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【Season2 】異世界転生したただの俺、大切な彼女を守るため最強の勇者目指します  作者: 東雲 明
第8章 ノクターンリル島編

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第129話 声を上げて泣く夜

ミユウの唇が、俺の胸元に触れるほど近くで、かすかに震えた。


 夜の海を渡ってきた湿った風が、天幕の合わせ目を細く鳴らし、外では焚き火のはぜる音が、誰かの寝息みたいに遠くで続いていた。


 その頼りないぬくもりの届かない場所で、ミユウだけがひどく冷えているように見えて、俺は抱き寄せた腕にわずかに力を込めたが、それだけで壊れてしまいそうな気がして、すぐに指先の力を抜いた。


 肩に触れた銀の髪は、昼の戦いの名残をまだわずかに含んでいて、乾いた血でも泥でもない、焦げた羽の匂いだけが薄く残っていた。


 白い羽根を持つ者には似つかわしくないその匂いが、あの場にいたはずのない記憶まで連れてくる。


 黒煙。裂ける空。ミユウの瞳に映っていた、信じたくないもの。目を閉じても離れないのは、たぶん俺も同じだった。


 けれど、俺とミユウでは、刺さっている刃の向きが違う。


 腕の中で、ミユウが息を吸った。浅く、途中でつかえるような吸い方だった。


 泣く前の呼吸だとわかったのに、俺は何も言えなかった。ここで下手に名前を呼べば、その一音が最後の堤を壊してしまう。


 だから黙ったまま、背に回した手のひらで、小さく円を描くように肩口をさすった。


 しばらくして、ミユウがようやく口を開いた。


「……ねえ、あなた」


 返事をした声が、思っていたより低く掠れていた。


「ああ」


「わたし、ずっと……見ないようにしていたのかもしれないわ」


 その言葉は独り言みたいに静かだったのに、俺の胸の奥へ落ちた途端、重い音を立てた。見ないようにしていた。


 その短いひとことで、彼女がどれだけ長く自分を責め続けてきたのか、言葉にされる前からわかってしまった。


 ミユウは俺の服を握っていた指を、少しだけ開いて、また閉じた。


 布の皺が細く寄る。その動きが、懐かしい記憶の襞を指でなぞるみたいに、ひどく頼りなく見えた。


「リリアとね、初めてちゃんと話した日のこと、いまでも覚えているの」


 焚き火の明かりが、天幕の布越しに揺れて、ミユウの頬に淡い影を流した。俺はうなずくだけにとどめた。


 続きを急かしたくなかったし、余計な慰めを挟めば、彼女がようやく開いた扉をまた閉じてしまう気がしたからだ。


「まだ学院に入ったばかりのころよ。わたし、あの頃は……いまよりずっと、人とうまく距離を取れなかったの。まわりに誰がいても、どこかで浮いている気がして、教室の窓際ばかり見ていたわ。昼休みも、中庭のいちばん奥、古い泉のところに行って……人の声が届かない場所を選んでいた」


 ミユウの声に引かれて、俺の中に、彼女の知らない過去の風景が形を持ち始める。


 白い石造りの学舎、陽射しを受けて淡く光る回廊、春の終わりの匂い。そこで、まだ俺の知らない少女だったミユウが、ひとりで座っている。


「その日も、パンを半分だけ食べて、あとは包み紙を折って遊んでいたの。そうしたら、向こうから足音がして……わたし、てっきり先輩か誰かに、そんなところで何をしているのって言われると思って顔を上げたのね」


 ミユウがそこで小さく息を呑んだ。過去のその一瞬が、まだ胸のどこかに生きているみたいだった。


「そしたら、リリアが立っていた」


 名前が出た瞬間、天幕の中の空気がわずかに変わった気がした。外の波音がひときわ遠のき、焚き火の音だけが妙に近くなる。


「髪が長くて、陽に透けると少し青く見えて……制服の袖をまくる癖があって、よく先生に注意されていたわ。あの子、初対面なのに、わたしの隣に勝手に座ったの。『ここ、風が気持ちいいね』って。それだけ。名前も聞かずに、泉の水面ばかり見て」


