第131話 俺の居場所はここだ!
潮の匂いが、夕餉の湯気にまじっていた。
船腹を打つ波の音は昼より重く、木の床の下で鈍く鳴りつづけ、その振動が皿の縁にわずかな震えを移している。
吊るされたランプの火は一定の明るさを保てず、海のうねりに合わせて細くなったり膨らんだりを繰り返し、そのたび卓を囲む顔ぶれの影が揺れた。
まだ幼いアインとジュリアの前には、ミユウがよそった温かな煮込みがあり、焼いた白身魚から立つ香ばしい匂いが、張りつめかけた胸の内側をひとときだけ日常へ引き戻してくれる。
なのに、その日常に手を伸ばすほど、指先の奥では別の冷たさが目を覚ましはじめていた。
潮騒に紛れて聞こえる気がしたのは風ではない。深く閉じたはずの扉の向こうで、誰かが爪を立てているような、不快な気配だった。
アインが木匙を握りしめたまま顔を上げる。
「つぎのしま、もうすぐなの?」
その声はいつものようにまっすぐで、まだ何も知らない子どもの明るさを保っていた。
ジュリアも口元に湯気をまとわせながら、兄の横でこくりと頷く。
「おにぃちゃん、しまについたら、またおそとあるける?」
小さな期待が、卓の上に置かれたパン屑みたいに軽く転がった。
俺は手にしていた杯をいったん置き、指先に残った冷えを拭うように掌を擦った。
何でもないふうを装うには、呼吸の長さまで整えなければならない。
ミユウは向かいで子どもたちの皿を見守っていたが、俺が言葉を探した気配を察したのか、白い指を止めて視線を上げた。その金の瞳が、火影を映して静かに揺れる。
「次に向かうのは、ヴェイリノクス島だ」
それだけで済めばよかった。島の名を告げるだけで、ただの航路の話として夕食を終えられたなら、どれほど楽だったか。
だが、舌に乗せたその響きは、思っていた以上に重く、喉の奥をざらつかせた。
ミユウの睫毛が、はっきりと震えた。
卓の下で船が軋む。長く引いた波の底鳴りが、嫌な間を作った。
アインとジュリアはまだきょとんとしている。二人にとっては、島の名前など地図の上の印にすぎない。
だが俺たちにとって違う。あの島は土地ではない。爪痕だ。傷口だ。踏み込めば、過去そのものが足首に絡みついてくる。
俺は子どもたちの様子を見てから、声量を落とした。穏やかに聞こえるように。父親として、食卓を壊さぬように。
「あの島には、厄介な魔力が宿ってる。見たものを惑わせる類の幻じゃない。もっと質が悪い。胸の底に沈めた記憶を勝手に引きずり上げて、癒えたふりをしていた傷に、また指を差し込んでくるような力だ。過去の痛みを霧みたいに立ちのぼらせて、逃げ場のない形で目の前に置いてくる」
言葉にするたび、口の中に薄い鉄の味が広がった。思い出しているのではない。もう、呼び戻されている。そんな感覚があった。
ミユウの手から匙が落ちた。
硬い音が卓の縁を打ち、皿に当たり、止まる。彼女の肩が目に見えて強張り、白い喉が小さく上下した。
呼吸を整えようとしているのに整いきらず、胸元だけが浅く、速く動く。指輪の光る左手が無意識に卓布を掴み、その細い指先に力が入りすぎて、白さが際立った。
「リリア!」
その名は悲鳴に近かった。
呼ばれた瞬間、船室の空気が一段冷えた気がした。
ジュリアがびくりと身体をすくめ、アインが反射的に妹の肩へ手を伸ばす。
ミユウは自分で名を口にしたことに怯えたように、すぐ唇を押さえたが、遅かった。瞳の焦点が、今この船室ではなく、もっと遠い場所へ連れ去られている。
ヴェイリノクス島。
あの風。あの匂い。濡れた岩肌に絡む黒い気配。
そして、かつて確かにミユウの心に触れていたはずの存在が、別の何かへ変わっていくあの瞬間。
「ママ……?」
ジュリアの小さな声に、ミユウはすぐ返事ができなかった。
喉が締まっているのが見て取れた。ようやく彼女は娘へ視線を向けるが、笑みを作ろうとした口元は形を保てず、かすかに揺れた。
「だいじょうぶ……よ」
そう言いながら、膝の上の手は震えていた。
アインが椅子から少し身を乗り出す。
「ママ、そのしま、いやなの?」
幼いくせに、こういう時だけ妙に鋭い。空気の変化を嗅ぎ取る鼻を、勇者の血が育てているのかもしれない。
ミユウはすぐには答えず、ただアインを見つめた。見つめることで、崩れそうな自分を縫い止めようとしているようだった。
