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『庭園の記憶・後編』

「……」

 誰かがあの長椅子に座っている。それは間違いない。

 図らずもそれは、ツヴァイスに大きな不快感をもたらした。

 そもそも、この場所に来ることが、グラヴェール屋敷に来た目的だったのだ。リオーネを訪ねてというのは、実はただの口実にすぎない。

 アドビスの留守中、ツヴァイスがリュイーシャを訪ねて来ることを知っていたのは、リオーネと執事エイブリーの二人だけだった。

 そして、アドビス不在の折、リュイーシャがツヴァイスを頼りにしているのを知っていたから、エイブリーは二人の密やかな語らいの時を、己の胸の内にしまっていたのだ。

 それ故、今日も気をきかせて、あの執事は庭園に案内してくれた。

 ツヴァイスが長椅子の所へ行きたいだろうという気持ちを察して。


 それにしても誰だろう。

 グラヴェール家の使用人の誰かが、仕事をさぼって昼寝をしているに違いない。

 ツヴァイスは知らず知らずの内に眉間に厳しい皺を寄せ、彼にとっては神聖で犯されざる聖域でもある長椅子に、座っている不埒者を追っ払おうと、そっと背後から忍び寄った。

 以前は真っ白だった大理石の椅子は、海風にさらされて角が少し丸みを帯び、淡い琥珀色に染まっている。

 ただそこに座っているなら、ツヴァイスの踏みしめる芝生の音で、不埒者は後方を振り返るだろう。

 だがやはり、それは長椅子で昼寝をしていた。

「……」

 椅子の上には、見たことのない子供が一人、積み上げた十冊程の本を枕にして、すやすやと眠り込んでいた。

 年の頃は七、八才ぐらいの小柄な――女の子。

 いや、ヴェルヴェットの膝丈まであるズボンに、シルクの白い靴下を履いているから男の子だ。一瞬女の子と見間違えたのは、伏せた長い睫とほんのり赤い小さな唇、いつもは首の後ろで束ねているのだろう――肩甲骨を覆う程まで伸ばされた長い金髪だったからだ。

 ツヴァイスはその場に立ちつくし、何の邪気も感じられない無防備な子供の寝顔を眺めていた。

 男の子にしては覇気がなく、眉が細いせいか優しい顔立ちをしている。

 誰かに似ているような気もするが、それが誰なのかすぐには顔が浮かんでこない。  

 この子供は何者なのか。

 使用人の子供にしては身なりが良すぎる。

 エイブリーは言わなかったが、グラヴェール屋敷にはツヴァイスの他にも客がきているのかもしれない。

 子供の素性が気になるが、ツヴァイスが興味をひかれたのは、子供がよりかかって枕代わりにしている数冊の本の背表紙だった。

 どれも立派な表装で題名は金で箔押しされている。なかなか高価な本らしく、数百ページはありそうな分厚いものも数冊混じっている。


『何を読んでいるんだろう』

 長椅子の前に膝をつき、ツヴァイスは背表紙をのぞきこんだ。


<海事法―エルシーア創世1204年度版>

<海図の読み方・基礎編>

<三角航法・応用編>

<造船技術の向上・最新艦アストリッド号建造報告書>

<星座と推測航法>


「……何で、こんなものを」

 上の方に置いてある、最初の数冊の題名を読んだツヴァイスは、正直肝をつぶし辟易した。

 これらは年端もゆかぬ子供が理解できるようなお話の本ではなく、その辺には出回っていない、エルシーア海軍省の資料室に置いてある教本や資料本だからだ。

 しかしツヴァイスは、この本の出所がすぐにわかった。

 ここは代々海軍将校を排出しているグラヴェール家の屋敷だ。

 きっと現当主の書斎から持ち出してきたのだろう。


『それにしても、さっきから驚かされているばかりのような……』

 ふっと思わず息をつきながら、この子供は本当にこれらを読んでいたのだろうかと、ツヴァイスは目を細めいぶかしんだ。

 たまたま、枕にするのに丁度良いからと、屋敷から運んできたにしては、この痩せぎすの細い子供の腕では重すぎて辛いはず。

『他には何を持ち出してきたんだ? 軍港司令やアドビスが知ったら、こっぴどく怒られるぞ』

 まるでびっくり箱でも開けるように、内心どきどきしながら、ツヴァイスは残りの題名を見ていない本へと視線を転じた。

 だが、子供の華奢な金髪が幾重にも覆い被さっているのでよく見えない。

 ツヴァイスはそれを持ち上げるため手を伸ばした。

 潮風にさらされてぱさついた自分の髪とは違い、子供特有のこしが柔らかく羽毛のように軽いその髪は、ツヴァイスの手の中で眩しい光を放っている。まるで硝子細工の箱の中に光そのものを閉じ込めたように。

