第30話/初めての喧嘩/Limited_NAGI
顔面と後頭部、腹に同時に衝撃。
えずきながら膝から落ちるナギ。
反射的に腹部を抑える。
とどめの蹴りを覚悟したが放たれなかった。
ミトハロ到着から十二日目の締めくくり、アネットとの特訓だ。
太陽は少し傾いていた。
体の芯に鉛でも入っているみたいに動きにくい。
ふくらはぎが自分の体ではないように力が入らない。
連続で攻撃をもらった時の言い表せない脱力感。
頭も働かない。
次の行動も浮かばない。
ただ目の前の現実に対応するだけ。
昨日からナギはこんな調子だった。
いつもは優しい声のアネットも退屈そうに無表情。
特に声もかけずに淡々とナギを殴り倒し、気まぐれにとどめの蹴りを入れていた。
少し離れた所に放り投げられたカランビットナイフを見つめるアネット。
ナギに手は差し出されない。
自力で立ち上がる。
回復魔法を発声しながら落ちたハイビスカスを拾って定位置に戻る。
その日はアネットの頭にもハイビスカスがついていた。
波の音に合わせるかのようにゆっくり呼吸を整える。
アネットが砂の上にある枝を蹴り飛ばしながら口を開く。
「ナギ君。私ね、ずっと思ってた事があるんだけど。」
「何?」
砂に脱ぎ捨てたグローブからマナフィルムを取り出す。
ハイビスカスを荷物の隣に投げ置いた。
奥歯と頬の間にフィルムを捻じ込みながらアネットを見る。
頬がぴりついた。
「弱いよねナギ君。すんごく。多分笑えないくらい弱い。」
「…うん。」
足の指で砂を握り締めるナギ。
「私から色々と聞きかじったり、日頃なんか考えてるみたいだから気づいていると思うけど弱い強いってあんまり意味ないの。」
「知ってるよ。」
砂を離し力を抜く。
アネットはナギを見据えて続けた。
「私、ミトハロ来てからナギ君と話す機会多いけどさ、気に食わない所があって。ナギ君って負けて当たり前って顔してるよね。」
(揺らがせようとしてるだけだろうな。)
ナギは興味なさ気に聞いていた。
「一番言いたいのはさ。ブローチに私が最後飛び掛かった時、ナギ君何してたの?動けたよね?」
語気が少し強くなりアネットの表情が一変する。
何も言い返せなかった。
「掴まれてた時も〝勇者じゃない〟って喚いてた。私もリサもずっと助けようとしてたのに。別に勇者じゃないって思うのは勝手だよ、でも喚く余裕があるなら魔法使えたんじゃないの?」
アネットは目元を赤く染め、瞳を潤ませていた。
「私が気に食わないのは、負ける事じゃなくて。負けて当たり前って顔してるんだよ。ナギ君は。」
「顔つきはたまに鋭い時あるからさ、諦めないって思ってるかもしれないけど。諦めないって思いながら最初から勝負してないんだよ。」
ナギの眉がぴくりと動く。
ポニーテールが言葉に薪をくべる。
「じゃあナギ君の分の勝負は誰がする?私?リサ?」
「ナギ君って何に勝った事あるの?〝キノピッピ〟?遭った事ないか。
とても可愛くてすごい弱いけど〝即死魔法〟使ってくるもんね。ナギ君が遭ってたら私達、出会ってない。」
「アルセナで何してたの?リサに守られてイチャイチャしてただけ?」
「これからナギ君が勇者だって全土に情報が回って、モテるだろうなあナギ君。千年ぶりの勇者だもんね。」
アネットが周囲を軽く蹴る。
砂が舞った。
興味なさげだが威圧感のある初めて聞く語調だった。
「私とリサが悩んで守ってナギ君は豪遊。いいなあ。私もナギ君になりたい。」
嘲笑するポニーテール。
火力が高い。
ナギは大きく息をする。
「私がミトハロ着いてから最初の二日、三日間?くらいかなあ。何考えてたかっていうとね。〝お荷物〟抱えてこれからどうやって旅していこうかって悩んでたの。」
少年のこめかみがひくついた。
「一歩でも世界に出ればブローチ級。その中でフライパン持った男の子とどうやって戦おうかなって。」