 ミユウの口元が、ほんの一瞬だけゆるんだ。笑った、というほどはっきりしたものじゃない。乾いた土に落ちた一滴の水みたいな、すぐに消える揺れだった。


「わたし、変な子だと思ったわ。普通、最初に言うことじゃないもの。でも、その日の風、本当に気持ちよくて……悔しいけれど、うなずいてしまったの。そしたら、あの子、すごく満足そうな顔をして。『よかった。わたしだけじゃなかった』って」


 その光景が目に浮かぶ。ひとりでいることに慣れてしまった少女と、ひとりでいる相手の隣に遠慮なく座れる少女。最初に交わしたのが挨拶ではなく、風の話だったというのが、いかにもその二人らしく思えた。


「そこから、少しずつだったの。授業が終わると、どちらからともなく泉のところへ行くようになって……雨の日は回廊の端。晴れた日は中庭。試験前は図書塔の上の小部屋。あの子、本を読むのは速いのに、覚えるのは苦手でね。わたしが横から言い直して、リリアがむくれるの。なのに次の日には、わたしの好きなお菓子を買ってきて机に置いてあるのよ。お礼のつもりで」


 ミユウの指が、俺の胸元から少しだけずれて、心臓の上を探るみたいに止まった。


「葡萄の砂糖菓子。覚えてるの。角が少し丸くて、噛むと外だけ硬くて、中はすぐほどけるの。わたし、甘すぎるものは苦手だったのに、あれだけは一緒に食べられた」


 学院時代の匂いまで漂ってくるようだった。石畳に落ちた木漏れ日。古い本の紙の匂い。遠くで鳴る鐘。


 制服の袖に残るチョークの粉。甘い菓子を分け合う二人の、まだ戦いも裏切りも知らない時間。


「夜遅くまで課題をして、寮に戻るのが面倒になると、こっそり屋上に上がったこともあるの。見張りの先生に見つかったら叱られるのに、リリアは平気な顔で柵に背中を預けて、星を見ていたわ。わたしは気が気じゃなくて、いつ落ちるの、危ない、降りてって何度も言ったのに……あの子、笑って、『ミユウがいるから落ちないよ』って」


 ミユウの喉が、そこでかすかに鳴った。


「……そんなこと、簡単に言うのよ。ずるいわよね。言われた方は、忘れられなくなるのに」


 俺は黙っていた。ミユウの語るリリアは、俺の知る敵でも堕ちた天使でもなく、ただ大切な友達だった。


 だからこそ、その記憶に俺の解釈を差し込むべきじゃない。今はまだ、ミユウの中の時間に、俺まで土足で入るわけにはいかなかった。


 外で、子供たちの小さな足音が一度だけ聞こえた。天幕の近くまで来て、止まる。たぶんアインとジュリアだ。けれど中へ入ってくる気配はなく、二人とも息をひそめたまま、こちらをうかがっているらしかった。


 ミユウはそれにも気づかないまま、ゆっくりと言葉を継いだ。


「学院の大聖堂の裏に、小さな花壇があったでしょう。春になると白い花ばかり咲く場所。わたしたち、講義を抜け出して、あそこでよく寝転んでいたの。空しか見えなくて、鐘の音が近くて……リリアは、あの時間が好きだって言っていた。何者でもないままでいられる気がするって」


 何者でもないまま。最高天使でも、選ばれた者でも、誰かの希望でもなく。名前だけで呼び合える場所。


「わたし、その頃から薄々わかっていたの。リリアの家が厳しいことも、あの子が期待されていることも。失敗できない場所に立たされている人の目だったから。でもね、あの子は愚痴を言わなかった。ひとつも。代わりに、どうでもいい話ばかりするの。新しい先生の髪型が気になるとか、食堂のスープが薄いとか、今日の風は眠くなるとか……そんな話ばかり」


 ミユウが、少しだけ俺の胸に額を押しつけた。その熱がじわりと布越しに伝わる。泣くのを堪えるときの体温は、どうしてこうも高いのかと思う。


「わたし、あの子に甘えていたのね」


 そのひとことは、さっきまでよりずっと小さかった。


「一緒にいると、黙っていても平気で……苦しいことを、苦しいまま口にしなくていい相手だった。わたしが先に天使としての役目を背負わされて、まわりが急によそよそしくなっていった時も、リリアだけは変わらなかった。『ミユウはミユウでしょ』って、ほんとうに、それだけしか言わなかったのに、それがどれだけ救いになったか……」


