第128話 涙の羽根を抱きしめて
腕の中のミユウは、ひどく軽かった。さっきまであれほど激しく白い羽を打たせ、裂けかけた空へ手を伸ばしていた身体とは思えないほど、いまは熱だけを奪われたように静かで、胸もとへ頬を寄せるたび、かすかな呼吸が布越しにほどけては消え、その頼りなさが逆に俺の足を止めさせなかった。
甲板へ駆け戻る途中、潮の匂いに鉄の気配が混じっていた。
砕けた波しぶきが船腹を叩き、きしむ木の音が夜気の底で低く鳴るたび、遅れるな、と誰かに背を押されている気がした。
腕の中の髪が俺のひじに絡み、銀糸のようなそれが濡れて冷えているのに気づいた瞬間、喉の奥が焼け、呼吸が浅くなる。抱き直した指に、彼女の肩の細さが食い込んだ。
船室の扉を蹴るように開けたとたん、奥から小さな足音が弾けた。
灯りに照らされた二つの顔が、こちらを見たまま凍りつく。次の瞬間、堰を切ったように飛び出しかけた声を、俺は自分でも驚くほど鋭く遮っていた。
「……静かに」
言葉の先が、乾いていた。
アインもジュリアも、はっとしたように足を止めた。
泣きそうに歪んだ目が、俺の腕の中のミユウへ吸い寄せられていく。アインの小さな拳はぎゅっと握られ、ジュリアは唇をきゅっと結んだまま、何かを飲み込むみたいに喉を震わせた。
ふたりとも、叫びたいはずだった。駆け寄って、揺すって、すぐにでも「ママ」と泣きたかったはずだ。
それでも俺の声の硬さを感じ取ったのか、幼い身体をぎこちなくこわばらせ、その場で踏みとどまっている。
その健気さが、胸に刺さる。
俺は返事もできないまま奥の寝台へ向かった。
狭い船室の中は、薬草を煮出した残り香と海の湿り気が混ざっていて、窓板の隙間から入り込む夜風が灯火を小さく揺らしていた。
寝台に敷かれた白布へミユウを下ろすとき、首の後ろへ差し入れた手のひらに、彼女の髪がさらりと落ちる。
その柔らかさまで遠のいてしまいそうで、俺は無意識に指先へ力を込めていた。
「ミユウ」
呼んでも、返事はない。
閉じたまぶたは薄く、長い睫毛の影が頬へ落ちている。唇の色もいつもより白く見えた。
額へかかった前髪を払うと、肌は冷たくはない。なのに、その温もりがこちらへ返ってこない。触れているのに届かない――その距離が、剣を握っているときよりよほど俺を追い詰めた。
迷っている暇はなかった。
俺は寝台の縁へ膝をつき、ミユウの肩と胸もとへ両手を添えた。
目を閉じ、意識を沈める。自分の内側へ潜るたび、そこにある魔力はいつだって熱を持った流れとして感じられる。
剣を振るうときは腕へ、駆けるときは脚へ、守ると決めたときは全身へ燃え広がる火だ。
だがいま欲しいのは勢いじゃない。荒々しく送り込めば、傷ついた彼女の奥をさらに乱す。砕けものを包むように、折れかけた灯へ手をかざすように、細く、深く、途切れずに。
息を整え、自分の魔力をひと筋ずつ解いていく。
掌の下で、彼女の身体は静かなままだ。俺の中から引き出された熱が、腕を伝い、指先を抜け、彼女の胸の奥へ沈んでいく感覚だけがかろうじて手応えになった。
けれど、それもすぐ不安に変わる。届いているのか。足りているのか。遅くはなかったのか。もっと早く抱き寄せていれば、もっと強く止めていれば、あのとき――
余計なものが脳裏へ浮かぶたび、魔力の流れがぶれる。
「……くそ」
喉の奥で押し殺した声が漏れた。こんなときまで揺れるな、と自分を叱りつけながら、俺はもう一度、彼女だけへ意識を絞った。
銀の羽。あの背を追ってきた日々。何度も俺を支えてくれた手のぬくもり。笑うとわずかに細くなる瞳。子どもたちを抱くときのやわらかな腕。泣きたいはずの場面で、先に俺の顔色を見てしまう癖。ひとつずつ思い浮かべるたび、胸の中央で何かが軋む。
失いたくない。
その願いは、祈りというより、もはや本能に近かった。
「目を覚ましてくれ……頼むから」
声にした瞬間、耳の奥で海鳴りが遠のいた気がした。
俺の手の下にある命だけが、この狭い船室の中心になる。
汗がこめかみを伝い、顎をつたって落ちる。魔力を送り続ける腕は次第に痺れ、肩のあたりまで重くなっていくのに、それでも止めるという選択だけは最初からなかった。