二歩ナギに近づいて止まる。
「守るよ、そりゃ守る。助け合いは絶対に必要。でも私にだって無理なものは無理。」
大きく息を吸うアネット。
頬からは涙が零れていた。
「守れない時もある。でも世間は単純にそう見ない。いや、単純に結果だけ見られるのか。どんなに死闘だって無理な状況だって、勇者が殺されたのに生き残った魔法使いに見られる。批評した瞬間に生き残った勇者のリサと私に自分達が守られるべき存在かを品定めされてる可能性だってあるのにね。」
ナギは目を瞑る。
動悸がし、瞼が痙攣していた。
「いるだけで負担なんだよナギ君は。最初から勝負に降りてる人を助けられなくてなんでこっちが罪悪感抱かないといけないのよ。自分は何もしてないのに世界に噛み付かないでよ。自分が何かするために世界に働きかけてよ。こっちがしんどいから参加してるフリしないで。」
アネットの語気はさらに強くなる。
「見捨てる算段もした。どうしても考えちゃうの。どうやったら最低限、自分の〝心の位相〟を保てるかなって。
嫌だもん、勝負してない人のせいで自分の位相が変わるの。
ああ、位相ってまだ教えてなかったね。でも別に知らないでいいでしょ。どうせ勝負しないんだから。ナギ君の安心のために私の知識を使われたくもないし。」
アネットの声は震えていたが力強かった。
目を瞑り続けるナギ。
肩で息をしていた。
「でも、見捨てる算段なんて意味ない。見捨てられないんだよ。」
「ねえ。」
ナギは目を開く。
ぽつりと声が出る。
少年の顔は歪んでいた。
アネットの涙は止まっていた。
「だって勇者なんだから。勇者だから置いていけないの。」
「さすがにもう少し強い人だと思ってた。でもそれは仕方ない。ナギ君も悪くない。勇者の剣を抜く条件なんて情報、全然ないんだから。」
「ねえ!」
止まらないアネット。
「こんな気持ちが弱い人だって知ってたら、声かけてなかったよ。」
「なんかやたらこの街の広場に行くなって言うけどさ、ナギ君、ミトハロの人に絡まれて負けたりしてんじゃないの?」
胸がむかつき目の周りが熱くなる。
肩が上下する。
衣服を強く握りしめ手にかいた汗を拭く。
「負けたの!?」
顔が明るくなるアネットの顔がナギには一瞬、真っ黒く塗り潰されたように映った。
声が弾むポニーテール。
「それはやばいよナギ君。あの人達って戦う人じゃなくて、〝配達の人〟でしょ?ちょっと強そうな人だからって負けちゃだめだよ。勇者じゃなくても。」
「負けた時さ〝弱い事は悪い事じゃない〟って言い聞かせたでしょ。〝強いも弱いも関係ない〟ってぼかしたでしょ。」
ナギは涙目だった。
目の周りの熱さが頭のてっぺんまで覆う。
拳を握り締めた。
「やっぱり!」
嬉々とするポニーテール。
少年に二歩近づいた。
「偉人の〝ジェルロ・ニト・アーネ〟にでもなるつもり?ナギ君はまずミトハロの人に勝ってからがいいんじゃない?」
「ナギ君、弱い事は悪いことじゃないけどさ、さすがにミトハロの人達に負けちゃだめだよ。ここの人達、相当弱いと思うよ。特にシューズ履いてる人にだけは負けちゃだめだね。」
アネットの口角が上がる。
目は笑っていなかった。
呼吸が荒いナギ。
「私はミトハロの人たちに決闘申し込まれても、全員に勝つ自信があるよ。
エーテルシューズを履いたら弱くなるってのもなんとなくわかったし。」
「でもナギ君には無理か。私との特訓も一回も勝ててない。無理だろうなってやってる私が一番わかる。」
少年は再び目を瞑った。
涙が次々と頬を伝う。
叫び出しそうだ。
「聞きたいんだけどさ、体術の練習で勝てないのに私の髪掴んでこないのって何で?
女だから遠慮してるの?魔法教えてくれるから負けとこうって感じ?ナギ君が女の子好きだから?
ミレバルからアルセナ着くまでに襲ってきた弱い男の人は全員髪掴んできたけど。
ナギ君はなんで?勝てないのに。礼儀?遠慮?