 そこで、ミユウの肩がひとつ、強く震えた。


「なのに」


 短い二文字が、刃みたいに落ちる。


「なのに、わたしは」


 俺は背をさする手を止めなかった。止めたら、そのまま彼女が崩れ落ちる気がした。


「リリアが変わっていくのを見ていたのに、気づかないふりをしたの」


 空気が重く沈む。焚き火の匂いに混じって、潮の湿り気が急に濃くなった。


「講義のあと、一緒に帰らなくなる日が増えて。泉のところにも来なくなって。寮の部屋へ行っても留守が多くて……たまに会えても、笑い方が前と違っていた。ちゃんと目を見て笑わなくなって、話している途中で、ふっとどこかへ行ってしまうみたいな顔をすることがあって」


 ミユウの指先が、俺の服をまた強く掴む。


「わたし、何度も聞こうと思ったのよ。何があったの、って。誰かに何か言われたの、って。でも、そのたびに、あの子は先に笑ってしまうの。昔みたいに。『大丈夫』って。少し疲れてるだけだって。わたし、その言葉に……甘えた」


 甘えた。その響きに、俺は自分の奥歯を噛みしめた。大丈夫という言葉は、ときどき刃より厄介だ。向き合うべき傷を、見えないところへ押し込んでしまうから。


「本当は、あの子が助けを求めるのを待っていたのかもしれないわ。自分から踏み込むのが怖かったの。もし何かを知ってしまったら、わたしの方まで壊れる気がして……そんな自分勝手なことで、友達の手を離したのよ」


 ミユウの呼吸が、そこで急に乱れた。細く長かった息が、途中でばらばらに途切れる。肩に添えた手の下で、筋肉が固くこわばるのがわかった。


「ある日ね、リリアが、授業が終わったあとでわたしを呼び止めたの。夕方で、回廊の床だけ赤く染まっていて……あの子、珍しく真面目な顔をしていたわ。『少しだけ、付き合って』って言って。わたし、すぐ行けたのに」


 ミユウはそこから先を言う前に、ひどく長い間を置いた。喉の奥でこもった息が一度、二度、音にならないまま潰れる。俺はその沈黙の重さを受け止めるように、もう片方の腕も回した。


「……わたし、断ったの」


 胸の奥が鈍く軋んだ。


「次の日、朝から大事な儀式の準備があって、抜けられないって。疲れていたし、その頃のわたし、役目のことで頭がいっぱいで……また明日でいいでしょう、って。そう言ってしまったの。リリア、少しだけ黙って、それから笑ったわ。『そっか』って。本当に、それだけ」


 俺は目を閉じた。見たこともない夕暮れの回廊が、ありありと浮かんでしまう。赤い床。立ち止まる二人。ほんの少しだけ伸ばしかけて、引っ込められた手。言いかけた何か。


「次の日には、もう遅かった」


 ミユウの声が割れた。


「学院じゅうが騒ぎになって、上の者たちは口を閉ざして、誰も本当のことを教えてくれなくて……リリアが処分を受けたとか、禁域に関わったとか、反逆の兆しがあったとか、そんな噂だけが飛んで……わたし、信じなかったの。信じたくなくて、でも、会わせてももらえなくて。あの子が最後にわたしに向けた顔だけが、ずっと頭に残って……」


 そこまで言って、ミユウは両手で顔を覆った。俺の胸元から離れようとしたのを、無理のない力で引き寄せる。逃がしてしまえば、彼女は本当に闇の深い方へ行ってしまいそうだった。


「わたしが、あのとき一緒に行っていたら」


 指の隙間から、途切れ途切れの声がこぼれる。


「せめて、あの子が何を抱えていたのか、ちゃんと聞いていたら。大丈夫なんて言葉を鵜呑みにしないで、嫌われてもいいから、腕を掴んででも止めていたら。わたしが、わたしがあの子の横に立っていたら……!」


