。指の間をすり抜ける水の奥に、白も銀も見えない。ただ、自分の荒い呼吸だけが水面を揺らし、その歪んだ揺れの下で、何かがさらに遠くへ沈んでいく気配だけがあった。

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