魔法使えるなら掴まれた方が有利になるから伸ばしてるのもあるんだけど。」
「私を殺す気で来ないと勝てないんじゃない?いいよ別にそれでも。」
カランビットナイフに目をやるアネット。
ナギは目を開ける。
「ミトハロで負けてる人に私は負けないから。ナギ君、リヴェル村帰ったら?」
ナギがゆっくりと口を開く。
「そんな事言わないでよアネット。僕、もう勇者の剣を抜いてからずっと辛いんだ。一日中なんかしてないと怖いんだ。ブローチで終わりがよかった。毎晩あの時の事考えてるけどもう辞めるよ。
言う通り村に帰る。今日もミトハロの人にも言われてさ。迷惑かけてごめん。ブローチの時も、何度もアネットのチャンスを潰しちゃってごめん。本当ごめんなさい。」
肩をすくませ弱々しい声を出しながらシャツの袖で涙を拭くナギ。
言い終わると体の力が抜けた。
静かに大きく息を吐く。
涙が止まった。
シャツの袖からカランビットナイフに視線を移す。
波が二、三度寄せて返した。
「アネット。」
顔をアネットに向け視線を固定する。
ナギの目は全てを受け入れたような穏やかな眼差しだった。
「何?」
声が低い。
波が一度寄せた。
「僕、明日さ、最後にこの街の道場の人をあのナイフで殺しに行こうと思ってて。」
肩を落とし、アネットから視線を外す。
「アネットは、人を殺した事ある?」
アネットを見据え、質問だけ静かに語気を強めた。
顔が歪んだのが見えた。
歪みはじめの一瞬を捉えるナギ。
目を剥いて〝つかむ〟を発声しアネットの手首を掴み引き倒す。
転倒したポニーテールに全力で駆け寄った。
〝はなれて〟で波打ち際の方向に飛ぶアネット。
波との距離が少しだけ近づいた。
ナギは魔法を唱えない。
そのまま方向転換して態勢を整えるアネットにダッシュする。
目に生気はない。
死んでもいなかった。
アネットが肘を伸ばさず掌だけ翳している。
ナギの魔法のタイミングを狙われていたのか発声はない。
構わず無言で突っ込んだ。
間合いに入ったかと思うとアネットの右拳が頬骨に当たる。
殴る動作が速すぎる。
頬への痛みを合図に自分に魔法を撃つ。
足が少し宙に浮き、頬に伸びる右腕の内側に運よく加速した。
顔同士が衝突する。
お互いの歯がかち合う音が脳内に響く。
鼻がつんとした。
目を瞑るアネットが映った。
衝突の直後に掴んでいた首に力を入れる。
そのまま抱き着くように足を絡ませ全体重をかけると後ろに倒れこむアネット。
馬乗りで首にかかる手を口と目に移動させ体重をかける。
首を左右に振る力を掌に感じながら〝すな〟を発声した。
拳がナギの顎に当たる。
ぐらつく視界。
口に置いていた手を首に移す。
むせているアネットを見下ろす。
顔に衝撃があるがどちらの拳が当たったのかもわからない。
素早く両手を鎖骨当たりに移動させ押し込みながら〝もえろ〟と叫ぶ。
柔らかい感触と同時に腕を引きたくなるくらいの熱さ。
そのまま抑えつけるように力をこめる。
両手ごと衣服が燃えた。
呻きながら振り回してきた拳が顎に当たり、ぐらついた体制に合わせてアネットが腰を反らせ体を捻る。
むせる声と呻く声が交錯した。
アネットの体幹の強さに勝てない。
そのまま〝はなれて〟を放ち離脱するナギ。
火の粉が舞った。
火が両手に燃え移っていた。
むせながら胸に回復魔法をかけるアネットに駆け寄り、腹を思いっきり蹴り上げる。
どこかで防がれたのか、振り抜いたときに硬い感触と柔らかい感触が同時に足に伝わる。
ポニーテールの一部に燃え移っているのが見えた。
波打ち際に走り出し脛の半分くらいまでの深さの所で手を突っ込み消火するナギ。
手を冷やすフリをして自分の左足の脛に〝こおれ〟をかけた。
脛の周りに走る熱いような痛みで自分の息が荒い事に気づく。
ナギとほぼ同時にアネットも海に飛び込んでいた。
馬車一つ分くらいの距離。
回復魔法を発声しながら飛び込んできたのか〝はなれて〟は使っていない。
体全部を海に浸すように転がると前傾姿勢で立膝をついた。
再び〝いやすね〟を首周りに使っていた。
表情なく少年を見ている。
アネットが落ち着くのを待っていたナギ。
気が収まらない。
両手を海に突っ込んだまま立膝で屈んだ少年は精一杯、声を張る。
「覚悟覚悟ってうるさいんだよ!そんなに言うなら、今からおまえが剣を抜きにいったらいい!覚悟決まってるんだろ!?まだアルセナに刺さってるから!それとももう試した!?じゃあ抜けなかったんだ!勇者に〝すら〟なれなかった癖にうるさいんだよ!弱い僕なんて構わず置いて行けよ!」
ミライ君とアネット、それぞれに言われた事に反論するナギ。
混同している事には気づかない。
しかし頭は語調ほど興奮していなかった。
鼓動が上半身を支配しているかのように大きく感じた。
アネットがさらに〝いやすね〟を発声する。
上半身の衣服が所々破けている。
顔つきは全く変わらない。
手がひりひりと痛んだ。
「でも置いてけないだろ!?〝勇者〟だから!周りの人なんて関係ない!