俺は唇の内側を噛んだ。
勇者として。
夫として。
父親として。
その三つが、胸の中で綺麗に並ぶことはない。いつだってどれかがどれかを傷つけ、守ろうとしたぶんだけ別の何かを追い詰める。
敵を斬れば終わる話ではない。勝てば済むとも限らない。家族の前で恐れを見せずにいることと、ほんとうに恐れをねじ伏せることは違う。
俺は剣を握ればまだどうにかなる。だが、妻の中で蘇る過去まで断ち切れるのか。
子どもたちの目の前で、父として揺るがず立っていられるのか。これから先も、何度でも。
守れるのか。
その問いが、ひとつ浮かんだだけだった。
次の瞬間、胸の奥で何かが強く捩れた。
息を吸おうとしても、肺の手前で見えない手に掴まれたみたいに止まる。
肋骨の内側へ熱した針を何本も押し込まれたような痛みが走り、遅れて、心臓が不規則に跳ねた。
ひとつ、大きく脈打つ。次が来ない。来たと思ったら速すぎる。身体の内側だけが足場を失って、胃の底が一気に冷えた。
「……っ」
声にならない息が漏れ、視界の端が暗く欠ける。
卓の木目が波打って見えた。掌に汗が噴き、指先から体温が逃げていく。
ここで崩れるわけにはいかない。そう思った瞬間ほど、身体は言うことを聞かない。喉が狭まり、呼吸が細く千切れ、耳の奥で血の流れる音だけが妙に大きくなる。
ミユウが椅子を引く音がした。
「あなた?」
その一言に振り向くだけで、首筋にまで痛みが跳ねる。だが俺は、卓の縁にかけた手へ力を込め、爪が白くなるほど握りしめて、どうにか顔色を戻すふりをした。
「パパ?」
ジュリアの声。
アインも立ち上がりかけている。
駄目だ。ここで子どもたちの前に落ちるわけにはいかない。恐れは伝染する。父親の崩れる音は、子どもの胸に残る。
俺は乱れた拍を押し込むみたいに、一度深く息を吐いた。吐ききれなくても、吐いたふりをした。喉に貼りついた苦さを飲み込む。
「なんでもない」
それだけ言うのにも、胸の奥で棘が動いた。けれど笑って見せるしかない。口角を上げる。引きつった感触が頬に残る。
「少し、疲れただけだ」
ミユウは誤魔化される女ではない。俺の呼吸の浅さも、指先の震えも、唇の色も見逃していないはずだ。
それでも、子どもたちの前で追及はしなかった。彼女もまた母親だった。自分の動揺で空気を壊しかけたことを、もう取り返そうとしている。
アインが唇をきゅっと結ぶ。幼いくせに、守るべきものを見つけた時の顔をする。
「パパ、ぼく、つよくなるよ。ママも、ジュリアも、まもる」
小さな拳が膝の上で握られている。
ジュリアも兄を見上げてから、こくんと頷いた。
「おにぃちゃんがいるもん。パパもいるもん」
その信頼が、胸の痛みより深い場所へ刺さる。
俺は二人の頭を撫でたかったが、今は腕を持ち上げるだけで余計な揺れが走りそうだった。だから視線だけ柔らげる。せめてそれだけは、父親として。
「心配するな」
声は思ったより低く出た。掠れもしたが、崩れなかった。
「少し部屋で休む。おまえたちは食事を続けろ」
椅子を引く。立ち上がった瞬間、床が一度大きく傾いた気がしたが、船の揺れのせいにできる程度には耐えられた。
ミユウがすぐ傍まで来る気配を感じる。羽が擦れるような、ごく微かな衣擦れの音。
彼女は俺の腕を取ろうとして、けれど子どもたちの前で過度に支えることを躊躇ったのか、指先だけが袖に触れて離れた。
「あなた……」
「あとで話す」
短くそう告げて、俺は船室を出た。
廊下は食卓より暗く、板壁に吊るされたランプの火も心許ない。遠くで波が砕け、船体のあちこちから軋みが返る。
歩を進めるたび、胸の奥で不規則な鼓動が嫌な残響を引いた。呼吸を整えようとしても、吸うたびに肋の裏がきしむ。額へ滲んだ汗がこめかみを伝い、首筋へ落ちていく感触が妙にはっきりしていた。
自室に入るなり、背後で扉を閉めた。木の板が嵌まる音が、思った以上に重い。
家族のいる空間と、ひとりで崩れるための空間。その境目が、そこにできた。
部屋の中央に置かれた小卓の上には、水差しとガラスのコップがひとつ。
月明かりが丸窓から細く差し込み、透明な縁だけを青白く光らせている。その静けさが、逆に腹の底を掻き乱した。
守れるのか。
また同じことになるんじゃないのか。
ヴェイリノクス島で、ミユウの過去が牙を剥いた時、おまえは何を差し出せる。剣か。言葉か。祈りか。
