幸せです!
突然抱きしめられて、キャリーヌは心臓が口から飛び出るかと思うほど驚いた。現に、心臓は口から出ないまでも、音が聞こえそうなほど激しく鼓動を打っている。
「キャリーヌ……ごめん、ごめんって、そういう意味じゃないけど、会いに行けなくてごめん」
ぎゅっとキャリーヌを抱きしめたまま、ジダンが耳元で言った。家族以外とこんなに密着するのは初めてだ。キャリーヌは急に、自分が汗臭くなっていないか気になり出した。背中に回された腕からはジダンの体温が伝わる。つまりジダンも、キャリーヌの体温を感じているはずなのだ。
「あ……あのね、ジダン、分かったから、ちょっと放して……」
つっかえつっかえ出てきた言葉に、ジダンは我に返ったらしい。腕を放すと、ぎこちない動きで二歩後ろへ下がった。
「あ……ごめん」
ジダンは頬を掻いて照れ笑いをした。けれどすぐに、キャリーヌを真面目な顔で見つめてくる。
「キャリーヌ……俺、言いたいことがあるんだ」
ジダンの目がきらきらしているように見える。不意にキャリーヌは、そのきらめきが決してジダンが自分には特別にきらめいて見えるからとかではなく、彼の目が涙で潤んでいるからなのだと気づいた。そういう目を、キャリーヌは知っていた。鏡をのぞくと、いつも現れる目だ。恋する者の目。
キャリーヌは経験がないなりに、こういうことは勝ち負けではないと思っていた。どちらかが一方を屈服させるのではなく、対等であるべきだと。どちらかを屈服させる形が幸せな人々もいるのかもしれないが、少なくとも自分とジダンはそうではないだろう、とも。
キャリーヌが王都の学園へ行くと決めたとき、賛成した者は誰もいなかった。父親はもちろん、フィオナやルーカス、マクロルまでもが彼女を止めた。皆、キャリーヌがジダンに振り回された一年間を密度は違えど知っているからだ。
フィオナなどは特に、キャリーヌが戸惑うほど強い語調で止めた。もしジダンの気持ちや振る舞いが変わっていなければ、またキャリーヌが傷つくことになるのだ、と言って。
それでも反対を押しきってキャリーヌは来たのだ。ジダンの気持ちを、そして何より彼を好きな自分の気持ちを、信じることにしたから。
今目の前にいるジダンは、キャリーヌに跪きたがっているように思えた。膝を折り気持ちを訴えて、彼女に許されたがっているように。それなら、ジダンが望むなら、自分は彼を跪かせて彼の訴えを聞いてやるべきなのだ。
「うん、ジダン、聞かせて。あなたが言いたいことを」
ジダンがごくりと唾を飲み込んだように見えた。体の横に下ろされた手は、握りこぶしになっている。もしかしたら彼は、緊張しているのかもしれない。キャリーヌはそう考えて、新鮮な驚きを覚えた。いつも余裕のあるジダンばかりを見てきたからだ。
「キャリーヌ、君が好きだ。すごく好きだ」
息を吸って、ジダンは言った。
「もっと早く気づけば良かった。待たせてごめん。好きだ、多分、二回目に会ったときから」
「……そこは、曖昧なのね」
キャリーヌは自然と微笑んでいた。待たされたとは思わなかった。だって、こんなに幸せなことがあるだろうか。自分の好きな人が、自分を好きだと言ってくれるなんてことが。
キャリーヌは二歩前に出て、ジダンに近づいた。微笑んだまま、ジダンの頬に両手を添える。ジダンが跪いたなら、キャリーヌも膝を折って、同じ目の高さで彼に応えるのだ。
「私も、あなたが好きよ、ジダン。ずっと好き。初めて会ったときから」
ジダンの眉間がぎゅっと寄って、まるでキャリーヌのそれのように下がり眉になった。少し情けないその表情に、いとおしさが増す。もっともっと好きになる。