寝台の脇で、衣擦れの小さな音がした。
見ると、ジュリアがそっと近づいてきていた。
足音を立てないように気をつけたのだろう、つま先から慎重に床へ触れてくるその歩き方が、かえって胸を締めつける。
いつものように無邪気に駆け寄ることもせず、泣き声も上げず、ただ大きな瞳でミユウを見つめている。怯えたような揺れがその奥にあって、それでも逃げなかった。
ジュリアは俺の隣へちょこんと座ると、ためらいながら手を伸ばした。
細い指先が、ミユウの手の甲へ触れる。いつもなら「つめたい」「やわらかい」とすぐ口にするその子が、いまは何も言わず、一度だけ小さく息を呑んだ。そして、自分の両手で母の手を包み込むように握る。
「……ママ」
囁くような声だった。
その二文字の中に、幼い喉で抱えきれないものが全部押し込まれている。
呼べば返ってくると信じたい気持ちと、返ってこないかもしれない怖さと、でも離したくないという意地と。
そんなものを五歳の小さな身体で抱えて、それでも泣き崩れずに座っている。
アインも少し離れたところで立ち尽くしていたが、やがてぐっと唇を噛み、俺たちのそばまで来た。
寝台の縁へ手をかける。声を出せば何かが壊れる気がしたのか、ただミユウの顔を見つめたまま、喉を上下させていた。握った拳の白さが、灯りの下で痛いほど目につく。
「パパ……ママ、だいじょうぶ……?」
かすれた問いに、俺はすぐ答えられなかった。
大丈夫だと言い切るには、彼女のまぶたはまだ重い。
だがここで黙れば、この子の中にもっと悪いものが広がる。俺は魔力の流れを乱さないよう注意しながら、アインへ視線を向けた。
「……起こす。必ず」
短い言葉だった。けれど、願いじゃなく誓いとして出した。
アインはその言葉を受け止めるように一度だけ頷くと、寝台の反対側へ回り、ミユウの羽根の端にそっと触れた。
濡れて乱れた白が、指先の震えを受けてわずかに揺れる。その顔は泣きそうなのに、歯を食いしばっていた。
母の前で泣いてはいけない、とでも思っているのかもしれない。そんなこと、子どもが背負うには早すぎるのに。
俺は再び意識を深く沈めた。
魔力の流れは、次第に自分の体温を削っていくようだった。
胸の奥にある火床から、ひとすくい、またひとすくいと掬い上げて渡していくたび、身体の芯が空洞になるような感覚が広がる。
それでも、掌の下でほんのわずかに鼓動の気配が返ってきた瞬間、俺は呼吸を止めた。錯覚じゃない。さっきより、確かに。
「ミユウ……」
祈るというより、確かめるための呼びかけだった。
彼女の睫毛が、かすかに震えた。
その小さな動きひとつで、喉も胸も一気に締めつけられる。
だが焦るな、と自分へ命じる。ここで魔力を乱せば、せっかく戻りかけた流れが崩れる。
俺は唇の裏を噛み、さらに丁寧に、彼女の内側へ熱を送り込んだ。
乾いた地へ水を落とすみたいに。凍えた指先を包むみたいに。消えかけた息へ、そっと風を継ぐみたいに。
やがて、ミユウの唇がかすかに開いた。
浅い息がひとつ、胸の奥からほどける。
ジュリアの肩がぴくっと跳ねた。「ママ」と呼びかけかけて、けれど声を大きくしないように飲み込み、さらに強くその手を握り直している。
アインは目を見開いたまま身を乗り出し、俺は自分の腕の震えを隠す余裕もなく、彼女の顔を見つめていた。
閉じていた瞼が、ゆっくりと持ち上がる。
焦点の合わない薄紫の瞳が、天井の木目をぼんやり映し、それからわずかに揺れて俺の顔へと辿り着いた。
その瞬間、張り詰めていたものが胸の奥で一度大きく軋んだ。安堵に膝から崩れそうになるのを、まだ早い、と辛うじて踏みとどまる。
「……あなた」
息に溶けるような声だった。
たったそれだけで、全身の力が抜けそうになる。けれど彼女の瞳が完全に戻る前に、俺は肩を支えたまま顔を寄せた。
「無理するな。まだ起きるな」
そう言った途端、ミユウの目の奥にぱっと別の光が差した。ぼやけていた意識が、何かひとつだけを思い出して鋭く結ばれる。細い指が寝台の布を掴んだ。
「……リリア」