 掠れた叫びが、天幕の狭い空間にぶつかって震えた。外の足音がぴたりと止まる。アインたちも、いまの声で状況を察したのだろう。


「わたしがあの子を裏切っていた!」


 ミユウが顔を上げた。濡れた瞳が、焚き火の揺れる明かりを受けて痛いほど光る。


「わたしのせいで、あの子はあんな目に……!」


 最後まで言い切る前に、声が崩れた。喉を引き裂くみたいな呼吸のあと、ミユウは俺の胸を押して、離れようとした。


「……お願い、いまは」


 押す力は弱い。けれど、拒まれていることはわかった。


「ひとりに、なりたいの……」


 その言葉を聞いた瞬間、俺の中で何かが静かに定まった。


 ひとりになりたい。たぶん本心だろう。誰にも見られず、誰にも触れられず、自分の傷だけを抱えていたい時間があることを、俺も知っている。だが、いまのミユウをそのまま暗い場所へひとりで行かせることだけは、どうしてもできなかった。強さとか正しさの話じゃない。離したら、この人はまた自分だけを責め続ける。誰にも寄りかからず、痛みの底まで沈んでしまう。そんな予感が、骨に染みるほどはっきりしていた。


 俺はミユウの肩を支えたまま、ほんのわずかに距離を取った。泣き顔を見たかったわけじゃない。ただ、俺の言葉が届く場所に、彼女の顔があってほしかった。


「ミユウ」


 名前を呼ぶと、彼女の睫毛が震えた。


「ひとりにはしない」


 すぐに言った。考えるより先に口から出た。


「……でも」


「でも、そばにいる」


 言葉を重ねる。強く言い切りすぎないように、それでも退かない響きだけは残すように。


「無理に喋らなくていい。無理に泣きやむ必要もない。責めたいなら責めればいい。思い出したいなら思い出せばいい。気が済むまで、泣いていい」


 ミユウの目が、ゆっくりと見開かれた。責める言葉も、励ます言葉も、赦す言葉も、いまの彼女には刃になる気がした。だからせめて、泣くことだけは止めなくていいと伝えたかった。


「あなた……」


 その呼びかけは細くて、今にも折れそうだった。


「俺は、おまえの全部をわかることはできない」


 胸の奥で言葉を選ぶ。軽い慰めは要らない。わかったふりも、救えるふりもしたくなかった。


「リリアとの時間も、学院で交わした約束も、あのときの空気も、俺は知らない。だから、その痛みを勝手に小さくするようなことは言わない」


 ミユウの頬を、涙が一本、顎へ向かって落ちた。


「けどな」


 俺はその涙を指で拭わず、そのままにした。消すべきものじゃないと思ったからだ。


「おまえがひとりで抱えるには、重すぎる。なら、抱える場所のそばに俺がいる。黙ってでもいる。離れろって言われても、いまだけは聞かない」


 そこでミユウの唇がきゅっと結ばれた。何かを言おうとして、言えずに、喉だけが上下する。


「一人になんてさせない」


 自分でも驚くほど静かな声だった。


「でも、そばにいる」


 その一言で、ようやくミユウの肩から力が抜けた。崩れるみたいに俺の方へ重さを預けてくる。細い背中が、腕の中で小さく震え続ける。


 その時、天幕の外で、布をつまむような音がした。


「……パパ」


 アインの声だった。ひそめているのに、幼い喉では隠しきれない。


 俺はミユウを抱いたまま、顔だけ外へ向けた。


「どうした」


 返事の前に、少しだけためらう間があった。たぶん中の空気を感じ取っている。子供だからわからない、ではない。あの二人は、俺たちが思うよりずっと敏い。


「ママ、ないてるの」


 アインの言葉に、胸がきしんだ。見えていなくても、聞こえていたのだろう。


「ああ」


 短く答えると、また間が落ちた。隣で、ジュリアの小さな気配が動く。


「ママ、いたいの……?」


 ジュリアの声は、風にさらわれそうなくらい小さい。俺は目を閉じて、ひとつ息を整えた。


「痛い」


 嘘はつけなかった。


「でも、パパがそばにいる」


 外で布がかすかに揺れた。二人が顔を見合わせた気配がする。


 それから、アインが、言葉を探しながらぽつりと続けた。


「……じゃあ、ぼくたち、いまは、いないほうがいい?」


 その問いに、喉の奥が熱くなった。五歳の子供が、どれだけ背伸びをしてその判断にたどり着いたのかと思うと、胸を締めつけられる。けれど、俺がいま返事をためらえば、その健気さまで迷わせてしまう。