 ツヴァイスはつとその輝きに目を止め、懐かしい想いにとらわれた。

 子供の頃は皆美しい金髪をしている。だが成長するにつれて、その陽の色を模した金色は、世の中の良い所や悪い所を知る度に、どんどん輝きを失い色褪せていくのだ。

 ツヴァイスは、手の中で輝く同じような髪をした彼女を思い出していた。

「ん……」

 さざなみのように光が揺れた。小さな吐息と共に。

 ツヴァイスは思わず身を強ばらせ、手の上に載せた子供の髪が、するするとこぼれ落ちていくのも構わずに、ただその場に固まっていた。

 鮮やかな碧海色をした二つの双眸が、金色の睫の下からのぞいていたのだ。

 それは一瞬焦点が合わないように何度かまばたきを繰り返した後、長椅子の前に膝をついているツヴァイスの顔をとらえた途端、子供とは思えないくらいの鋭い光を帯びた。

 ゆっくりと、ほのかな紅色をした唇が言葉を紡ぐ。

「あなたは、誰――?」

 枕にしていた本の上に右手を載せ、子供は見知らぬツヴァイスの顔に驚いたのか、慌てて上半身を起こそうとした。

 その時、重ねていた本がぐらりと不安げに揺れた。長椅子には肘置きがついていない。本は子供が右手を載せた勢いに任せ、そのまま前方へ崩れ落ちていく。その小柄な体ごと……。

「――――っ!」

 本が芝生の地面めがけ落ちた。

 その質量の重さからくる振動を感じながら、ツヴァイスは右手を伸ばし、頭から芝生へ転落しかけた子供の体を夢中で捕まえた。

「おい、大丈夫か?」

 思わず芝生に尻餅をつき、胸の中に抱きとめた子供に向かって呼び掛ける。

 子供はあまりの突然の出来事に、すっかり驚いてしまったのか、一言も声をあげず、ただただ小柄な体を縮こませ、ツヴァイスの体にしがみついていた。白いリネンのシャツにベストを着た双肩が、動揺の激しさを表すように上下に大きく動いている。

「本を枕などにしているからこうなるんだ。それより、怪我はないか?」

 芝生に腰を下ろしたまま、ツヴァイスは仕方なく子供の頭をそっとなでた。

 一度、二度。

 そうしていると、荒い呼吸をしていた子供の肩が、それほど大きく上下しなくなり、ツヴァイスにしがみついていたその指から、ゆるゆると力が抜けていった。

「……もう、大丈夫です。はなして、下さい」

 ささやくようなソプラノの声。少しそれは小さかったが、年の割にはしっかりとした口調だった。

「あ、すまないな」

 ツヴァイスは子供の頭をなでるのをやめ、ようやく顔を上げてじっとこちらを見つめるその視線を受け止めた。

「あっ……」

 今度はツヴァイスが驚きの声を上げた。

 そこには忘れることがない、彼女の碧海色の瞳があったからだ。

 やはり、見間違いではなかった。

 それでは、この子供は――。

 しばし見入るツヴァイスに、子供は細い眉をしかめて目を細めた。

 顔つきがみるみる曇った空のように暗くなる。

「ごめんなさい。本がくずれるなんて、思わなかったから……。それより、あなたは大丈夫? 怪我は、ないですか」

「えっ? ……あ、ああ」

 まさか子供に気遣われるとは。

 ツヴァイスは不意を突かれて、呆然と目の前に座る子供を見つめていた。

「よかった」

 細めていた目元の緊張を解き、小さな唇が笑みを形作る。初めて年相応の無邪気な表情を見せた子供は、陽の光を受けて眩しげに光る髪を風に遊ばせながら、ゆっくりと立ち上がった。

「……枕にするつもりじゃなかったんです。ちょっと……本を読んでいたら、ねむくなっちゃって」

 子供は椅子の足元に散らばった本を拾い上げた。

 くっと息を詰めて本を持ち上げ、しかし片手で持つのは辛いのか、両手で抱えると、どすっと音を立てて再び長椅子の上にそれを置いた。


<エルシーア海軍100年史>


 ――どうみても子供が読んで楽しいと思える本ではない。

「よいしょ……っと」

 子供は再び落ちた本を拾い上げた。

 そして、長椅子の上に積み上げていく。

 淡々と繰り返されるその作業を、ツヴァイスは黙ったまま見ていた。

 けれど好奇心に負けて、ツヴァイスはついに尋ねることにした。

 先程題名を見た<造船技術の向上・最新艦アストリッド号建造報告書>という本を手にした子供が、ページの分厚さ故に重いそれを抱えたのはよいものの、足がふらりとよろめくのを見て、ツヴァイスは片手でそれをつかみ長椅子の上にのせた。