もしかしたら僕が強い勇者魔法閃くかもしれないもんね!そっちだろ!ほんとは!
こんな弱い僕に縋るしかないおまえが弱いんだ!勇者だからって世界を救えると思うな!強い人が世界を救えばいい!甘えるなアネット!」
アネットの目がぴくりと動いたのを見逃さなかった。
海水で頭がさらに冷静になる。
ブローチがアネットに言っていた事を思い出した。
「ブローチに会ってだれかさんは泣いてた!僕は泣いてないぞ!あれからいつも思い返してる!アネットはできないよね!おまえはそこそこ強いけど心が弱すぎる!弱いから弱い僕にしか強くこれない!強いなら、覚悟決まってるならブローチに立ち向かってみろ!ま、ブローチにとっちゃおまえ虫以下だけど!」
ブローチの力を借りる。
散々反芻した魔女の言葉だった。
表情が歪んだアネットが突進してくる。
手を海から出し、迎え撃とうとするナギ。
あっという間に間合いを詰められる。
アネットの右足の低めの蹴りを左の脛で防ぐ。
海水に足首が浸っているとは思えないスピード。
飛沫が目に入った。
撓る足首にうまく凍結部分が当たりアネットの顔はさらに歪む。
怒ったなら利き足でくるだろうと賭けた。
しかし続けざまに右頬に衝撃。
左拳だろう。
よろけながら見ると右足をひらひらさせていた。
唐突な衝撃で驚いたがそこまで痛みはない。
足首への回復魔法をかけるなら追い撃ちをかけようと注視するが素振りはなかった。
諦めて砂浜に駆け出すナギ。
海水が目にしみる。
強く瞬きをした。
魔法を使われても今のアネットなら勝てるだろうと振り向かずに魔法で加速した。
脱いだグローブまで戻るとフィルムを取り出し口に捻じ込んだ。
風に触れるだけで手が痛い。
振り向くとアネットがこちらに突っ込んでくる。
攻める手段がないナギはそのまま立って待つ。
距離が詰まると左肩を魔法で掴まれ前に引っ張られる。
すぐに〝つかむ〟力が弱くなるが重心はすでに前のめりで止まれない。
それを迎え撃つかのように魔法で加速してきたアネットが更に間合いを詰めた。
顔面目掛けて蹴りが迫る。
拳に力を入れ両腕を顔の前に出す。
お構いなしに蹴りを振り抜いてきた。
一瞬、呼吸が止まる。
前に転ばぬよう踏ん張るのがやっとだった。
手を顔面から放すと今度は左足が腰めがけている。
衝撃がくる直前に軌道が変わり脇腹に刺さった。
骨の芯までの衝撃を覚悟していたが体の中が掻き回されるような想像以上の痛み。
ひるまず両手でアネットの脛を力いっぱい掴んだ。
顔面に衝撃。
おそらく拳だろう。
痛みを無視して〝こおれ〟を叫ぶ。
さらに顔面に二発衝撃。
絶対にアネットの脛から目を離さない。
手が痺れてきた時、凍結が間に合った。
ナギの手とアネットの脛が同化する。
手に感じた事のない痛み。
体が重い。
重心をアネットにかけるように近づき、軸足を蹴り転ばせる。
仰向けから右足を突き上げてくるが当たらない。
聞こえてくる音が籠ってきた。
何度も大きく呼吸する。
凍結した足をできる限り高く持ち上げる。
尻に蹴りを入れ続ける。
蹴る度に右の脇腹に痛みが走った。
突き上げてきた右足とナギの体が交錯する。
凍結中に顔面へ衝撃を浴びたからか氷が解けるタイミングが早い。
そのままアネットの足を自分の両手もろとも燃やす。
感覚がなくなったと思っていた手に激痛が走る。
堪らず手を離すと同時にアネットの〝はなれて〟の発声。
大して吹っ飛ばされない事に逆にバランスを崩し転倒した。
倒れた顔のすぐ先にカランビットナイフが飛び込んできた。
ケースからナイフを取り出し、足に回復魔法をかけるアネットに近寄る。
ナイフを握る手は燃えていなかったがどちらでもよかった。
息が荒くなる。
顔が冷たい。
ゆるやかに近づく事で何かを察したのかアネットは顔を上げずに脛に手を当てていた。
手を伸ばせば触れる距離。
顔を上げたアネットは目を剥いてナギを見る。
ナイフを持っているとは思わなかったのだろう。
砂浜をぼんやりと見ながら立ち尽くす少年。
手が震える。
波の音さえ、脈打つ音にかき消される。
その後の行動が続かない。
充血したナギの目にはうっすらと涙の膜が張っていた。
大きく息を吸って吐き、踵を返して離れていく。
ナイフをケースに入れ、グローブとブーツ、回復ジュースを手に取る。
再度アネットの方へ歩き出した。