「ああ」


 掠れないように気をつけて答えた。


「助かる」


 しばらく沈黙があった。たぶん、二人とも泣きたいのを堪えている。ママが泣いている時に、自分も泣いていいのかわからなくて、必死に立っている。


 次に聞こえたのは、ジュリアの、いっそう小さな声だった。


「おにぃちゃん……ママ、ひとりじゃないよね」


 その問いに答えたのは俺じゃなかった。


「うん。ぱぱがいる」


 アインの声は、幼いくせに不思議なくらいまっすぐだった。


「だから、ぼくたち、ちょっとだけ、まってよう」


 布の向こうで、衣擦れの音がした。きっとジュリアの手を握ったのだろう。


「ママが、いやじゃないように」


 その一言に、俺は目頭が熱くなるのを感じた。五歳の子供が、“いやじゃないように”と考えて身を引く。その優しさに、救われるのはきっと俺たちの方だ。


「アイン、ジュリア」


 呼びかけると、二人は同時に「うん」と答えた。


「ありがとう」


 そのあと、少しだけ元気づけるように言葉を足した。


「近くにいてくれ。呼んだらすぐ来られる場所で」


「うん」


「わかった」


 小さな返事のあと、足音が遠ざかる。走らず、騒がず、そっと離れていくその気配が、かえって胸に沁みた。


 天幕の中に静けさが戻る。波音。焚き火。布を打つ風。そこへ重なるように、ミユウの呼吸が細く震え続けている。


「……聞かれてしまったわね」


 ミユウがかすれた声で言った。俺は彼女の髪を撫でた。いつものように整えるためじゃない。乱れたままでいいから、触れていると伝えるために。


「あいつら、賢いからな」


「優しすぎるわ……」


 その言葉の終わりで、また声がほどけた。堪えていたものが、もう戻らないところまで来ているのがわかる。


「あなた」


「ああ」


「わたし……強くありたかったの」


 その言葉に、俺はすぐ返せなかった。強い。それはミユウがずっと自分に課してきた形なのだろう。最高天使として。母として。俺の隣に立つ者として。


「あなたの前で、子供たちの前で、こんなふうに……取り乱したく、なかった」


 涙で途切れた声が、胸元に沈む。


「リリアのことを話したら、きっと止まらなくなるってわかっていたの。だから、ずっと口にしなかった。口にしたら、最後にあの子がわたしを見た顔まで、全部あふれてきて……わたし、耐えられないもの」


 俺は背中に回した手で、ゆっくり肩甲骨のあたりを撫でた。羽の付け根に近いその場所は、彼女が無意識に力を入れやすいところだ。案の定、触れた瞬間そこだけが硬く張っている。


「耐えなくていい」


 静かに言う。


「いまは」


 その一言が鍵になったみたいに、ミユウの身体がびくりと揺れた。次の瞬間、彼女は俺の肩に顔を埋めたまま、ついに声をあげて泣いた。


 押し殺した嗚咽じゃなかった。胸の深いところから、長い間閉じ込められていたものが一気に裂けて出てくる音だった。


 こんなふうに泣くミユウを、俺は初めて見た。結婚してからも、戦いのあとも、子供たちを産んだ時でさえ、この人はどこかで歯を食いしばっていた。泣く時でさえ、静かに涙を落とすだけだった。


 けれど今は違った。


 肩口に顔を押しつけ、呼吸を乱し、言葉にもならない声で何度も何度も崩れていく。


 そのたびに、細い背中が跳ね、指が俺の服に食い込む。


 俺は何も言わず、ただ抱きしめた。強すぎず、離れすぎず、逃げ道だけは塞がないように。それでも、ひとりへ落ちていかない程度には、しっかりと。


 泣き声の合間に、ときどきリリアの名が混じった。


 ごめんなさい、とも、会いたい、とも、違う、という掠れた否定ともつかない音ともつかない声が混ざって、胸の上で砕けていく。俺はそのたびに、背をさする手の速さを少しだけ変えた。言葉では届かない場所に、せめて手の温度だけでも残るように。


 時間の感覚が薄れていった。どれくらいそうしていただろう。


 焚き火のはぜる音が減り、外の風は少し冷たくなった。波は変わらず寄せては返し、天幕の布を揺らす。夜は進んでいるのに、この狭い空間だけが立ち止まっているみたいだった。


