第一章06『返したいもの』
「ホントに大丈夫か?」
「本当だとも。もう一〇〇回はくり返しているぞ?」
「そこまで言ってねえ……事もないか。メチャクチャ言ってた気がする……」
それくらい心配してしまう状況だった。
予定では夕方前には終わるはずだった清掃作業。しかし服の乾燥を舞っていたのと、最後の清掃場所が意外に広かった事もあり、全ての業務が片付いた頃には、すでに日が沈み始めていた。
つまりは彼女―――ツクモ・アラン・シュヴァリエを、こんな時間まで拘束してしまった事を意味していて。
「しつこいのは分かってるけど、ホンっト悪い。授業全部サボらせちまった」
「気にする事はないと言っているのだが……心配性だな、貴殿は」
「心配性じゃなくたって心配するだろ。学生は学業が本分なのに」
聖プリエステラ魔法学園の廊下。
窓から注ぐ夕焼けに顔の片方を焼かれながら、フェグルスは申し訳なさげ。しかし少女は「安心しろ」と簡単に言って、
「私はこれでも、学業も魔法技能も成績トップでな。卒業に必要な単位と実績なら、とっくの昔に超えている。特別優遇措置の対象にもなっている。授業もほとんど免除されているのだ。言ったろう? ちょうど暇だったと」
「そう、か? ……ん、分かった、もう言わねえ。でもそれ抜きにしたって感謝し足りねえ。あんたがいてくれなきゃいつ掃除が終わったかも分からなかった」
また水を掛けられたりしないように―――との事で、フェグルスの身辺を守ってくれていたツクモだったが……これが想像以上の効果だった。
一応、彼女の予想は見事に的中していた。
掃除中、何名かの生徒が用も無いはずなのに、フェグルスの清掃場所へとやって来たのだ。
清掃中のフェグルスにちょっかいをかけようとしたのか、あるいは蔑みにでも来たのか。しかし、フェグルスの近くでツクモが「むん!」と謎の気合いと共に睨みを利かせているのを見ると、やって来た生徒達は皆こぞって「やべ……」みたいな顔をして、そそくさと立ち去って行ったのだ。
おかげで清掃作業はつつがなく終了。時間は少し延びてしまったが、特に問題もなく、今日一日の仕事を完遂したのだった。
「すごいんだな、あんた。セートカイチョーだっけ? よく分からないけど」
「すごい事など何もない。むしろ己の未熟さを思い知らされる一方だ。今回が特にそうだ」
少女の声音は、どこか険しい。
「まったく情けない……。これから社会へ出る者として、あの程度の道徳観念では外も歩かせられん」
「ドートク? ……毒か何か?」
「正しい行いを為すために、守り従わねばならん規律や規範の事だ」
説明されても何が何やらだった。
少女は「要するに」とまとめて、
「己を律し、己を戒め、他者を助け、他者を思いやる。そういう心の在り方の事を言う」
「……他人には優しくしましょう的な?」
「厳密には違うのだが……いや、そうでもないな。それが最も簡単な捉え方だな。子供でも分かる単純な理屈だ。だというのに―――」
二人は校舎の外に出て、大きな庭園を横切っていく。
「貴殿が受けた仕打ちを見る限り、我が校の道徳教育は失敗と言わざるを得ない。私もやり方を一新しよう。教師共にも私から文句を言っておく」
「そこまでしなくても……『他人には優しく』じゃねえのかよ」
「間違いを無視し、目を逸らすのは優しさではないだろう。何より奴らは己を律する事もできていない。魔法を専門に取り扱う者として、これは由々しき事態だ」
眉間にシワを刻むツクモを横目に、フェグルスは「ふーん」と生返事。未だにドートクが何なのかよく分からない彼には、少女が何に思い詰めているのかいまいち理解できず―――
「……成功はしてるんじゃないか?」
「む?」
「だってほら」
フェグルスは、隣のツクモの顔を見つめて、
「ハンカチ貸してくれたじゃん。だからその……ドートク教育?」
困っている奴に手を差し伸べる生徒が一人でもいたのだから、ドートク教育は成功じゃないのか? ……みたいな事を言いたかったのだ、本当は。
が、やっぱり口下手。うまく伝わらなかったらしい。
少女は何を言われた分からないみたいに目をパチクリさせ、フェグルスの顔をしばらく見つめ―――だが「はっ」と何かに気付いた顔をした途端、
「あはははははははは!」
少女はいきなり笑い出していた。
……え、なんで? なぜ急に?