自分の顔面を撫でると手がべっとりと赤色になった。
辺りを見回すと砂粒の表面を血が纏い、所々が赤黒い点になっている。
顔を上げて回復ジュースを頭から浴びた。
魔法でも良かったが早く立ち去りたかった。
中身が半分ほど残った容器をアネットの目の前に置き宿の方へとぼとぼ歩く。
すぐ後ろからアネットの声がしたが耳に入らない。
頭がぐらつき視線も虚ろ。
少し吐き気もする。
リキッドを少し吸引してみるが良くならない。
アネットから受けたダメージかと、重い足取りで歩く。
手に持ったブーツが重い。
頭が真っ白だった。
左足の脛にひりつく痛み。
脇腹の刺すような痛みは断続的。
それが来る度に上半身をびくつかせた。
痛む体の箇所が限定できると思考が戻ってきた。
(もうアネットから魔法を教わるのは辞めよう。)
滑らかにシャットダウンした瞬間だった。
腕を魔法で掴まれ後ろに力がかかる。
抗わず尻もちをついた。
もう一発蹴り飛ばしておくべきだったかと何故か後悔する。
何も言わずに立ち上がる。
砂に手をつくと触れた部分に激痛が走り、上半身を起こす時に脇腹が激しく痛んだ。
アネットを一瞥もせずに歩き出すナギ。
再び尻もちをついた。
引っ張られたのだろう。
頭が真っ白だった。
立ち上がろうと体を捻るとアネットが目の前に立っていた。
ナギが立ち上がる前に素早くその手を取る。
膝をついて回復魔法をかけていた。
無表情の奥に、穏やかな眼差しを宿すアネット。
少年は目を逸らす。
ナギの手が視線の交点になった。
手を強引に引っ込めようとするが離れない。
痛みが少し引いた。
もう片方の手を掴もうとしてきたので咄嗟に背中の後ろに引っ込める。
「違うよ。そのマナリキッド、私にも頂戴。」
いつもの優しい声だった。
リキッドを渡そうと手を前に出すとそのまま掴まれ回復された。
痛みが和らいでいく。
両側の頬に手を添えられ、無理やり目を合わせられる。
顔を包む手に温度は感じない。
目を逸らそうと首に力を入れると強引に回復魔法をかけながらアネットは囁いた。
「今日握手はいいから、目を見て。」
眼球を逸らすナギ。
目を合わせられなかった。
何かを確かめるようにナギを見るアネットの顔が視界の端に映り込んでいた。
目のやり場に困り、ちらりと二度ほど確認するが目が合う寸前でその度に逸らす。
顔に添えられた手に温度は感じない。
「ナギ君。今、頭に浮かんでいる素直になれない感情とか考えが〝執着〟ね。絶対に忘れないで。どこに怒りをぶつけようか探してるでしょ。さっきまではその怒りの対象が〝私〟だった。今は目の前の全て?
やり場のない怒りが振り切れて拒絶に繋がったかな?
殴り合ってた最初の方は、図星から目を逸らしていただけだったけど、今は〝何か認めたくない自分〟を感じた、見たんだよね。」
波が三回寄せて返す。
近くの草むらから枝が折れる高い音がした。
「目が合わないのも全然いいからね。でも、今まさに呑まれそうな過程で〝それが執着だよ〟ってとこまで教えて、それでも呑まれていく人間を私は助けない。助けられないの。〝自分は自分なんだ〟〝周りが悪いんだ〟とかって言いながら呑まれていく事が多いらしい。そういう人は助けない事にしてるの。手も差し伸べない。私に矛が向いても面倒だし。絶対にお互い幸せにならないから。そこまで言われて執着にハマるのはその人が選んだ人生。しょうがない。そういうのは私は見捨てる事にしてる……見捨てる見捨てないって判断基準もない。〝離れる〟。
そもそもどうせ声も届かないから。私にも私の人生がある。良いとか悪いとかじゃなくて…ってそれはもうわかるよね。」
包み込むような声だった。
両方の頬に触れる手の暖かさが少し伝わってくる。
顔に回復をかける声が聞こえた。
「だから、今は目を合わせないでいいから〝これが執着なんだ〟って覚えておいて。
最初に執着の輪郭さえ掴んでおけばこれから呑まれても戻ってこれるから。」
両方の頬に触れる手に優しさを感じ〝られるようになった〟ナギ。
ゆっくりと眼球をアネットの瞳に向ける。
「よかったぁ。」
アネットは吐息交じりでそう言った。
力の抜けた笑みが沁みる。
ナギの顔が歪み、頬を大粒の涙が伝う。
嗚咽が少年から波音を掻き消した。
「言えるなら全部聞くから。とりあえず回復しよっか。」