 ミユウの泣き声が少しずつ小さくなり、代わりに息を吸う音だけが残る。俺はその間も肩をさすり続けた。


 細い肩だと思う。何度も守りたいと思ってきた肩だ。その肩が、いまは自分を責める重さで沈んでいる。


「……みっともないわね」


 どれほど経ってからか、ミユウがようやくそうこぼした。泣いたあとの声は、ひどく掠れていて、言葉の輪郭が柔らかく崩れていた。


「そうか?」


「ひどい顔をしているでしょう」


「見てない」


 すぐに答えると、ミユウがわずかに顔を上げた気配がした。


「嘘つき」


「見てるけど、ひどくはない」


 そう言うと、彼女は泣き疲れた子供みたいに小さく鼻を鳴らした。


 笑ったのか、呆れたのか、そのどちらでもないのかはわからない。ただ、さっきまでの張りつめた気配がほんのわずかにほどけたのはわかった。


「……あなた、昔からそうね」


「何がだ」


「真正面から、変なことを平気で言うの」


「変か?」


「変よ」


 そのやりとりさえ、いまは救いだった。完全に沈み切ったままじゃない証みたいで。


 ミユウは俺の胸元に額を預けたまま、細く息を吐いた。


「リリア、怒っているかしら」


 問いというより、漂ってきた独白に近かった。俺はすぐには答えなかった。死者の気持ちを勝手に決めることはできないし、ましてリリアのことを俺は知らない。けれど、知らないからこそ言えることもある。


「怒っていたとしても」


 少しだけ考えてから、言う。


「それだけ、おまえに会いたいんだろうな」


 ミユウの呼吸が止まったように感じた。


「会って、怒って、ぶつけて、それでも離れられない相手だったんだろ」


 胸元で、彼女の指先が小さく震えた。


「……ええ」


 掠れた肯定が返る。


「なら、忘れられないのは裏切りじゃない」


 その言葉だけは、迷わず出た。


「おまえがちゃんと大事にしていた証拠だ」


 ミユウは何も答えなかった。ただ、俺の服を握る力が、少しだけ変わった。


 さっきまで沈み込むためにしがみついていた指が、今度は浮かび上がるものを探すみたいに、そっと布を掴んでいる。


 外から、遠慮がちな咳払いが聞こえた。子供たちじゃない。たぶん見張りをしている仲間の誰かだ。


 島を渡る旅の最中、夜番の交代か何かだろう。俺は耳を澄ませたが、それ以上呼ばれることはなかった。状況を察して引いてくれたらしい。


 次の島。


 その言葉が、泣きやんだばかりの天幕の空気の中で、静かに輪郭を持つ。


 俺たちが向かわなければならない場所。リリアの影が、まだ色濃く残るであろう島。過去を振り切るためではない。たぶん、もう一度向き合うために行くのだ。


 俺はミユウの肩をさすりながら、ゆっくり視線を落とした。腕の中にいるこの人を守りたい。


 その願いは単純なのに、旅はいつも、守るだけでは済ませてくれない。痛みの中へ踏み込まなければならない夜がある。今日がそうだった。そして次の島では、きっと、今日より深いものを見せられる。


 けれど逃げない。


 ミユウが背負ってきたもの。リリアが残した傷。アインとジュリアが小さな胸で受け止め始めている家族の痛み。


 その全部を、俺は見届ける。できるなら切り裂く風より先に立つ。無理でも、倒れたままにはしない。


 ミユウの肩の震えは、ようやく落ち着いていた。泣き疲れて重くなったまぶたを閉じたまま、彼女は小さく囁く。


「……もう少しだけ、このままでいて」


「ああ」


 迷いなく答える。


「いくらでも」


 天幕の外では、潮の匂いを含んだ風が、夜の終わりをまだ遠くに押しやっていた。焚き火の赤は弱くなり、波音は絶えず、子供たちの小さな気配は少し離れたところで寄り添うように並んでいる。それぞれが、それぞれの場所で眠れないまま、けれど家族として同じ夜を越えようとしていた。


 俺はミユウの肩を、一定のリズムでさすり続ける。


 次の島に何が待っているのか、まだ見えない。


 ただ、今夜ひとつだけ確かなのは――この腕の中の温もりを、もう二度と、ひとりの闇へ返さないということだった。

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