笑われた理由が分からず、今度はフェグルスが目をパチクリ。
「いやすまない、特に意味はないんだ。……んはは」
「……悪い、俺なんか変な事言った?」
「そんな事はない、むしろ励まされたよ」
なおも首を傾げるフェグルスに、ツクモは相変わらず「気にするな」と。
まあ、気にするなと言うなら気にはしないが。
「あんな目に遭わされておいて、よくそんな事が言える。……しかしそう思うと、あの馬鹿共は余計に許しがたい。貴殿は明日もここへ来るのだろう?」
「そうだな、仕事だし」
「うむ、把握した。ならば意識改革は火急の用だな」
その瞬間、少女の瞳が炎の如く燃えたようにフェグルスには見えた。
……何をするつもりだ、この少女。
「あんま気ぃ遣わなくても大丈夫だぞ? あんたにまで敵が増える」
「私はとっくに敵だらけさ。とは言っても、誰も私に盾突く事はできぬのだがな」
「そりゃそんなもん腰に付けてりゃ誰も逆らえねえだろ」
「む? ……ああ、これはそんなに大したものではない」
ツクモは、己の腰に括り付けたレイピアを触りながら、
「学園の治安維持のためにな、一応持たされているだけだ。こんなものなど無くとも、私は強い」
きっぱりハッキリ言い切って、彼女は足を止める。
気付けばフェグルスとツクモは、魔法学園の校門のすぐ手前まで来ていた。
「私はまだやるべき事が残っている。ここでお別れだ」
「最後の最後まで本当……助けられっぱなしだ。いつか絶対お礼を―――」
「気にするなと言ってるじゃないか。貴殿は我が校を美しく清めてくれている。『おあいこ』というやつだろう」
やっぱり最後の最後まで、ツクモは頑なにフェグルスからの礼を受け取ろうとしないまま、静かに手を上げて、
「では、また明日会おう」
「……おう。また明日」
お互いに手を軽く上げて、挨拶を交わし、そして背中を向け合うタイミングまで同時。フェグルスは学校から出て、ツクモは再び学校へと戻って……。
しかし、フェグルスだけは少し未練。振り返って、離れ行く少女の背中を静かに見送る。
彼女の凛とした後ろ姿。一本の三つ編みにまとめた栗色の髪。歩く姿勢はさながら騎士そのもの。魔法も使えない役立たずの自分に見せてくれた、あの律義さをそのまま体現したかのような一挙手一投足を見て、フェグルスは、
「……やっぱ返さねえと」
彼女のくれた優しさに、何かお礼をしなければいけないような気がしたのだ。
これを『恩返し』と言うのだろうか。人間の言葉では。
貰うのも、受け取るのも、未だに慣れないフェグルス。
だからせめて、返せるものなら返さねば。
そう決心して、
「…………」
不意に思い出す。
返さなければいけないもの―――本当は、もう一つあるのだ。
自分が持っていてはいけないものが。
返したくても返せないものが。
それは二日前、とある訪問者が落としていったもの。
空から落ちて来た少女が落とした、おそらく自分の名前を書くぐらいには大事にしていたであろうもの。
三日月型のお守り。
ティーネのお守り。
「……やっぱ、返しときゃよかった」
遅過ぎる後悔と共に、フェグルスの脳裏に少女の姿が過る。
いきなり空から降って来て、家をメチャクチャにして、嵐のように去って行った少女の、
『ありがと』
似合わぬお礼の言葉を口にして去って行った少女の、あの小さな後ろ姿が。
***
今日の仕事は終わったが、今日という一日はまだ終わっていない。
あと一つ、『厄介な用事』が残っていた。
「やべ、さすがに遅れ過ぎた……!」
セートカイチョーと仲良くお喋りしている場合ではなかった。
そもそも今日の仕事は日中には終わる予定だったから、今から向かう『用事』の相手にも「夕方前には行くよ」的な事を言っていたのだ。今がその夕方だ。なんなら日が完全に沈みそうですらある。
聖プリエステラ魔法学園を出て、小走りで一〇分ちょっとの『大学病院』に、フェグルスは迷いなく入って行く。
別に治療をして欲しいわけではない。なんなら病院そのものにも特に用はない。
すれ違う看護師たちに会釈をしつつ、フェグルスは病院の廊下をズンズン進む。案内表示も読まずに決まった角を曲がり、さらに奥へと進んで行く。
……廊下の突き当りは、地下に続く階段になっていた。
かなり急な角度で作られたそれは、もはや最奥が見えないほどずっと下まで続いている。
この病院には『地下施設』が存在する。
そこに、本日の待ち人がいる。
「なんだってこんな、好き好んで不健康な所に……」
ここに来るたびにいつも思う。もっと日の当たる所で会えないものか。
さらにこの地下施設というのが本当に深い。今日はたまたまエレベーターが故障しており、辿り着くまでに階段を一分以上も降り続けなければならなかった。