全部わかっているかのような優しい口ぶりでアネットはそう言った。
頬から手が離れた。
最初は辛さから逃げ、〝特訓だと言い聞かせて〟怒りをアネットに向けた。
殴り合いをする中で自分の攻撃性が怖くなったが止められなかった。
思考を停止し〝殺すつもりで来たら〟という言葉に身を委ねた。
アネットにナイフを向けた自分が許せなかった。
執着から帰還した少年は自分を見つめ、感情の輪郭を話していく。
脇腹、左足、胸、両手、顔。
順に回復しながらアネットは優しい相槌を打って聞いてくれた。
ずっと触れていてほしいとナギは思った。
回復が終わり、アネットの荷物まで戻る。
二の腕が触れる距離に座り込む二人。
「私さあ、胸の辺りが所々ナギ君のせいで破けてんだけど、服貸してくれるとかないの?そんなに下着見たい?」
渡されたリキッドを吸いながら細目のアネットは言った。
焦って自分のシャツを脱ぐ少年。
「ご、ごめん!これ、あげるから。」
上気した顔を背けながら渡す。
「ありがとう。ちゃんと返すよ。」
その場で素早く着替えるアネット。
「アネット…、あの…、殺そうとしちゃってごめん。」
人生初の言葉を置いた。
着替え終わった事を聞いて顔を向けると笑っていた。
ナギは自分のシャツを着ている笑顔のアネットを見て、決して不快ではない言葉に出来ない気持ちになる。
つい波に視線を移した。
「あのねえ。弟子に殺されるなら師匠は本望ってやつだよ。っていうか殺されないよ。私、攻撃魔法使ってないもん。」
言い終わると今度はアネットの顔が上気する。
ナギは顔を向けるがポニーテールしか見えなかった。
「ありがとう。僕もアネットの事、勝手にずっと師匠だと思ってたよ。」
少年は小さく笑って言う。
「ミトハロで何があったの?少しは聞いてるけど。言えてない事あるよね。多分さっきのそれが関係してると思うんだけど。」
ナギが黙ったのを察してアネットが続けた。
「ナギ君の体が重そうなのって明らかに〝負け癖〟だから。さっきの私のはそれを少しでも取り除きたかっただけ。」
「うん。なんかしようとしてくれてるのはわかってるから。最後は体が凄く動いた気がする。動くとか動かないとかも考えなかった。昨日からなんかおかしかったんだけど、これ負け癖なんだ。」
殴り合いの経験すらなかったナギにはそもそも知覚できない領域であった。
少年は〝師〟に心から感謝した。
「心の深い所まで刺さっちゃったから、実際の出来事が関係してるんだろうなって思って。大体予想はつくから無理に聞こうとは思わないけどね。」
「うん。」
波が五回くらい寄せて返す間の沈黙を経てナギはぽつぽつと打ち明ける。
時折言葉を詰まらせながら。
話した事がある内容も、思いつく全て。
胸の中にあるものをゆっくりとアネットに話していった。
勇者になった時、人生が終わったと本気で思った事。
ブローチで終わりたかった事。
元々勇者になった事に不満を抱いている事。
ブローチをキッカケに悩みが増えた。
しかし思考が変わり楽にもなっていた。
その感情の差分すら悩んでいる。
不満を抱いていた癖に〝願い〟が言えない自分に苛立っている。
それからずっと自分の願いを探していた。
〝人生の終わり〟を体験してから毎晩それを反芻している。
それを考えると〝生きる事〟を問われている気がする違和感。
死んだ事で気持ちが晴れやかになり、少しずつ世界の見え方が変わっている事。
何故か人と話せるようになった事。
しかし、生と死、両方の渇望が交互に湧く事。
アネットは相槌を打ってくれていた。
聞き返す事も否定も肯定もせず、ひたすら聞いてくれていた。
気づくとナギは静かに涙を流していた。
アネットとの出会いについても少年は話す。
アネットが未知の領域を知る事の楽しさを教えてくれた事。
考えを聞く中で自分の〝弱さ〟にも向き合わねばならないと感じた途端、自分が存在に対して二人への罪悪感が胸に滲んだ事。
ドミヌスに金を巻き上げられたが申し訳なさや怖さが先立ち二人に言い出せなかった事。
強さを求めたいが、強ければ人の命を奪っていいのか。という葛藤。
巻き上げられた金を〝暴力以外〟で無意識に解決しようとダガヤ・クルーからの依頼を受けた事。
魔女との一戦で〝最後まで諦めなかったアネットの最期〟が印象的だった事。
