第59話 【救済】 絶望の淵でみさきが授けた『心の栄養補給』
「……すいません」
今日何度目かわからない謝罪の言葉。
リサーチしていたパスタの店は、あいにくの臨時休業。
第二候補だったカフェには、絶望的な長さの行列がビルの隙間にたなびいていた。
(……くっ、この体たらく)
胸がキリキリと痛む。もっと予備のルートをいろいろと構築しておくべきだった。自分の段取りの悪さに、せっかく新調したジャケットが急に重く感じられる。
「本当にすみません、段取りが悪くて……」
すると、みさきさんは困った顔ひとつせず、無邪気な瞳で笑った。
「いいですよ、八天さん。それなら――私のおすすめのお店、行ってみませんか?」
何度差し伸べられたかわからない救いの手に、俺はまたしても縋ることになった。
案内されたのは、繁華街の喧騒から一本外れた路地の先。隠れ家のような雰囲気の良いイタリアン。
扉を開けると、温かみのあるオレンジ色の照明と、食欲をそそるガーリックとオリーブオイルの香りが鼻腔をくすぐる。
案内された席は少し狭く、自然と二人の距離が近づいた。
だが、メニューを開いた瞬間、俺の脳内にある「カロリー計算機」が警告を発する。
(パスタは炭水化物の塊……ピザは脂質の暴力……現役トレーナーの目の前だぞ!)
1食の許容量をオーバーするラインナップを前に、俺は完全にフリーズした。
「八天さん、何にします?」
「え、ええと……あの……サラダ、とかですかね。あと、単品のチキンとか……」
守りに入りすぎている俺を見て、みさきさんが堪えきれずに吹き出した。
「もう、八天さん!」
彼女はメニュー越しに、いたずらっぽく俺を覗き込む。
「私の目なんて、今日は気にしなくていいですよ」
「えっ、でも……」
「ドカ食いさえしなければ、こういう日は全力で楽しんでいいんです。……それに」
彼女は細い指でメニューの文字をなぞりながら、言葉を続けた。
「今『食べたい』と思ったものは、今の八天さんに本当に必要なものかもしれないですよ?」
「必要なもの……?」
「心の栄養補給も、身体を鍛えるのと同じくらい、とっても大事ですから」
心の栄養。
その言葉が、驚くほどスッと胸の奥に入ってきた。
「一日くらいカロリーオーバーしても、週単位のトータルでコントロールすれば大丈夫。私が保証します」
トレーナーモードの、理知的で自信に満ちた口調。
でも、今日のその声は、ジムで聞く時よりも優しく、暖かい気がした。
時に厳しく、背中を押してくれた人が、こうして「緩め方」まで教えてくれる。
……結局、俺は教えられてばっかりだ。
「……じゃあ、」
俺は覚悟を決めた。
「渡り蟹のトマトクリーム、いきます。これにします」
「いいですね! それ、すごく美味しそう」
彼女は自分のことのように嬉しそうに笑った。
結局、マルゲリータも一枚頼んでシェアすることになり、運ばれてきた料理は――震えるほどに美味かった。
「……うまっ」
思わず漏れた、魂の叫び。
「でしょ?」
みさきさんが得意げに笑う。
「食べたら、その分また明日から動けばいいんです」
二人でピザを取り分けて、パスタを頬張り、たわいない話で笑い合う。
トレーニングの話。
職場での小さな出来事。
そして、共通の趣味である「転生モノ」の話。
胃袋だけじゃない。冷え切っていた心の隙間までが、みるみるうちに満たされていく。
段取りの悪さを悔やんでいたけれど、彼女のおすすめの店に来て、本当に良かった。
「ふぅ。……じゃ、そろそろ行きましょうか」
みさきさんが、名残惜しそうに、けれど期待に満ちた顔で立ち上がる。
「はい」
俺たちは並んで店を出た。
お腹も心も、準備は万端だ。
いよいよ本日のメインイベント――約束の映画館へと、俺たちは足を踏み出した。




