『庭園の記憶・前編』~本編より7年後
※閲覧ご注意※
本編「エルシーアの金鷹と碧海の乙女」より7年後の話になります。
ハッピーエンドな本編のイメージが崩れますので、お読みになる方はご注意。
※補足・登場人物について※
・ツヴァイス (本編より1年後・アドビスの船で副長を務める青年)
・エイブリー (グラヴェール家の執事。現当主及びアドビスに仕えている)
「あなたがこちらにおいでになるのは……かれこれ七年ぶりでしょうか」
通用門を開けた執事は、久方ぶりにグラヴェール屋敷を訪れた客人を、品の良い笑みで迎え入れた。
客人は三十前の整った顔立ちの男で中肉中背、緩やかにうねる濃い蜂蜜色の髪を黒いリボンで束ねている。エルシーア海軍の濃紺の航海服を纏っているが、そこには荒くれた船乗りという印象はまったく感じられず、貴人特有のけだるい優雅な雰囲気が漂っていた。
「ちょっと近くまで来たものだから、寄ってみたのだ。しかし、私のことをよく覚えておいでだね、エイブリー」
さわやかな風が木々の緑の葉を揺らすと、木漏れ日がちらちらと客人の顔に落ちて、きらりと鏡を思わせるガラスが光を反射した。
「今まで当家においでになられたお客様のことはすべて覚えております。それが、執事の重要な仕事の一つでございますから」
エイブリーは客人を屋敷の敷地内へ招き入れ、そして門を閉めた後、意外なものを見たように、口元へ白い手袋をはめた手を添えた。
「眼鏡をかけられたのですか。ツヴァイス様」
客人――オーリン・E・ツヴァイスは、自嘲するように右手を銀縁の眼鏡の鼻当てに添えると、ゆっくりとうなずいた。
「たいしたことじゃないんだが、海面を長い時間見ていると、目が疲れるようになってしまってね」
「左様でございますか。海軍の仕事は我が主の方々を見ていて、その大変さはよく存じております。ですが、お体を損ねないよう、どうかご自愛下さいませ」
「ありがとう」
ツヴァイスはもう一度唇の端を少し上げて笑みを浮かべた後、エイブリーに今回の訪問の目的を告げた。
「リオーネどのはいらっしゃるだろうか。少し話をしたくて来たのだが」
「はい。離れのお部屋にいらっしゃいます」
「では、客間の方で待たせて……」
ふとツヴァイスの口調がぷつりと途絶えた。その視線も傍らに立つエイブリーの方ではなく、前方の庭の方へと向けられている。
エイブリーはそれに気付き、穏やかな光を放つ水色の瞳をそっと細めた。
「客間でもよろしいですが、今日は良い天気でございますし、それにエルシャンローズがちょうど見頃なのですよ。庭園でお待ち下さいませ――昔のように」
はっとツヴァイスが身をこわばらせた。
眼鏡越しに見える紫の瞳が、表立って動揺を表さない彼らしくなく、大きく見開かれている。
「エイブリー」
執事はさも理解したようにうなずいた。
「今日は当主もアドビス様も屋敷へお帰りになりません」
「アスラトル軍港司令はスラウェシへ行っているし、海軍省できいたところによると、あの男はノーブルブルーを率いてエルシーア海南方方面へ遠征に出ているらしいな」
「左様でございます」
執事は冷静に、そして礼儀正しくツヴァイスの言葉を肯定した。
「エイブリー。お前はあの男に……アドビス・グラヴェ-ルに、私の来訪を報告するのか?」
優雅な雰囲気を保ちつつ、しかし眼鏡の奥の紫の瞳は笑みを浮かべることなく、冬の月を思わせるような冷たさを放っている。
執事はゆっくりと顔を横に振り、ツヴァイスの問いを否定した。
「私から話すことはありません。訊ねられれば答えねばなりませんが、貴方様はリオーネ様をお訪ねになられたのです。ですから、リオーネ様が当主やアドビス様への報告が必要だと思われない限り、口外することはありません」
ツヴァイスはふむと小さく唸って、ほっそりとした顎に右手を添えた。
「お前は自分の仕事をよく心得ているな。グラヴェール家でなくても、アスラトルの領主、アリスティド公爵家の執事頭を務めることができるだろう」
執事は実質召し使い達を取りまとめ、屋敷内の事務をこなしながら、雑用を含めあらゆることを把握しなければならない。だが単に把握するだけではなく、時と場合によっては、機転がきくことも求められる。
エイブリーはまさに機知に富んだ優秀な執事だった。
ツヴァイスはふと七年前――自分がまだアドビス・グラヴェールの船の副長で、彼の妻になったリュイーシャとの、密やかな語らいの時間を思い出していた。
「結構なお言葉をいただき、ありがとうございます。では、ツヴァイス様はエルシャンロ-ズの庭園の方でお待ち下さいませ。これからリオーネ様に、あなたのご来訪を伝えて参ります」
