第13話「朝倉義景補完計画、発動! 信長の大嶽作戦で兵糧庫を奪え! 越前の名門、撤退を決意する!?」
元亀三年(西暦1572年)十月五日〈旧暦〉 秋
近江国坂田郡 虎御前山・織田方陣城
「朝倉義景を、生きたまま手に入れる」
織田信長の一言で、軍議所の空気が張り詰めた。
木下藤吉郎、木下小一郎、竹中半兵衛、蜂須賀小六。
そして宮部継潤。
織田方の将たちが、北近江の絵図を囲んでいる。
「……上様」
藤吉郎が慎重に口を開いた。
「義景を生け捕りにするとなれば、討ち取るより難しゅうございます」
「承知しておる」
「敵は越前の名門、朝倉家の当主。最後まで守ろうとする家臣もおりましょう」
信長は笑った。
「だからこそ、刀を振るう前に腹を空かせる」
半兵衛が顔を上げた。
「兵糧攻めにございますな」
「そうじゃ。だが、ただ飢えるのを待つだけでは芸がない」
信長は絵図の大嶽を指で押さえた。
「山上の陣を支える道を断ち、義景に退くことを考えさせる」
「退けば、その行く先を押さえる」
小一郎が言葉を継いだ。
「さよう」
信長の口元が吊り上がる。
「義景には、死んでもらっては困る」
藤吉郎が首を傾げた。
「……上様。それほどまでに義景を?」
「越前が欲しい」
即答だった。
「城も、港も、田畑も、商人もな。義景の首だけでは、越前一国は治まらぬ」
半兵衛が静かに頷く。
「当主を捕らえ、朝倉家中の降伏を促す。なるほど、戦後の支配まで見据えた策にございます」
「猿」
「はっ!」
「宮部の童は、何と申した?」
藤吉郎は苦笑した。
「朝倉義景を生け捕りにして、越前をいただきましょう、と」
「はははは!」
信長が笑った。
「五つの童に先を越されるとは、面白いではないか!」
「いや、上様。あやつは本当に田畑のことしか考えておりませぬぞ」
「だから面白いのじゃ」
信長は絵図を叩いた。
「よいか。此度の策を『大嶽作戦』とする」
将たちが姿勢を正す。
「そして、その狙いはただ一つ」
信長は不敵に笑った。
「朝倉義景補完計画じゃ!」
「……補完?」
藤吉郎が目を瞬かせた。
「越前を治めるために、義景という欠けてはならぬ駒を手元に置く。そういうことじゃ」
「……なるほど!」
小六が豪快に笑った。
「がはは! 義景殿を、越前ごといただくわけですな!」
「そうじゃ」
信長は笑みを消した。
「ただし、捕らえることに執着して味方を無駄死にさせるな。生け捕りは望みであって、無謀の口実ではない」
半兵衛が深く頭を下げた。
「御意」
同日 午前十時頃
虎御前山・軍議所
「まず、兵糧の動きを確かめます」
半兵衛が絵図に小石を置いた。
「越前から北近江へ入る道。高月方面の街道。丁野山城周辺。そして大嶽へ通じる山道」
「柏原方面はどうじゃ?」
藤吉郎が尋ねる。
「道筋の確認が必要です。城や地名だけで、敵の兵糧庫と決めつけるわけにはまいりません」
宮部が頷いた。
「北近江の道は、琵琶湖へ流れる川や山裾の地形に左右されます。荷駄の通れる道と、兵が一列で通る道は別物にございます」
「ふむ」
信長は小石を一つ動かした。
「丁野山城は?」
小六が答える。
「斥候の報せでは、朝倉方の兵糧が集まっている疑いがございます」
「疑い、か」
「はっ。蔵の数も、守備兵も、まだ確かなことは申せませぬ」
信長は満足げに頷いた。
「よい。分からぬことを分かったふりする将より、よほど信用できる」
小六は頭を下げた。
「ありがたき幸せ」
「猿。丁野山城を調べ、敵の兵糧集積地と確かめたならば、落とせ」
「はっ!」