その名が零れた瞬間、彼女の身体が弾かれたように起き上がろうとした。
「待て、ミユウ」
制止の声より先に、彼女は身を起こしていた。だが、戻りきっていない身体がその意志に追いつくはずもない。
肩が揺れ、視界が傾いたのだろう、次の瞬間には力が抜ける。俺は慌ててその身体を抱き止めた。
細い背を支え、崩れ落ちる頭を胸もとへ受け止める。銀の髪が俺の腕へ流れ込み、羽根の先が寝台からこぼれた。
抱き寄せたまま感じたのは、震えだった。
寒さのせいじゃない。痛みだけでもない。内側で張りつめていたものが、目を覚ましたことで逆に輪郭を持ちはじめた、そんな震え方だった。
ミユウは俺の胸へ額を押しつけたまま、息を吸って、うまく吐けないように喉を詰まらせる。
「リリアを……リリアを、たすけないと……」
掠れた声は細いのに、その奥で何度も足掻いた痕が残っていた。
起き上がろうとする腕に力はない。それでも前へ出ようとする。その焦りが、かえって彼女を傷つけているのがわかるから、俺は片腕で身体を支え、もう片方の手で背をゆっくり撫でた。
「いまは動くな。頼む」
宥めるつもりで言ったのに、自分の声のほうが掠れていた。
ミユウは首を振ろうとして、けれどそれすら半ばで止まった。
力が入らないのだろう。俺の服を掴んだ指先だけが、縋るように強くなる。
彼女の呼吸が胸板へ当たり、乱れた熱となって染みてくる。さっきまで意識の底へ沈んでいた身体が戻ってきた証なのに、その熱はひどく苦しい。
「わたし……見たの……あの子の顔……」
声が震え、そこで一度切れた。
続きを急かすことはできなかった。ミユウの中でいま何が砕け、何がまだかろうじて繋がっているのか、抱いている腕から直に伝わってくる気がしたからだ。
彼女はまぶたをきつく閉じ、息を呑む。その拍子に、睫毛の先へ透明な粒がひとつ浮かんだ。
「ずっと、ひとりで……あんな……」
最後までは言えなかった。
言葉になる前に、雫がこぼれた。
それは静かな落ち方だった。声を張り上げるでもなく、肩を震わせるでもなく、ただ閉じた瞳の端からこぼれて、頬を伝い、俺の手の甲へ落ちる。ぬるいはずのそれが、どうしようもなく熱く感じられた。
ミユウが泣くとき、いつも先に胸を締めつけられるのは俺のほうだ。
彼女は滅多に、自分のために涙を落とさない。誰かの痛みへ触れたとき、誰かを守れなかったとき、そんなときばかり、堪えきれなくなったものが静かに零れる。だから、その一粒の重さがわかってしまう。
俺は彼女を抱く腕に力を込めすぎないよう気をつけながら、額へ唇を押し当てた。何か上手い言葉を探そうとしたが、見つからない。慰めは軽すぎる。励ましは早すぎる。大丈夫だなんて、この涙の前では空々しい。
結局、俺にできたのは抱いていることだけだった。
ミユウは俺の胸へ顔を伏せたまま、もう一度、小さく首を振った。
そのたびに涙が増える。胸もとを濡らす温度が広がり、彼女の指先は布を掴んだまま離れない。
あの場に置き去りになったリリアの姿が、その目の奥から離れないのだろう。助けたかった。手を伸ばしたかった。届かなかった。その全部が、目覚めたことでいっきに戻ってきたのだ。
寝台の脇で、ジュリアがそっと立ち上がった。
何か言うのかと思ったが、違った。小さな足で慎重に距離を詰め、泣いているミユウのそばへ回り込む。
そして母の肩へ、ためらいがちな手を乗せた。指先がふるえている。きっと怖いのだ。いつも優しく笑ってくれるママが、こんなふうに壊れものみたいに泣いているのを、初めて見たのだから。
それでもジュリアは手を引かなかった。
「……ママ」
そっと呼ぶ。
その呼びかけには、泣き止んでほしいと急かす響きがなかった。
ただここにいるよ、と自分のぬくもりだけを差し出すような声だった。ジュリアはもう片方の手でミユウの袖をつまみ、小さく身を寄せる。頬が母の腕へ触れ、淡い金の髪が銀の髪に重なった。
「ジュリアね、ここにいるよ」
囁きは、船室の灯りよりやわらかかった。
ミユウの肩が、わずかに揺れる。泣き声ではない、息の詰まりに似た震えだ。