「わかった」
エイブリーはきっちりとツヴァイスに一礼し、庭木の間から見えるレンガ造りの母屋の方へ石畳を歩いていった。
その背中を見送ってから、ツヴァイスはきびすを返し、右手の庭園の入口をそっと見やった。ツヴァイスの腰ほどの高さに刈られた庭木が塀のようにぐるりと植えられ、庭園内へ入る入口にはアーチ状に組まれた木材の上を、のたうつ蛇のように生い茂ったエルシャンローズが、青白い花をいくつも咲かせている。
少し冷たい涼やかな風が、ほんのりとその花の甘い匂いを運んできた。
「……彼女がいなくなってから、七年たつというのに」
ツヴァイスは香りに誘われるまま、一歩庭園に向かって歩き出した。
彼女――リュイーシャがグラヴェール屋敷に来る前まで、この庭は好き勝手に植物が生い茂り、手入れが全くされていなかった。
無理もない。グラヴェール屋敷に住んでいるのは、現当主であるアドビスの父親と彼の二人だけ。母親は海軍のことしか考えない父親に愛想をつかし、十年前に若い愛人を作って王都ミレンディルアへと行ってしまった。
しかも、この二人は海軍の軍人であるため、平気で半年以上屋敷を不在にする。庭のことなどにかまけている暇も時間もない。
『まあ綺麗。これは何という花かしら』
アドビスと結婚したリュイーシャは、彼の子供を身籠ったため船を下り、妹であるリオーネと共にグラヴェール屋敷に住んでいた。
この荒れた庭を散策し、雑草の合間に生えているエルシャンローズを見つけた彼女は、いたくかの花を気に入った。そして、自らの手を土まみれにしながら雑草を引き抜き、リオーネやエイブリー、時には屋敷に戻ってきたアドビスや、彼に用件があって屋敷を訪れたツヴァイスも、彼女の理想とする『庭作り』に手伝わされた。
一月後。そこには色とりどりの花をつけるエルシャンローズの見事な庭園が完成した。かつてこの庭をつくったグラヴェール家の初代当主も、きっと草葉の陰で泣いて喜んでいるだろう――適度に剪定された緑葉樹のお陰で庭園に光が入り、以前の鬱蒼とした闇は駆逐された。雑草だらけだった地面には一面に芝が植えられ、それはまるで青々とした海原を思わせる。その芝には、赤や黄色。紫や真珠色。エルシャンローズの亜種の花木が、島のようにバランスよく配置されている。
そう。リュイーシャはこの庭に『海』を作ったのだ。
あんなことがなければ、何時か、故郷の島へと帰ることがあっただろう。
エルシーアの遥か南方に位置する小さな島。
『島にはいつか帰りたいと思っています。私達を待っていてくれる人はいないけれど、あそこは私が生まれた所だから……』
ツヴァイスは庭園のアーチをくぐった。
リュイーシャがあの男を助けるため、術者の禁忌を破って命を落としてから七年。
つい昨日の事のように思い出される。
彼女と過ごしたあの最後の日の夜を。
『今晩は。リュイーシャ』
『オーリン。あなたがいらしたということは、アドビス様は例の方の所なのね』
ツヴァイスが何時もリュイーシャを訪ねるのは、それが世間の暗黙の了解とされている礼儀――アドビスが不在だと確実に分かっている時だけだ。
それはアドビスが海賊の動向を知るため、定期的に『月影のスカーヴィズ』の所へ通う数日に他ならない。
ツヴァイスはそのことをリュイーシャに告白していた。
アドビスが屋敷に戻らないのに、副長であるツヴァイスが、リュイーシャを訪ねるのはあまりにも不自然であるからだ。
アドビスは確かに外で昔の女に会っているのだが、どこの誰ともわからない女の事でリュイーシャに心労をかけるくらいなら、『月影のスカーヴィズ』の事を話して、アドビスは仕事の為にあの女に会っていることを知っていた方がよかれと思ったのだ。
否――。
ツヴァイスは苦々しく唇を噛んだ。
それはツヴァイスがリュイーシャに会うための言い訳のようなものだ。
リュイーシャは若いが、ツヴァイスの話をすべて鵜呑みにする、愚かさは持ち合わせていない。
彼女は海のように寛大な心の持ち主だっただけだ。
両手を広げ、すべての思いを――自分の本心さえも包み込んでしまうほど、広い器を備えた女性だっただけだ。
海に見立てた庭園には、アドビスと座ることもあっただろう――二人がけの大理石で作られた長椅子が置かれていて、そこで何時もツヴァイスとリュイーシャはひとしきり語り合った。
『私は海に出られないから……あの方のお役に立てないのね』
『リュイーシャ。そんなことはない』
あの夜。彼女は何時になく気落ちしていた。