「ただし、兵糧は焼くな。奪え」
「……焼かぬので?」
「当たり前じゃ。米は火にくべるより、人の腹に入れた方が役に立つ」
小一郎が微笑んだ。
「万丸が聞けば、大喜びいたしましょう」
「そうか?」
「はい。米一粒を粗末にするなと、百姓の爺様と一緒に申しております」
信長は声を上げて笑った。
「ははは! あの童なら、兵糧蔵を焼いた将に説教しかねんな!」
藤吉郎が肩を落とした。
「……目に浮かびまする」
「藤吉郎叔父さん! お米を焼いたらいかんがね!」
小一郎が幼い声を真似る。
「ぶはっ!」
小六が吹き出した。
「小一郎殿、似ておりますぞ!」
「兄者は、もっと叱られておりますから」
「おい、小一郎!」
軍議所に笑いが広がった。
だが、半兵衛だけは絵図を見つめていた。
「……上様。一つ、気になることがございます」
「申せ」
「朝倉義景が、兵糧の尽きるまで大嶽に留まるとは限りませぬ」
「うむ」
「兵糧庫を失ったと知れば、早々に撤退を決めるやもしれません」
信長の目が鋭くなった。
「だからこそ、急がねばならぬ」
「御意」
「丁野山城を落とし、兵糧を奪う。敵が動けば、すぐに報せよ」
信長は将たちを見渡した。
「大嶽作戦、始めるぞ!」
「「「ははっ!」」」
同日 昼過ぎ
近江国坂田郡 宮部城・田畑
「……よし!」
俺は畦道にしゃがみ込み、土を指でつまんだ。
「弥兵衛じいちゃん、ここの土、ちょっと湿りすぎとるがね」
「左様でございますな」
「水の抜ける道を、もう少し調べたいんだわ」
「承知いたしました」
俺は小さな木片を水路に浮かべた。
ゆっくり流れる木片。
……なるほど。
流れが弱い。
ここは排水が悪いのかもしれない。
「デマ先生も、水を見ずに田を語ってはいけませんって教えてくれたがね!」
「南蛮のデマ・ライヤー先生でございますな?」
「はい!」
俺は真剣に頷いた。
津島に滞在していた南蛮宣教師。
農業、商業、算術、そしてヨーロッパの歴史まで教えてくれたという、俺の師匠。
……もちろん、架空の人物である。
前世の京都大学農学部で学んだ知識を説明するため、俺が作り上げた設定だ。
「デマ先生は、田んぼだけ見てもいかんって教えてくれました!」
「……ほう?」
「米を作っても、運ぶ道が悪ければ売れん!」
「なるほど」
「商人が来なければ、塩や道具も買いにくい!」
「……確かに」
「だから、田んぼと道と市場は、みんなつながっとるんだがね!」
弥兵衛じいちゃんは、感心したように頷いた。
「……若様は、よう学んでおられますな」
「えへへ!」
……よし。
今日こそ平和だ。
戦の話はしない。
軍議にも出ない。
織田信長にも会わない。
最高の一日だ!
「……万丸!」
背後から、宮部継潤の声がした。
「……お父さん!」
「知らせがある」
「……何?」
「上様が、大嶽の朝倉勢を動かす策を始められた」
「…………」
俺は固まった。
「……まさか」
「丁野山城の兵糧を狙うそうじゃ」
「…………」
……やばい。
俺が考えた作戦じゃないか!
「……お父さん」
「なんじゃ?」
「俺、田んぼを見とっただけだがね」
「知っておる」
「軍師じゃないがね」
「知っておる」
「……じゃあ、なんで?」
宮部は苦笑した。
「おぬしの話が、上様の興味を引いたのじゃ」
……終わった。
俺の平穏な農業生活、終了のお知らせ。
「……美々!」
「にゃあ?」
足元の三毛猫が、首をかしげた。
「俺、また何かやらかしたみたいだがね!」
「にゃあ!」
……お前、ちょっとは心配してちょう!
