理由の間幕
苦しみを知る中で、自分に出来ることはなんなのだろうか?
大切な人に生きる希望を持たせるには、どうしたらいいのだろう?
理由の間幕
「苦しいよ…… ――――さん」
水原綾芽が泣いていた。
夢の中で恋人の名前を呼ぶ。
彼女が見ている世界は、恋人の居ない非現実の世界。他は何も変わらない、いつもの日常の世界だった。
気付くといつもの寝床にいて、あの人の名前を呼ぶと信じられない恐怖と立ち会う。
あの人が傍に居ない…
いつも傍に居てくれたあの人の声も聞けず、あろうことか、気配すらしない。
目が見えずとも、傍にいれば必ず匂いと気配で、存在を感じ取れたはず。
「どこなの?」
手探りながら、彼女の手が空を泳ぐ。
焦りながらも、家の中を捜し歩く。
おぼつかない足取りでただ一心不乱にあの人を探す。
それでも居ない。
何処にもいない。彼の温もりがわからない。
水原綾芽は激しく息をしながら、今度は家の外を探す。
裸足のまま、むき出しの砂利道を。
ただひたすら走った。
眼が見えなくても走り続けた。
ただ愛する人の幻想を、追って。
何度も転び、何度も塀にぶつかって、何度も人にぶつかろうとも。
地面を這ってでも前を目指した。
体中が泥まみれになっても諦めなかった。
(どこなの!?)
もう叫びになっていた。
あの人が居ない恐怖で押しつぶされそうだった……
居ない、居ない、居ない居ない居ない居ない居ない居ない。
もしあの人が居ない世界で生き続けるなら。
――消えてしまいたかった。
「――――――――――――――――ッ!!」
そこで必ず悪夢は覚める。
自分が何かを叫んでそこでいつも夢の世界は終わる。
気付くと彼女は涙と汗にまみれて、泣いていた。
息さえも途切れ途切れで、ただ苦しみを吐き出すように泣いていた。
まるで意識とは別にして、もう1人の自分が勝手に泣いているかのように。
「大丈夫ですか?」
「誰ですか!?」
「あ、すいません。郵便局の坂本です。またお手紙が届いたので、お持ちしました」
まだ、お昼を過ぎたところだった。
郵便配達を何時もしてくれている人がいつのまにか近くにいた。
最近、フネさんの代わりに手紙を読んでくれている人だ。フネさんが忙しい中で、代わりにその読む役を変わってくれた変な人だった。
でも、その手紙を優しい声で読んでくれた。今の現実を忘れてしまうかのような、暖かい男の声で、それを懐かしい恋人の声と勘違いしてしまいそうになった時もある。
「本当に平気ですか?」
知られてはいけない、この人には。もちろんフネさんにも。
本気で心配してくれているこの人たちにこれ以上の迷惑をかけることは出来ない。
自分の思いを必死に隠して、郵便配達員から顔を背ける。
「大丈夫ですから」
「あの、それで今日の手紙はどうしますか? 読みましょうか?」
「すいませんが、1人にしていただけませんか? 少し眠ったら汗をかいてしまって、これから着替えようかと……」
「あ、し、失礼しました。それでは!」
郵便配達員の声に少し、照れが入っているのが分かった。
ぱたぱたと、足音が中庭から聞こえなくなった途端、緊張が解けて我慢していた涙がこぼれそうになった。
「――――さん…」
何時もあの夢を見る。
あの人がいないだけの、日常世界。たぶん、この夢から逃れるには、今すぐあの人と幸せになれれば、いいと思った。
でもそれも、出来ないことも知っている。
ぽたぽたと、泣くことしか、出来ないことも分かっていた。
2
あの黒紙からもう十数日たつ。水原さんに秘密を知られないように、私は三日に一度は手紙を書き、それを読み聞かせ、彼女を喜ばせているはずだった。
事実、彼女は喜んで手紙を受け取って聞いてくれた、が。
それでも、今日見たように彼女は泣いている。
迫り来る恐怖に飲み込まれないように、夢の中だけで。心の中では彼女は本当に、苦しんで、泣き叫んでいた。
見ているこちらまでもが、泣き出しそうになった。
もう彼女は限界だ。
このままでは彼女は心を失ってしまうだろう。それを防ぐためには、何が出来るのだろうか。
―――その辛さを彼女の中から消してしまえばいい。
そんな馬鹿なことを思いつき、頭から振り払う。
だが他にどうすれば、彼女の心を助ける事が出来るというのだろう。
どうすれば、彼女の心をここに留めて置けるというのだろうか。
その時、私はあの時の不思議な友人との出来事を思い出した。
だから、その日の夜、私は悪魔の電話を友人にかけた。
「もしもし、如月だが。ん、……彰か?」
「…………忠光」
私は次の言葉が見つからず、言い淀んでしまった。伝えたいことが他にあるはずなのに。
それを見越したのか、忠光はその雰囲気を察知して先に切り出してくれた。
「忘れさせたいのか?」
「……ああ、あの話は本当なのか?」
「本当だ。本当に思い出を忘れさせることが出来る」
「なら、頼む忠光」
「……、幻想とは思わないのか?」
「……思いたいさ。だけど、どうしても忘れさせたいんだ」
「……本気か?」
水原綾芽の笑顔と泣いた顔が思い浮かぶ。
「ああ。私は信じているよ」
「分かった……だが、これだけは言っておく。勿忘草は、飲ませた人の思い通りに、忘れさせることができる。あれは人智を超え、人の手に余る物だという事を肝に銘じておけ。あれは…呪いだ。もしも使う決心が出来ないなら、すぐに燃やして消せ」
「?」
「勿忘草を三輪送る。お前のところに着くのは、三、四日後というところか……」
「わかった、待っている」
その三日後、確かに三輪の青紫の花をつけた小さな草が送られてきた。
だがもう少し、時間を置いて、他の方法を考えてからでも遅くは無い。
きっとこれを使うのは、何も出来なくて、仕方ない時になるだろう。
もしかしたら、これにそんな力が無いのかもしれないのだから。
そして、坂本は懺悔をしても悔やみきれない闇を抱えることになる。
忘れさせた報いは、懺悔を以ってしても、償いきれないものであることを、まだ彼は知らない。