そしてついに辿り着く地下施設。
分厚い鉄で出来た、スライド式の大扉が、ドン! とフェグルスの目の前に凄まじい存在感で現れる。天井の蛍光灯も切れかかっていて、ジジジジ、ジジジ……と不気味に点滅し、余計におどろおどろしさに拍車をかけている。
「先生ー。遅れて悪い、今着いた。ちょっと仕事が長引いて」
鉄の扉をドンドン! と叩きながら、扉の奥にいるであろう待ち人を呼ぶ。
しかし返事が無い。
いつもは呼んだら秒もなく扉が開いて襲い掛かってくるはずなのに。
「…………? おーい。……おーい! せんせー! 聞こえ―――」
その時だった。
無骨な鉄の大扉がゴゴン!! と凄まじい音を立ててちょっとだけ開いて、中から『それ』が飛び出して来た。
待ち人が? いいや。
正体不明の『黒い腕』が。
「…………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………は?」
本当に『黒い腕』としか表現できなかった。
まるで地面や床に映った『影』をそのまま立体化したような、巨大な腕が一本、開いた扉の隙間からニュッと静かに伸びてきて、ガシッ! と。
「お」
『黒い腕』はフェグルスの体をがっちり捕獲すると、そのまま恐ろしい勢いで扉の内側へと引き摺り込んだ。
「おおおおおおおおおおおおおおう!?」
何もかもが突然過ぎた。『黒い腕』に室内へと連れ込まれたと思った次の瞬間には、フェグルスの両腕両足はしっかりガッツリ拘束され、身動きを封じられ、気付けば何もできなくなっていて。
直後に、ガカァ!!!!!! と目を潰すような光が放たれた。
室内の照明器具が一斉に光を灯し、瞬く間に暗闇を白く塗り潰す。
その眩しさにもようやく目が慣れてきて、視界が回復したフェグルスは自分の体を見下ろし、「なんじゃこりゃ……!」―――己の状態に驚愕したのは一瞬、
「ニャーッハッハッハー!!」
突如として鳴り響いた笑い声。
フェグルスは思わず声のした方に視線を投げて……すぐに「はぁぁ」とため息。声の主を視界に収め、やっぱり『この人』の仕業だったか、と。
疲れたみたいに項垂れるフェグルスを余所に、部屋の主である『少女』は元気いっぱい。
「レディースエーンジェントルメーン! 我が研究室へようこそだよ! フェグルスくん!」
「……レディースはいねえし。男も俺一人だし」
生来のフェグルスの不機嫌そうな顔が、さらに不機嫌そうに歪む。
別に「人間共に反撃の狼煙を上げてやろうぞ!」と内に秘めたる復讐心を燃え滾らせた訳じゃない。ただちょっと、面倒な空気を察しただけだ。
「……悪いけど先生、まずはこの状況を説明して欲しいんだけど」
自分の状態を見下ろしながら、「ホントになんだこれは」と顔をしかめるフェグルス。
しかし、
「ちっちっちー」
先生と呼ばれた『少女』は、立てた人差し指を左右に振るだけで、
「物事には順序ってものがあるのだよ、ワトソンくん」
「誰だよ……」
「説明の前に、まず僕に言わなきゃいけない事があるんじゃないかな!」
キッ! と鋭い目つき。『少女』は腰に両手を当てて、ぷりぷり怒った仕草をしてみせる。
そんな『彼女』に、一応は己の非を自覚しているフェグルスは一瞬黙り込み、ボソッと。
「……遅れて悪かったよ」
「そ! お! だ! よ! 夕方前には来るからってずーっと待ってたのに! いつまで経ってもフェグルスくん来ないし! 僕見捨てられたと思ってずっと枕もベッドも濡らしていたんだよ!?」
「それに関しちゃホントごめん。ちょっと仕事が長引いちゃって……」
「僕との約束よりも仕事の方が大事だって言うの!? ひどいや! 君がそんな冷酷無比な男だったなんて思わなかったな! ふん! 君には一人で寂しく孤独に打ちひしがれるか弱い女の気持ちなんて分からないんだ! この薄情者! 浮気者! ハゲ!」
「ハゲてはいねえだろ……」
なんなら浮気だってしていないし、誰かと恋仲になった記憶もない。
「こんなにも君を愛する良妻が健気に待ってるのに、仕事の方が大事だなんて!」
「それは本当に誰の事だよ……」
良妻にも覚えがなければ、健気な奴にも覚えはない。
「これでも僕は怒ってるんだよ! なのでフェグルスくんに罰を与えます!」
むふーん! と『少女』は鼻息を荒げつつ、
「という訳で、フェグルスくんを十字架に張り付けてみました」
「だからそれを説明しろって言ってんだよ!」
気分だけならまさに咎人。約束の時間を盛大に破った罰として、ただいまフェグルスは、十字架に極太ワイヤーで両手足を縛り付けられているのだった。
……いやなぜ? どうして? 十字架? なに?