それで足りるのか。
「……くそっ」
漏れた声は低く、掠れていた。胸を押さえたまま小卓へ手をつく。だが、指先が触れたガラスの冷たさが、その瞬間だけ妙に癇に障った。透き通っていて、脆くて、簡単に割れる。まるで今の自分の中身を見せつけられた気がした。
次の瞬間には、もう掴んでいた。
コップの縁が掌に食い込み、ひやりとした感触が汗に滑る。理性が止めるより先に腕が振り抜かれ、壁へ向かって叩きつけた。
甲高い破砕音が、狭い部屋に鋭く弾けた。
透明な欠片が白い弧を描いて飛び、板壁に散り、床へ降る。
砕けた瞬間のきらめきだけが一瞬きれいで、その後に残るのは無残な音と、足元へ転がる細かな破片だった。
水が壁を伝って流れ、木目の溝に細い筋を作る。肩で息をしながら、その濡れた跡を睨んでいると、自分の中でも何かが同じようにひび割れていくのがわかった。
苛立ちでは足りない。
恐れだけでもない。
怒りだ。行き場のない怒り。誰へ向ければいいのかも曖昧なまま、胸骨の裏で煮え立つように渦を巻く、濁った熱。
その熱に呼ばれるように、声が蘇る。
――人間界に戻れば。
低く、甘く、傷の上を撫でるふりをして刃を押し当ててくる声。
耳元で囁かれたわけでもないのに、近すぎる。
ヴェイリノクス島の霧の中で、あの女が微笑みながら差し出してきた逃げ道。優しさに見える形で、人を過去へ引き戻し、選び直させようとする誘惑。
――おまえが背負うには重すぎる。
――苦しいだろう。
――人間界に戻れば、全部。
「やめろ……」
声にした途端、胸がまた強く縮んだ。咳き込むほどではないのに、呼吸のたび気道の内側がざらつく。
視界の端で、床に散ったガラス片が月光を拾い、いくつもの小さな目みたいに光る。
――戻れば。
――楽になれる。
――おまえには、本当は。
「黙れ」
押さえた胸の下で心臓が暴れる。脈は速いのに、身体の隅々までは血が届いていないみたいに指先が冷える。膝がわずかに揺れ、立っているだけで床の感触が遠い。
あの声は、弱っている時を狙ってくる。傷が開いた匂いを嗅ぎつけて、そこへ言葉を流し込んでくる。逃げ道を見せる顔をして、居場所を剥がしにくる。
俺は壁へ手をついた。砕けた水の雫が指先に触れ、冷たさが現実を引き戻す。
そうだ。ここは船だ。隣には、家族がいる。泣きながら俺を呼ぶ子どもたちも、俺の背を見つめて耐えてくれているミユウも、すぐ向こうにいる。
戻る場所なら、もうある。
「黙れ! 俺の居場所はここだ!」
叫んだ声が板壁を震わせ、跳ね返って自分の耳へ刺さった。
胸の痛みは消えない。息苦しさも残ったままだ。
だが、それでも、その一言だけは噛まずに出た。今の俺に必要なのは勝利じゃない。立ち位置の確認だ。どこに立つのか、誰の前に戻るのか、それを見失わないことだけだ。
叫びの余韻が沈む。かわりに、扉の向こうの静けさが浮かび上がってきた。
誰かがいる。
気配だけでわかった。息を殺して、けれど立ち去れず、扉一枚隔てた向こうで足を止めている。その細い存在の在り方は、もう身体が覚えている。ミユウだ。
「あなた……」
扉越しの声は、ひどく小さかった。呼びかけであり、祈りであり、壊れ物に手を伸ばすときのためらいでもあった。
彼女もまた、ヴェイリノクス島の名で抉られた傷を抱えたまま、俺の叫びを聞いてしまったのだろう。
俺は答えようとして、すぐには声が出なかった。喉に残る熱と、まだ乱れきらない鼓動が言葉をせき止める。床の破片へ視線を落とす。月明かりの中で、それらは砕けた星みたいに散らばっていた。
踏み出せば、簡単に足を切る。
それでも、扉の向こうには家族がいる。
俺は胸を押さえたまま、ひとつ、浅く息を吸った。まだ痛む。まだ苦しい。まだ何ひとつ終わっていない。ヴェイリノクス島へ着けば、もっと深いところまで抉られるのだろう。ミユウの中の記憶も、俺の中の迷いも、たぶん無傷では済まない。
それでも。
砕けたガラスの向こう、閉ざした扉の向こう、そのさらに先に灯る小さな温もりだけは、何が来ようと手放せない。
そう思った時、さっきまで胸の内で暴れていた熱が、わずかに形を変えた。怒りでも恐れでもなく、まだ名を持たない硬いものへ。
俺は目を閉じ、もう一度だけ呼吸を整えようとした。
扉の向こうで、ミユウの気配は、まだ消えなかった。