繰り返し、アドビスの役に立てない自分を責めていた。
ツヴァイスはそんな彼女を見るのが一番心に堪えた。責めるべきはアドビスの不実な行為で、リュイーシャに落ち度は何一つないというのに。
現にリュイーシャは、二十才という若い身空で、生まれたばかりの赤子を育てながら、船乗りの妻として、海に出ている夫の代わりにその留守を守っているのだ。
リュイーシャはうつむいているため、結っていない淡い金の髪が滑り落ちて顔を隠していたが、その合間から、白いエルシャンローズの花びらを思わせる頬がのぞいていた。そこに、夜露のような雫がすっと伝い落ちていくのを見た時。
見知らぬアスラトルの地に幼い妹と共に来て、心細いこともあっただろう――それでも人前では、今までツヴァイスの前でも弱音を吐かなかった、彼女の涙を初めて見た時。
ツヴァイスは律していた自制の糸が切れそうになった。
『私ならあなたに、そんな苦しい思いを一時たりともさせはしない』
それが、アドビスを愛する故に流されたものだというのはわかっている。
わかっているからこそ、震える彼女の体を抱きしめて、その言葉が偽りではないことを、あの男以外に彼女を支えてやれるものが側にいるということを、心の底から伝えたいと切望した。
だがツヴァイスがリュイーシャに触れることはなかった。
手を伸ばせばその肩に触れられる距離に座っていながら。
白い月光に滑らかな輝きを放つその髪の一筋さえも。
触れることはできる。
けれど、それですべてが終わりになる。
リュイーシャがアドビスの不在中にツヴァイスと会ってくれるのは、ツヴァイスが友人としての節度を遵守しているからだ。
それが破られることがあれば、リュイーシャは屋敷の門扉を閉ざし、二度とツヴァイスに会わないだろう。
だからツヴァイスは、胸の内には密やかなる彼女への思いを抱きつつ、しかしそれを口にはしなかった。
いや、その言葉を口にすることを、己自身が許さなかった。
リュイーシャはアドビスの妻であり、今は母親でもあるのだ。
高嶺の花となってしまった故か、ツヴァイスは己の気持ちを伝えるよりも、彼女の幸せな姿を近くで見ることを選んだ。
こうして許された限られた時を、共に過ごすことができることを望んだ。
けれどそれは、望んではならぬことだったのか――。
結局、リュイーシャはあの夜より三日後、帰らぬ人となる。
ツヴァイスはリュイーシャの作った庭園を、かつて二人で語らった、あの大理石の長椅子がある奥の方へ向かって歩いていた。
エルシャンローズの花は七年前と変わらず大輪の花をつけていて、その香りがリュイ-シャとの思い出を、一つ一つ掘り起こしていくのだった。
彼女の死から七年もたつというのに。
ツヴァイスはあの頃と変わっていないようで、しかしあの頃よりも大きく成長した木々や、芝生になじんでいるエルシャンローズのそれを、度の入っていない眼鏡越しにじっと見つめた。
庭は今もエイブリーが管理しているのだろう。青々とした芝生に落ち葉は一枚も落ちていない。
「それにしても、大きくなったな」
庭園は少し緩やかな上り坂になっており、十メートルほど先に例の大理石の長椅子が、青白い花をつけるエルシャンローズの茂み越しにちらりと見える。
その前方には雲一つない水色の空と、リュイーシャの瞳と同じ、エルシーアの碧い海が広がり――。
「……?」
きらりと何かが光った。長椅子の方で。
椅子の後ろには大きな茂みとなったエルシャンローズがあるので、椅子は左側のほんの数十センチの部分しか見えない。
さては、水面が輝くのを見誤ったか。
ツヴァイスは眼鏡を押し上げ、再び椅子の方へと歩き出した。
前方から潮の匂いが少し混じった風が吹いてくる。
「……!」
ツヴァイスは一瞬息を詰めた。まるで全身を雷にでも打たれたように、前につんのめるように両足が停止する。
白昼夢をみているのだろうか。
あの長椅子に誰かが座っている。いや、寄りかかっているのか。
きらきらと日の光を反射する金色の髪が、海から吹く風に軽やかに舞っているのが見えるのだ。
ツヴァイスは思わず眼鏡を外して目をこすった。
この庭園に足を踏み入れてから、リュイ-シャの幻影を追っていた。
ありもしないものを見ようとしている自分がいた。
もう一度、あの人に逢いたいと望む自分が――。
『しっかりしろ。彼女はもういないのだ』
ツヴァイスは自らの頬を軽く叩き、再び銀縁の眼鏡をかけて長椅子を見やった。
けれど金色の幻は失せていなかった。
まるでツヴァイスを呼んでいるかのようにそこにあった。