意味も分からなければ訳も分からなかった。
そんなフェグルスの心境などお構いなし。ニャハハハハー! と、ネコの耳にも似た癖毛をフワフワ揺らして高笑いを決めるこの『少女』こそ、何を隠そう……何も隠しちゃいないのだが、この地下施設の主にして大学病院の院長、シルフィ・コルレオニスその人であった。
「呼び出した奴を拷問道具に縛り付けるとか……何考えてんだ」
これが本当に医者なのか? フェグルスは未だに信じられない。
職人に特注で作らせたという着物を身に纏い、肩から太ももまで地肌を隠している。深紅の生地に黄金のラインを走らせたようなデザインで、彼女の肩まで伸びる銀髪が美しく映える。
さらにその精美さを際立たせるのは、彼女自身の幼さ。
綺麗なミルク色をした卵型の童顔は、誰がどう見ても一〇代の少女特有のもので―――というか、実年齢が一五歳なのだから仕方がない。
挙句に、
「えー!? フェグルスくんはこの十字架を見て興奮しないの!? 見てよこれ! この一切の狂いも無い完璧なクロス! 人体を痛めつけるには最高最適のフォルム! まるで人間を恐怖と絶望のどん底へと叩き落すためだけに生まれてきましたと言わんばかりの圧倒的な存在感! フ~ニャ~、癒される~!」
手の施しようがない根っからの拷問道具マニア。
詳しくは知らないが、何やらこの少女は超絶頭が良いようで、豊富な医療知識と卓越した治療技術で、特例的に未成年で病院の院長を務めているという稀有な天才らしいのだが、それがこのザマだ。ため息しか出て来ない。
そんなわけで。
ここは病院の地下数十メートルに広がるシルフィ専用の『研究室』。
フェグルスはこの少女から、『とある用事』で呼び出されていたのだ。
「むっ、どうしたのフェグルスくん。顔色がまるでゾンビのように……」
「疲れてるだけだ。放っておいてくれ」
街へ出れば全裸マフラーと出会い、仕事場へ行けば水を浴びせられ、病院では十字架に吊るされ……どうなってるんだこの街は。安息の地はどこにもないのか?
「まさか先生、患者にまでこの趣味に付き合わせてるんじゃないだろうな。大丈夫なのか? 医者として」
「何を言うのさ! 大事な大事な患者さんにそんなヒドイ事するわけないよ! フェグルスくんだけにしかやらないもん!」
「ヒドイ事だって分かってんならなんで俺にやるんだよ」
「そっちの方が興奮すると思って」
「……俺にそんな趣味はない」
「ニャんと! 縛られて興奮しないだなんて! フェグルスくんってもしかして、特殊性癖?」
ヨナカといい、変態は基本的に自分がおかしいとは思わないのだろうか。
こんな奴が医療を司っているのか。
この街はもうすぐ滅んでしまうかもしれない。
「あれ? 縛られて興奮しないという事はつまり……フェグルスくんは縛る側!? そんな! 僕、フェグルスくんに縛られたりなんてしたら興奮し過ぎて死んじゃうよ! ハッ! さてはフェグルスくん! 僕を夜通しでクタクタになるまで攻め通した挙句! 緊縛監禁調教して首輪を付けていつでもどこでも情欲を吐き出す肉奴隷にするつもりなの!? ウニャアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!! 想像するだけで興奮しちゃうよお!!」
「……どうしろってんだ……」
ゾクゾククネクネ~と恥ずかしそうに身をよじらせる変態医師を、フェグルスは世界中の闇を携えた魔王の如き眼差しで睨みつける。
手に負えない。こんな変態は。
「心配しなくても大丈夫だよフェグルスくん!」
「あ?」
「僕は攻めるのも攻められるのも得意さ!」
「攻めるつもりも攻められるつもりもねえんだよこっちはハナから」
「え!? フェグルスくんは今日、僕の初めてを貰いに来たんじゃないの!?」
「誰が貰うかそんなもの! あんたに関して欲しいものなんか何もない!」
どうしよう、帰りたい。コイツとの約束なんて無視してやればよかった。
何を後悔したとこで、結局今さらだが。
「んもー、フェグルスくんったらどうしちゃったのさ。なんだかいつもより冷たい……はっ! これが噂に聞く倦怠期!?」