ジュリアはその変化に驚いたように目を瞬かせたが、逃げずにさらに近づいた。
五歳の身体でできる精いっぱいの距離まで。母の腕へ自分の両腕を巻きつけるでもなく、押しつけるでもなく、ただ壊さないようにそっと寄り添う。その加減が、この子なりに考えた末なのだとわかって、胸の奥がひりつく。
「ママ、いたいの……?」
問いかける声は小さい。けれど、ただ傷の場所を尋ねているんじゃない。どこが痛いのか分かれば、自分にも触れられるかもしれない。そんな必死さがあった。
ミユウは答えようとして、うまく声にならず、代わりにジュリアの指へ自分の手を重ねた。
細いその手はまだ少し冷えていたが、さっきより確かな力が戻っている。ジュリアはその重みを受けた瞬間、泣きそうに唇を震わせ、それでも笑おうとしたのか、ぎこちなく口元を持ち上げた。
「だいじょうぶ……ジュリア、ママのこと、ぎゅってするから」
そして本当に、壊れものを抱くみたいに、そっと母の腕へ頬を寄せた。
その姿を見ていたアインが、たまらず一歩前へ出た。けれどすぐには口を開けない。
母を泣かせるものへ怒っているのか、自分が何もできないことに歯がゆいのか、その両方か。
眉を寄せた顔が、いつもより少しだけ大人びて見えた。やがて彼は寝台の端へ膝をつき、ミユウの白い羽の先を避けながら、空いている場所へそっと手を置いた。
「ママ」
一度だけ呼ぶ。
それ以上は何も言わなかった。言えなかったのだと思う。
言葉を並べるより、その一声に全部載せたのだろう。怒りも、心配も、いてほしいという願いも。小さな手が布の上で握られ、骨ばるにはまだ早い指が白くなる。その不器用さが、胸を打つ。
ミユウは閉じていた目を少し開け、涙に濡れたままアインを見た。
何か返そうとして、唇が震える。けれど言葉の代わりに、彼女は俺の腕の中からわずかに身を乗り出し、アインの頭へ手を伸ばした。途中で力が抜けそうになるのを、俺が肘の下へ手を添えて支える。ようやく届いた指先が、アインの髪をひと撫でした。
それだけで、アインの喉が詰まった。
泣くまいとしていた顔が、そこで初めて崩れかける。
けれど彼は俯かず、こぼれそうになるものをぐっと堪えたまま、母の手に自分の頬を押し当てた。幼いくせに、守る側へ回ろうとしている顔だった。
俺は三人を見渡し、それから再びミユウを抱き寄せた。俺の腕の中にいるのは、最高天使でも、誰かを導く存在でもない。リリアを想って涙をこぼし、子どもたちのぬくもりへ縋る、俺の大事なひとりの女だ。だからこそ、守る。強さも弱さも、そのまま抱える。
船室の外では、波がなお船腹を叩いていた。夜はまだ深く、海は何事もなかったようにうねり続けている。
だがこの小さな部屋の中だけは、潮の匂いと灯火の揺れと、重なり合う四つの息づかいが、確かな輪になっていた。
ミユウの涙は、すぐには止まらなかった。
俺の胸に顔を埋めたまま、ときおり思い出したように肩が震える。ジュリアはそのたび「ママ」と小さく呼び、手を握り続ける。アインは黙ったままそばを離れず、母の羽根が床へ落ちないよう、乱れた先を不器用に持ち上げていた。誰ひとり、無理に笑わせようとしない。ただ離れない。それだけを選んでいる。
その静けさが、かえって深く沁みた。
ミユウの背を撫でる手の下で、呼吸が少しずつ整っていく。けれど涙の理由までは消えない。
リリアの名を失わないように抱えたまま、彼女はまだ傷の中にいる。そのことがわかるから、俺は背を撫でる速度を変えず、ただ耳もとで低く囁いた。
「……ひとりじゃない」
それが慰めになるのか、保証になるのか、自分でもわからない。
ただ、俺はそうするしかなかった。
ミユウの指が、俺の服を掴んだままわずかに力を返す。
ジュリアはそれを見て、ほっとしたように母の手へ自分の頬をもう一度こすり寄せた。アインも小さく息を吐き、うつむいたまま寝台へ額を預ける。灯火の揺れが四人の影を壁へ重ね、揺らし、また寄せた。
船は夜の海を進んでいく。
その揺れの中で俺たちは、何ひとつ解決していない痛みを抱えたまま、それでも互いの体温だけは失わないように、黙って寄り添い続けていた。