ナギがチャンスをことごとく潰したにも関わらず魔女に一発入れたアネットを尊敬している事。
諦めていた自分の不甲斐なさ。
しかしアネットもブローチの件で悩んでいたように見え、待とうと思った事。
なぜアネットは強くなりたいと思ったのか、どのように〝その自分〟を受け入れたのかという興味。
全てを打ち明けた。
アネットの話をすると隣から嗚咽が聞こえてきた。
ただひたすらに、ごめんねと師は謝り続けていた。
ナギにはその意味がよくわからなかった。
しかしアネットが最後まで優しく話を聞いてくれた事で、自分は存在していいのだと話し終わる頃には感じていた。
話し終わるとしばらく二人の嗚咽が波の音を消した。
*
先に泣き止み弟子を待っていた師が口を開く。
「落ち着いた?」
「うん。」
「ナギ君、ちょっと立って。」
アネットは立ち上がる。
二の腕に摩擦を感じた。
ナギも立つ。
正対する二人。
師の目つきは少し鋭い。
それを見つめるナギは精悍な顔つき。
矢継ぎ早に話すアネット。
「今からする事は、魔法学で大事なの。ナギ君にとっては今も大事なんだけど、これからとっても大事になってくる。男とか女とかも関係ない。恋とか、それ以外の邪な感じでも全然ない。ナギ君だからするんじゃない。気持ちを話してくれたりしてそういう状態だって私がわかったら。私は絶対にリサにもする。もちろんそれはリサにもしっかり伝えてる。むしろナギ君よりもリサにしたい。でも誰にでもはしない。私から闇雲にもしないし、する機会を私から探したりもしない。でも君たち二人だからする。勇者とかも関係ない。言いたい事、伝わった?」
「うん、わかった。」
「よし。」
そう言葉を交わすと、アネットはナギを抱き締めた。
柔らかい感触が顔にぶつかる。
予想外で驚いたがすぐに呼吸が深くなった。
微動だにせず身を任せ、そのまま目を瞑る。
息が初めて自分のものになったように深く感じた。
背中に直に触れるアネットの手を感じると呼吸がさらに深くなった。
胸郭がゆっくりと開き、深い息が身体を通り抜ける。
吐く度に、胸の内側がやわらかく広がっていく。
全身の力が抜ける。
力を抜いたのではなく、力む理由がなくなっていた。
背中に回ったアネットの手は優しかった。
包まれるような感触。
目から勝手に涙が落ちた。
止まらなかったが、止める必要も感じなかった。
何も掴まず、何も拒まず、ただ立っていた少年から全ての思考が消えた。
どれくらい経ったかわからないが、波の音が遠い事に気づいた頃に波の音が戻ってきた。
察するようにアネットが優しく離れた。
ナギは目を開ける。
目を開けた時、世界が少し違って見えた。
涙は流れているが、精悍な顔つきでアネットを見据える。
名残惜しくはなかった。
抱き締められた時の感情が消えなかった。
胸の中を探ると言葉に出来ない満たされた感情が占拠している。
抱き締められた時はわからなかった。
わかるわからないという思考さえ生まれなかった。
それは先程、自分に向けられたアネットの微笑みを見た時に一瞬感じたものと似ていた。
「ありがとう、アネット。」
口をついて言葉が出る。
何に対してかはわからない。
もう一度抱きしめてほしいとも思っていない。
高揚感も全くなかった。
ただ、言葉が漏れた。
そう言わずにはいられなかった。
「うん。あたしもありがとう。戻ろっか。」
荷物を取り、宿に向かって歩き出す。
足に伝わる砂の感触が今までとは全く別のそれに感じた。
風で揺れる草。
寄せて返す海。
全てに感情があるような、全てに意志があるような。
不思議だが恐怖はない。
そんな感じだった。
ちらちらと様子を見ていたアネットが口を開く。
「大丈夫だと思うけど、今日夜、もしも現実感が無くなったら…ふわふわしちゃったりとか。
自分の体が自分のものじゃないような感じがして、それが〝恐怖〟だったら。私の部屋に来て。わかってると思うけど、変な意味じゃなくて。」
「うん。」
ナギは茂った木々の枝葉を見上げながら答えた。
眼球は一点を見ず、ゆっくりと動いていた。
師匠は弟子の様子を確認するように眺めていた。
「そうなったら私じゃなくても全然いいから。とにかく誰かと話して。
ドワンとかリサとかキューとか。なんでも良いから誰かと話して。すれ違うお客さんに挨拶をしても良いから。」
「うん。」
少年は静かに力強くそう言った。