「す、すみません」

 うっすらと額に汗をかいた子供が、恐縮したようにつぶやく。

「構わんよ。それよりも、ちょっときいてみたいのだが」

「なんですか」

 本を全部長椅子の上においた子供は、ツヴァイスと同じように再び芝生の上に腰を下ろした。

「君は船が好きなようだね」

 そう話し掛けると、あの青緑色をした瞳が生き生きと輝きはじめた。

「はい。いつも時間があれば、ここからアスラトルへ来る船を見ているんです」

「そうか。じゃあ、エルシーアの軍艦はよく知ってるんだろうね。最近作られたアストリッド号は見たことがあるかね? あの船は大砲を二層甲板に98門も配備し、スラウェシ港を守る浮き砲台として、にらみをきかせてるんだよ」

「あの」

 子供が鋭い口調でツヴァイスの言葉をさえぎった。

「なにかね」

 ツヴァイスは眼鏡に手をやり、何か言いたげな子供の顔をじっと見つめた。

「あなたの今いわれたことには、間違いがあります」

「ほう」

 頬が笑いのためぴくぴくと引きつりだす。ツヴァイスは軽くそれを手で払った。

「あなたはアストリッド号とシーレイル号を間違えているようです。アストリッド号が作られたのは今から六年前。それに彼女は、三層の砲列甲板を配備した大砲100門を備える1等軍艦です。けれどシーレイル号は去年、スラウェシに配備されました。最近作られたのは彼女の方で、彼女はあなたの言われた通り、二層の砲列甲板に98門の大砲を備えています」

「そうか。そう言われれば、君の言うことの方が正しい気がする」

 いや、まったくもってそれは正しいのだが。

 ツヴァイスは内心舌を巻きながら、次の質問を考えていた。

「実は私は海軍の軍人だがね、一度士官候補生の頃、大きなミスをしたことがあるんだ。夜間航海中、船の現在位置を計算するために、月を使って天測したんだが、これがあろうことに数値を間違ってしまってね、浅瀬に向かって船を走らせ座礁させたことがあるんだ」

 すると子供は、くすりと笑い声をたてた。

 実はこの失敗談は事実であるため、ツヴァイスは正直この子供が急に小憎たらしく思えた。

「天測に月は使わない方がいいですよ。誤差が大きいから。北なら天頂近くにある御柱座や、南の大鷹座の赤い星――メリアンヌがいいそうですよ。大佐どの」

 ツヴァイスは眼鏡をかけなおした。ちょっと得意げに微笑む子供の無邪気なそれに、ついつりこまれそうになりながら。

「その軍装は大佐だと思ったけど。……違っていたら、すみません」

 ツヴァイスは肯定の印にゆっくりと首を振った。

「いや、確かにそうだよ、君」

 子供は急に視線をツヴァイスから逸らせた。小さくため息をついている。

「ごめんなさい。だったら、お祖父様か父様に用事があって、うちへ来たんですよね。でも、二人ともここにはいません」

 先程までの生気に満ち溢れた目の輝きは、消え失せていた。

「お祖父様はあと一月ほど屋敷に戻らないと言っていました。父様の方は……何時帰って来るのか、僕には教えてもらえませんでした。だから……」

 子供は膝を抱え、風がその柔らかな髪を乱すままに任せながら、陽光にきらめく海を見つめていた。

「……違うんだ」

「えっ」

 ツヴァイスの言うことが良くわからないという風に、振り返った子供は小首を傾げた。

「私はお祖父様や父様に会いにきたんじゃない」

「……」

 子供が再び表情を強ばらせて、戸惑ったようにツヴィアスの顔を凝視している。だがツヴァイスは、愛しい人の面影を宿す、その現し身とは知らぬ子供の瞳を食い入るように見つめていた。


 ああ。その眼差し。

 その瞳を再び見ることは、決して叶わないと思っていたのに。


『オーリン。来てくれてうれしいわ。ほら、見て』

 真新しい産着に包まれて、小さな吾子は彼女の腕に抱かれていた。

『初めは実感がわかなかったけど、この子は私の分身なの。私がこの世に生きたという証――』


『この子は私の命の光、そのもの』


 リュイーシャの声が、風に乗って聞こえたような気がした。

 とても近くで。

 遠い記憶を探りながら、ツヴァイスはそっと子供の名前を呼んだ。


「会いたかったのは君なんだ。きっとね、シャイン」




 ―完―






・「庭園の記憶」について。


まずは本編「エルシーアの金鷹と碧海の乙女」ですが、これは「Noble Blue」という作品のスピンオフ小説になります。

「Noble Blue」はアドビスとリュイーシャの息子シャインを主人公とする海洋FT小説です。

アドビスとリュイーシャ、そしてスカーヴィズとの間に何があったのか。

これは20年後の話として「Noble Blue」の方で断片的に語られます。

長編なのでこちらは自サイトで公開しています。

 「Noble Blue」→ http://www9.plala.or.jp/tenryu-dou/sakuin.html


古い作品なので読みづらいかと思いますが、ご興味がおありの方はご覧下さい。


「庭園の記憶」に登場するツヴァイスは、アドビスが作った海賊拿捕専門艦隊(通称ノーブルブルー)で副長を務め、リュイーシャの死をきっかけに彼と袂を分かちます。「Noble Blue」では鍵になる人物です。


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