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第五章 ショコラを作る手、甘味店《ショコラトリエ・アルセリア》、開店!10

***

 リオンが「今日は団で仕事がある」と言って、工房を出て行った朝のことを思い出しながら、彼の忘れ物を抱えて騎士団本部へと足を踏み入れた。


 重厚な石造りの建物と、風になびく真っ白な旗。その下で鍛錬の音が金属のように響く。


(うわぁ……いつ来ても緊張するな)


 団員たちは皆、凛々しくて背筋がまっすぐで、まさしく“国の盾”って感じだった。


「真琴殿、こんにちは!」


 顔見知りの若い騎士が手を振ってくれる。優しいけど……やっぱり雰囲気は硬い。


「副団長なら執務室ですよ!」

「ありがとう!」


 礼を言って、階段を上がろうとしたとき――。


「……真琴?」


 低くてよく響く、あの声がした。振り向くと廊下の奥、逆光の中からリオンがゆっくりと歩いてくる。いつもの騎士服と、完璧に整えられた金の髪。冷静で隙のない、王国最強の“副団長の顔”。


(あ、なんか……仕事中の顔をしてる)


 団員がすれ違うたびに背筋を伸ばし、敬礼すると短く深い頷きを返していく。


 厳しくて、優秀で、威厳の塊。そんなリオンが僕を視界に捉えた瞬間、表情がふっと溶けた。


「真琴、来てくれたのか」


 声までやわらかい。傍にいる団員が二度見した。


(や、やば……! 仕事モードが一瞬で消えた!)


「り、リオン! 忘れ物の書類を届けに来ただけだから……すぐに帰るからね!」


 本当は、すぐにでも立ち去った方がいいとわかっていた。けれど、溶けた表情のリオンを見てしまって――足が動かなかった。


「帰る?」


 リオンの眉がしゅっと下がった。さっきまでの鋼鉄みたいな威厳は、どこへやら。


「……もう帰るのか?」


 すれ違った団員三名、その場に固まる。


「えっ、副団長? 今、声……優しかった?」

「いやいや、聞き間違いじゃ……」

「“もう帰るのか”って……あれは完全に私語では? いや、恋人同士でもあれほど……」


 ひそひそ声が、すべて丸聞こえである。


(うわーーー!)


 そのことに、リオンは気づいていない。むしろ近づいてきて、僕が持ってる書類の角が曲がらないよう、そっと手を添えてきた。


「届けてくれて助かった。ありがとう、真琴」


 甘い、甘すぎる。これは仕事中に出す声じゃない。団員たちがさらにざわつく。


「ちょっ……副団長、声! 声が!」

「あんな声、聞いたことないんだけど!」

「真琴殿って……いったい何者?」


 リオンはまだ気づかない。それどころか、


「帰る前に少しだけ、中庭を歩かないか?」

「ちょちょちょちょっ、リオンはいま仕事中でしょ!」

「ああ。だが……真琴がわざわざ来てくれたから」

「それ、理由になってない!」


 集まってきた団員たちの視線が突き刺さる。いや、刺さるというより、もう見守られている。


(完全に見られてる……!)


 と、そこへ。


「副団長!」


 どこか焦った声とともに、第三部隊長が駆けてきた。筋骨隆々で歴戦の騎士。普段から冷静で、頼もしい人。お店にもよく顔を出してくれる常連さんだった。


「報告があります! 至急――」


 部隊長は僕に気づき、


「ああ、真琴殿か。こんにちは」

「こ、こんにちは……!」


 そして次の瞬間、リオンに視線を移して――。


「副団長、顔が緩んでますよ?」

「……くっ」


 リオンの肩がビクリと跳ねる。苦笑いを浮かべながら部隊長は続けた。


「真琴殿の前だけ、表情がやわらかいのは有名ですが……廊下中が騒然としております。威厳というものが崩壊しておられる」

「崩壊⁉」


 完全に固まったリオンに、部隊長は少し優しい声で語りかける。


「まあ、良いことですがね。人前で見せるあなたのあの顔は、私も初めて見ましたから」

「……っ!」


 その一言に、リオンの耳まで真っ赤になった。


「り、リオン?」


 やんわり声をかけるとリオンは僕の手首をそっと取り、広い背中で団員たちの視線を遮った。


「……真琴」

「な、なに?」

「今日は、もう帰ってくれ」

「えっ……なんで?」

「もう耐えられない……。真琴の前だと私の威厳が……全部溶けてしまう」


 その顔は騎士団副団長ではなく、ただの“恋に弱い人”だった。


 帰り際。遠くから団員たちのざわめきが聞こえた。


「副団長……真琴殿の前だと別人なんだな」

「かっこいいのに……甘すぎて逆に恋人力が高い」

「見たいけど見たくなかった顔、見ちゃった感じ……」

「いや、あれは真琴殿じゃなきゃ出せないな」


 背中の方で、誰かが言っていた。


「……副団長って、あんなに誰かを大事そうに見るんだな」


 その言葉が、じんと胸の奥に染みた。あの顔を引き出したのが自分だという事実が、少しだけ誇らしかった。


 リオンは恥ずかしがっていたけれど――僕は、たまらなく嬉しかった。

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