「あなたの目も、眉毛も、髪も、笑い方も、全部好きよ。あなたが話している声を聞くのが好き。あなたと同じことで笑うのが好き」
キャリーヌは気持ちの高まるままに、ジダンの頬を引き寄せて口づけた。ジダンの唇に、やさしく触れてすぐに離れる。そうしてキャリーヌは、丸い目を細めて、柔らかな頬を持ち上げて、顔中で笑って見せた。
「だいすき、ジダン」
ジダンの大きな手が、キャリーヌの頭の後ろに回る。
ぐい、と引き寄せられて、唇がぶつかった。
些か勢いがよすぎて痛かったが、ジダンと触れあった瞬間の幸せには勝てなかった。
自分たちは求めあってここにいるのだ。ジダンに優しく唇を食まれながら、キャリーヌは彼の広い背中にそっと手を回す。一年間悩んで振り回され、時にはすり減らしてきたものが報われた気がした。報われて、たくさんお釣りが来るくらいだ。
ジダンは最後に、キャリーヌの下唇を優しく噛んでから離れた。あんなに慣れた風なキスをして見せたのに、顔が真っ赤になっている。同じくらい赤くなっているだろう自分を棚に上げて、キャリーヌは笑った。ジダンも釣られたように笑う。そこには、最後に会ったときにも見た恋する表情が見て取れて、キャリーヌはまた嬉しくなった。
「私、今日は宿を取っているの。明日の昼には発つのだけれど、明日も帰る前に会いに来てもいいかしら?」
「ああ、うん、もちろんだよ」
「良かった」
キャリーヌはほっとして笑った。ほっとして、体から力が抜けてしまった。
「あっ……」
「わ、っと大丈夫?」
ふらついたキャリーヌを、ジダンが慌てて支えた。キャリーヌはジダンの腕に掴まって、何故か震える足を無理やり立たせる。目を見合わせるとジダンが笑うので、キャリーヌもまた笑った。
「ごめんなさい、何だか現実感がなくて……ふわふわしてるの。自然と笑っちゃうわ」
「俺も笑っちゃう。でも困るよキャリーヌ、今言ったことは忘れないで」
「何言うの、忘れないわ。……あ、そう言えば、私いきなり引き留めてしまったけど……講義とかはないのかしら。大丈夫だった?」
キャリーヌはそこで、人の顔から血の気が引く瞬間というのを目の当たりにした。
「……やばい。忘れてた」
キャリーヌの一言で何かを思い出したらしいジダンは、真っ青という言葉がぴったりの顔色になった。直前までふわふわと浮かれた気持ちだったので、なおさらの落差だ。
いつの間にかほっぽり出していた鞄を急いで拾ったジダンは、周りの学生たちに遠巻きに注目されていることにも気がついたらしい。キャリーヌも自分のいる場所が学園の敷地内であることを思い出し、今さらながら少し恥ずかしくなった。
「キャリーヌ、ごめん、俺講義の準備に行かなきゃいけないんだ。えーっと、今夜どこかでご飯食べない? 俺二、三時間後には体が空くと思う」
「ええ、あなたが良ければ一緒に食事したいわ。一旦宿に戻ろうと思うのだけど」
「宿って、もしかして前に王都に来たときと同じところ?」
「そうよ。場所分かるかしら?」
「もちろん。迎えに行くよ。じゃ、また後で!」
ジダンは慌て気味にそう言うと、素早く頬にキスして去っていった。キャリーヌは周囲から感じる視線を開き直って無視しながら、走ってゆくジダンを見つめていた。普段ならあまりの恥ずかしさにすぐ退散していただろうが、このときばかりは気が大きくなっていたのだ。
自分たちのために世界があるのだと信じられそうなほどに。
◇ ◇ ◇
白いメレンゲのお菓子を摘まんだ指が、口元に運ばれる。小さなそのお菓子を、上品に開けた口に放り込んで、リラは微笑んだ。
東館のサロンは暖かく、開け放した窓から時おり流れてくる風が心地よかった。