「あんたみたいなのが相手だったら誰だって嫌んなるよ!」
結局その後数分はシルフィの興奮が治まらず、発情期の猫さながらに騒いで暴れて「ニャーニャー」鳴き散らして無駄に想像を飛躍させてゾクゾクして、結果として出血多量で十分ほど気絶。覚醒してからも幾度に渡るフェグルスの「いいから解放してくれ!」を経て、やっと解放へと向かったのだった。
で、テイクツー。
「ニャーッハッハッハー!! レディースエーンジェント―――」
「振り出しまで戻るな」
十字架の上で大半の気力が削がれ、疲労し切ったフェグルスは心を入れ替える。
そうだ、別に自分は変態と戯れるためにここへ来た訳ではない。しっかり『用事』があるのだ。
ならさっさと要件を済ませてしまおうと、フェグルスは口を開きかけ、
「おーっと待ったぁ!」
しかし、シルフィの方が一足早い。
「皆まで言わなくても大丈夫、君の訊きたい事は分かってるよ。うんうん。……しっかり体は洗って来た!」
「起こらねえよ、体を洗っとかんきゃならねえイベントなんて、この先ずっと、あんたと俺の間には」
「え、違うの? てっきり僕の処女を貰ってくれるという話かと……」
「いらん貞操の押し売りをするんじゃない、医者だろあんた。……まさか色んな奴にそんな態度じゃねえよな。節操なさ過ぎるだろ」
「むっ! フェグルスくんは僕をなんだと思ってるの!? 舐めてもらっちゃあ困るよ! 僕が身も心も捧げるのは君だけさ!」
「俺に捧げてもらっても困るんだよ」
フェグルスは心の中で頭を抱える。だって根本的に話が通じない。真面な意思疎通が取れやしない。ストレスだけがどんどん溜まっていく。
人間社会で生きていくというのは、こんなにも大変な事なのか。
……多分、違うと思う。
「本当にどうなってんだ、俺の周りの連中」
喧嘩っ早い最強魔法使いに、全裸マフラーの露出狂、そして拷問道具マニアの変態医師。
正体を隠すため、普段から外界との接触を最小限に抑えているフェグルスからすれば、彼らは貴重な人的財産だ。にも拘らず約半分が変態ときたもんだ。これを嘆き悲しまずにいられるか。
知り合いを増やしたくないというのは本音だが、それはそれとして、セートカイチョーのツクモと知り合えたのは本当に良かったとフェグルスは思う。
少しは常識人の知り合いを作りたい。
「……つれない。今日のフェグルスくんはいつにも増して冷血かも。お預けをくらう僕の身にもなってよね!」
餌を目の前にした猫のようにソワソワと落ち着きなく、シルフィは「ングゥゥ」と猫そのものみたいに喉を鳴らすが、
「……ん。でもこれ以上フェグルスくんに嫌われるのも嫌なので、いいでしょう、このシルフィ先生が閑話休題にしてあげます」
「最初からしてあげてくれ……」
ニャッハハハー! と笑って流された。
どこまでも掴めない人間だ。
「さて、それじゃあ本題に入ろっか」
そう言って、シルフィは着物の内側に手を突っ込むと、懐から無造作に取り出したのは、
「ああ、一体この日をどれだけ待ちわびた事か! ついに僕の手が届くんだね……フェグルスくんの肉体に!」
「もっと健全な言い方できないのか」
「健全なんか知ったこっちゃなーし! 何を言おうが今日は僕の言う事を聞いてもらうんだからね! そういう約束だもん!」
だもん! と言われてしまうと、そうだとしか答えようがなかった。
今日は彼女の言う通り、彼女の言う事を聞くという約束をしてしまっている。
「というわけで!」
シルフィは元気ハツラツ。
着ている着物を精一杯着崩しながら、
「今日はフェグルスくんの体、いーっぱい見ちゃうんだからね! ンッフー!」
ギラリと光る医療用の刃物を何本も器用に指に挟んで、少女は嫌らしい笑みを浮かべてみせた。
『魔獣生態研究室』。
それが、この粉々になった魔獣の死骸で溢れ返る地下施設の名前であり。
目の前にいる少女こそが、世界でも名を馳せる若き天才医師にして、魔獣生態研究の第一人者。
そして。
フェグルスの正体を知る、唯一の存在だった。