「変な意味で、私の部屋来てもいいよ。」
アネットは笑いながら冗談めかしておどけるように言った。
「ほんと?ありがとう。じゃあ、行こうかな。」
ナギはアネットにゆっくりと顔を向ける。
表情は優しく微笑んでいた。
「ごめん、冗談。変な意味では来ないで。」
師匠の顔が上気する。
シャットダウンの向こう側に到達した弟子は強かった。
ナギはアネット見ながらにっこりと笑う。
宿に向かう歩調はゆっくりとしたものであった。
アネットが口を開く。
「ナギ君、明日なんか予定ある?」
「いや、ないよ。」
拾った石を色んな角度からまじまじと見つめていたナギがそのまま答えた。
「じゃあ明日は私と一日デートしよう。体術はお休み。」
「デート?」
師匠からそんな言葉が出るとは思わなかった。
アネットを向いて目を丸くした。
「私、服買いたいし。なんか髪も焦げてるんだけど。」
細目でナギを見る。
「あ、ごめん。行こう行こう。」
「いえいえ。じゃあ日が昇る頃に宿屋の前に居て。」
師は笑っていた。
「うん。」
「ナギ君は、デートした事ある?私は初めてだから楽しみにしてるよ。」
石を捨て置き、顔を上げ目を瞑る。
考え込むナギ。
「うーん、あると思うんだけど、ないような感じもする。」
「なにそれ。」
噴き出すアネット。
「リサには僕から声掛けておくよ。」
「うんうん、お願いね。」
アネットは爆笑した。
楽しそうな師匠を横目に、少年も少し笑った。
*
階段の踊り場で丸椅子に座るドワンに挨拶し自室に戻る。
ベッドの上に置いてある洋服を持ってアネットの部屋に向かった。
今日自分が着ていた洋服を明日も着るのは悪いだろうと、自分の替えの洋服と交換した。
戻ってベッドに座り一休みがてら目を瞑る。
完全に習慣になった〝同調〟を行った。
その日のそれはいつもとは異なっていた。
どれくらい経ったのかわからず気づけばナギは目を開けて涙を流してベッドに座っていた。
目を瞑った後の事を思い返す。
思考はすぐに無くなっていた。
身体の感覚自体も無くなった。
座った感覚も無い。
普段は集中するまでに、もぞもぞと身体を動かしていたがそういった衝動はなかった。
時折聞こえる外からの音が近いような遠いような、説明できない気分だった。
身体が熱いような実態がないような。
たまに宙に浮いたようにもなっていた。
広い暗闇の空間に自分だけが浮いているような感覚を思い出す。
今までにない感覚。
意識を目の前の壁に向けた視線に戻す。
恐怖心はない。
今は浮遊感などもなかった。
涙が止まらない。
苦手だと思っていたサディナの顔が何故か浮かんだ。
嗚咽が漏れていた。
ひとしきり大泣きすると、師への感謝の想いが強く残った。
衣類を適当に洗いながら気持ちを落ち着かせる。
和やかな気持ちでリサの部屋に向かった。
ノックをすると勢いよく扉が開いた。
「おっナギじゃん!どうしたの?」
にっこりと笑顔のリサが顔を出す。
「明日、アネットとミトハロ回るんだけど、リサも来ないかなって思って。」
「それ、アネットがあたしを誘おうって言ってたの?」
「いや、僕からだけど。」
「なんで?」
食い気味にリサは聞いてきた。
顔は笑っていた。
(なんで?ってなんで?何がなんで?)
「なんでってどういう事?」
「そのままなんだけど。」
全く言っている事がわからない。
「ごめん、言ってる事がよくわからないけど、予定ないのならリサも一緒に行こうよ。」
「いやいいよいいよ二人で行ってきなよ!あっ、明日ちょっと予定あるんだよね!」
思い出したようにリサは言った。
無理に誘っても悪いと引き下がるナギ。
「あっそうなんだ。アネットがリサとも話したいってさっき言ってたんだけど、夕方には戻ってる?」
「ふーん。多分いると思うよ!」
「わかった。じゃあまた明日夕方過ぎくらいに来るよ。」
「うん!楽しんでね!」
「うん、リサも気を付けてね。」
そう言うと扉は勢いよく音を立てて閉まった。
後ろを向くと突き当りの階段の踊り場からドワンがこちらを見ていた。
上半身裸の状態でうろつくのはあまりよくないと、急ぎ足で部屋に戻った。
その日はブローチを反芻せずに眠りについた。
こんなに安らかな気持ちで眠れたのは人生で初めてなんじゃないか。
考えられないくらい、ぐっすり眠れたのだった。