「やっぱりこのお菓子、美味しいわねぇ」
「そうでしょう。並んで買った甲斐もあるってものだわ」
キャリーヌもにこにこと同調する。いつぞやの賭けの景品にもなったメレンゲとくるみのお菓子は、ジダンとキャリーヌが王都の店に仲良く並んで手に入れたものだった。
このお菓子を手土産に、ジダンはキャリーヌの父親に何度目かの挨拶に来たのである。
「彼も必死なのね。今回で何回目かしら」
「四回目よ。お父様は多分、意地を張っているだけなの……」
「まあ、もうしばらくはいいじゃない。あなたが悩まされた分、悩ませてやればいいのよ」
リラは悪戯っぽく笑ってみせてから、ティーテーブルに身を乗り出してお行儀悪く肘をついた。フィオナがお茶のお代わりを用意しに行ったので、今は二人きりなのだ。
「それにしても残念だわぁ。ジダンさんにはぜひともお会いしたかったのに、昨日帰られたなんて」
リラの長い赤茶色の髪の毛が背中に流れる。耳元に飾られた、義理の妹が作ったという花の髪飾りが可愛らしい。けれど、きっと考えていることは悪魔のそれだ。
「まあ、リラまでそんなことを言って……。ジダンはもう十分悩んでいると思うわ」
「どうかしらね!」
リラは鼻息も荒く身を起こした。彼女も、キャリーヌの父親やフィオナと同じく、キャリーヌとジダンの交際に消極的なのだ。
「キャリーヌは甘すぎるわよ。……まあ、そうなってしまうのも仕方ないのかもしれないけれど。だからこそ、その分私たちが厳しくしないと」
「……そういうものなのかしら」
「そういうものなの!」
自分のためを思って言ってくれていることなのだと分かるからこそ、キャリーヌは複雑な気持ちだった。初めのうちだけだと良いんだけど、と思いながらキャリーヌは口を開く。
「でもねぇ、ジダンったら可愛いのよ」
あの日の夕方、ジダンは約束通りに宿までキャリーヌを迎えに来た。ローブを脱いで濃い青のシャツを着た彼がはっとするほど格好良く見えて、キャリーヌは一瞬見とれる。
「キャリーヌ……昼にも思ったけど、そのブラウス可愛いね。すごく似合ってるよ」
ジダンはジダンで、まるでキャリーヌに見とれているような顔でそんなことを言うので、キャリーヌは早くも顔を赤くした。
ジダンのように気障なことを言うのは、キャリーヌには到底無理だ。
「あ……ありがとう」
そうして二人はぎこちなく腕を組み、夕暮れの王都を歩いた。
ジダンはその間中、にこにこと笑っては隙を見てキャリーヌの頬にキスをした。あまりにすぐキスをするので、キャリーヌもその晩のうちに頬へのキスに慣れてしまったぐらいだ。
しばらく散歩をして、食事に入った店では、ジダンはふと気づくとキャリーヌを見つめていた。
キャリーヌがもりもりご飯を食べていると、ジダンは自分の食事の手を止めて、いつの間にかこちらを見つめているのだ。それに気がついたキャリーヌが、「そんなに見られたら穴が開いちゃう」と言うと、ジダンはまるで自分がキャリーヌを見つめていたことに気づいていなかったかのような反応を見せた。
「それでね、ジダンったらすぐぼーっとしてね、私のことをぼんやーり見てるのよ。それを指摘すると、『俺そんなに見てた?』って恥ずかしそうにするの。もう可愛いのよ」
キャリーヌはにこにこしながら話した。思い出しても、あのときのジダンは可愛かった。
キャリーヌはそれまで、都会に暮らす若者らしく、洗練されてそつのない身のこなしのジダンしか見てこなかった。それが、あの夜は隙をついてキスしては子供のように嬉しそうに笑ったり、キャリーヌを見つめては我に帰ったりと、余裕あるいつものジダンではなかったのだ。