元亀三年(西暦1572年)十月六日〈旧暦〉 秋・夜明け前
近江国伊香郡 丁野山城
山の稜線が、薄く明るくなり始めていた。
「……敵襲!」
城兵の叫びが響いた。
「織田勢じゃ!」
「門を守れ!」
「矢を放て!」
丁野山城に、緊張が走った。
「……小六!」
藤吉郎が叫んだ。
「はっ!」
「兵糧蔵を守れ!」
「承知!」
「火をかけるな!」
「分かっております!」
小六は豪快に笑った。
「米俵を焼いたら、万丸に怒られますからな!」
藤吉郎が吹き出した。
「ははは! 違いない!」
そのとき。
「……藤吉郎殿!」
小一郎が駆け寄った。
「城兵が、降伏を申し出ております!」
「……ほう」
「兵糧を渡す代わりに、命を助けてほしいと」
藤吉郎は頷いた。
「……よかろう」
「……はっ!」
「武器を置く者は、殺すな」
「承知いたしました!」
そして。
丁野山城は、織田方の手に落ちた。
同日 午前
丁野山城・兵糧蔵
「……おお!」
藤吉郎が、目を見開いた。
蔵には、米俵が積まれていた。
塩。
味噌。
干した魚。
そして、兵たちの食料。
「……小六!」
「はっ!」
「見事な兵糧じゃ!」
「がははは!」
小六が笑った。
「朝倉勢には、しばらく腹を空かせてもらいましょう!」
竹中半兵衛は、静かに首を振った。
「……油断は禁物です」
「……うむ」
藤吉郎が頷いた。
「……まだ大嶽の兵糧が尽きたわけではない」
「はい」
「朝倉勢には、ほかの道もございます」
「……なるほど」
半兵衛は、絵図を見つめた。
「……しかし」
「……なんじゃ?」
「義景が、兵糧の先行きを案じ始める理由にはなりましょう」
藤吉郎は、ゆっくり笑った。
「……そうか」
そして、小さくつぶやいた。
「……万丸」
「…………」
「おぬしの申したとおり、飯が戦を動かすのかもしれんな」
元亀三年(西暦1572年)十月七日〈旧暦〉 秋
近江国小谷山北方 大嶽山城・朝倉方陣地
「……何じゃと!?」
朝倉義景の怒声が響いた。
「丁野山城が落ちた!?」
「……はっ!」
家臣が平伏した。
「織田勢の攻撃により、城が陥落いたしました!」
「……兵糧は?」
「……奪われました」
「…………」
義景の顔が強張った。
「……すべてか?」
「確認できた蔵の兵糧は、織田方の手に渡った模様にございます」
「……馬鹿な」
義景は、絵図を見つめた。
小谷城。
大嶽。
丁野山城。
高月方面。
越前へ続く道。
「……兵糧の道が、危うくなったか」
家臣が答えた。
「……まだ、ほかの道がございます」
「……うむ」
「大嶽にも、蓄えがございます」
「……そうか」
義景は頷いた。
しかし、その表情は晴れなかった。
「……だが」
義景は、低くつぶやいた。
「織田信長は、何を考えておる?」
家臣は答えられなかった。
義景は、絵図を見つめ続けた。
……小谷城を攻めるのではない。
大嶽を攻めるのでもない。
兵糧を奪う。
道を押さえる。
そして、こちらが動くのを待つ。
「……信長め」
義景の指が、絵図の上で止まった。
「……わしを、山から下ろすつもりか?」
家臣が息を呑んだ。
「……殿」
「……なんじゃ?」
「……撤退を、お考えになりますか?」
義景は、しばらく黙った。
そして、静かに答えた。
「……まだじゃ」
「……はっ」
「兵糧は、まだある」
「……はっ」
「しかし……」
義景は、窓の外を見つめた。
秋の山。
冷たい風。
遠くに見える、北近江の田畑。
「……冬が来る前に、考えねばならぬ」
家臣は、深く頭を下げた。
「……はっ」
朝倉義景。
越前の名門・朝倉家の当主。
その胸に、初めて大きな不安が芽生えていた。
兵糧が尽きる前に、撤退するべきではないか。
同日 夜
宮部城・治兵衛の自室
「……美々」
「にゃあ?」
俺は布団に寝転び、美々を抱きしめた。
「朝倉義景様、山を下りるかな?」
「にゃあ」
「……下りたら、どうなるんかな?」
「にゃあ」
俺は、天井を見つめた。
大嶽。
兵糧。
撤退。
伏兵。
そして、朝倉義景。
……史実では、朝倉家は翌年滅亡する。
しかし、今は違う。
織田信長が、朝倉義景の生け捕りを命じた。
もし、本当に捕らえたら?
もし、越前が戦わずに降伏したら?
……歴史が変わる。
俺は、小さく息を吐いた。
「……美々」
「にゃあ?」
「俺、ただの農業好きな五歳児なんだがね」
「にゃあ」
「……ほんとに、どうなるんやろ」
美々は、俺の胸の上で丸くなった。
「……ふにゃあ」
俺は、静かに目を閉じた。
朝倉義景の撤退が、現実味を帯び始めていた。
そして。
その背後には、五歳児が描いた一枚の絵図があった。