「……キャリーヌもそんな話するのね」
「そんな話って?」
リラは眉間に皺をよせてこちらを見ていた。まるでキャリーヌがこの場に不適切な話をしてしまったかのように。
「のろけ話、ってこと」
リラはその顔のまま答え、キャリーヌは顔を赤くした。
「の、のろけ話ってことはないわよ。ただ私は、ジダンが可愛いってことを話したくて……あれ? これってのろけになるのかしら」
赤い顔のまま、キャリーヌは首を傾げる。リラは呆れたというように頭を振ると、何も言わずにメレンゲのお菓子に手を伸ばしたのだった。
◇ ◇ ◇
キャリーヌへ
お元気ですか。この間は、お店を休んでまでこっちに来てくれてありがとう。品物の点検だとか入れ替えだとかで閉めてるとは言ってたけど、人手は必要だったんじゃないかって今さら思っています。ルーカスさんによくお礼をお伝えください。
僕が書くまでもないと思うけど……ジダンは君が帰ってからすっかりしょぼくれてるよ。もっと会いたかったってさ。自業自得だって笑ってやりました。
あいつ、キャリーヌに会うために一年間最低限の講義にしか出てなかったからね。折角の長期休暇なのに補講ばっかりになったのは仕方ないんだ。それでいて一年間何も伝えてなかったんだから、遊び人が聞いて呆れるってもんだよ。まあ今は遊び人じゃないみたいだから、キャリーヌも多めに見てやってください。
そういう訳でキャリーヌには物足りなかったかもしれないけど、僕は久々にキャリーヌとゆっくり過ごせる時間ができて楽しかったです。
学園でジダンを始め友人はできたけど、キャリーヌはやっぱり特別だし、大切な存在です。君には恋人ができたし、僕にもこれからそういう人ができるかもしれない。けれど、お互いがお互いの一番の味方で、大切な家族っていうことはこれからも変わらないといいな。
何だか湿っぽくなっちゃったけど、これからもジダンとだけじゃなく僕とも遊んでね、ってことです。キャリーヌはこの間、未だに自分の容姿が気になることがあって嫌になるって言ってたよね。でも、僕は断言できます。
キャリーヌは不細工なんかじゃない、とても魅力的な女の子だよ。だから自信を持って。
それではまた、今度は僕がそっちに帰れたらいいな。元気でね。
ずっと君の弟、フィリップより
フィリップへ
この間はありがとう! とても楽しかったわ。ルーカスさんは息抜きしてこいって送り出してくれたのだから、気にしなくて大丈夫よ。お礼を伝えたら、「律儀な奴だな」って笑ってたわ。こちらに帰ってくるときは、またお店に顔を出してね。
ジダンからも手紙が来たから、あまり会えなかった言い訳は手紙で存分に読みました。私はそこまで気にしてないけど、次はもっと会えたら嬉しいって返事をするから、これ以上落ち込まないといいのだけど。
フィリップ、あなたがかけがえのない存在だって言うことは、なぜかジダンとこういう風になってからよく考えるの。多分あなたと同じことを考えているわ。たとえ他の人とどうなっても、私とあなたは変わらない。ずっと大切な家族なんだって。
本当に、あなたと家族になれて良かった。十二歳のあなたと、自分に感謝しちゃう。ありがとう!
次に帰ってくるのを楽しみにしているわ。……そろそろお父様も、許してくれる気がするの。では、体に気をつけてね。
たくさんのキスを込めて キャリーヌより
完結です。
ここまでお付き合いくださった方、ありがとうございました!
連載開始から二年も経ってしまいましたが、初めから読んでくださっている方がいらっしゃいましたら、本当にありがとうございます。完結までお待たせいたしました。




