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第三章 北の砦と試される信頼4

***

 その夜、北の砦では濃霧のような魔障が空を覆っていた。寒さで騎士たちの息は白く、剣先にまで冷気が張りつく。


「ああ……くそ、どんどん視界が奪われる!」

「副団長、魔獣が西からも現れました!」


 叫び声とともに黒い影がうねる。霧の奥から低い咆哮が響き渡り、地面がわずかに震える。私は迷うことなく剣を抜き、前線に躍り出た。


 刃が闇を裂き、魔獣の爪と火花を散らす。血と鉄の匂いの中で、霧がますます濃くなり、息苦しい湿気が肌にまとわりつく。視界がどんどん狭まり、仲間たちのシルエットさえぼやける最中、背後から鋭い爪の風切り音が迫る――それを避けきれず、肩に熱い痛みが走った。


(このままじゃ、間違いなく持たない。どうすればいいんだ……!)


 迷いに顔をしかめながら、胸元に手を伸ばす。包み紙を祈るように――いや、信じると決めて握りしめた。指先が震え、紙がしわくちゃになる音が耳に残る。


(真琴……君は、ただ守られるだけの存在じゃない)


 彼の言葉を思い出そうとする。甘さに込められた、あのまなざしを。


 霧が喉を締めつけて息が荒くなる中、魔獣の赤い目がすぐ近くで光る。剣を振り上げようとした瞬間、別の魔獣が横から飛びかかり、仲間の一人が悲鳴をあげる。


(――急いで助けなければ!)


 そのタイミングで、懐からふわりと甘い香りが立ちのぼった。あの夜、真琴から受け取ったチョコの包み紙だった。


 割れた欠片に残るカカオと果実の香りが、ほのかに優しい光を放つ。


「……まさか!」


 淡い光は風に乗り、砦全体にじわじわ広がっていく。チョコの香りが魔障の霧を溶かすように、空気が少しずつ澄み始めた。霧の重圧が一気に軽くなり、視界が開ける――それとともに騎士たちの息が戻り、目の色に力が宿る。


「な、なんだ、この香り!」

「体が……不思議と軽くなったぞ!」


 私は剣を構え直した。甘い風が夜を貫き、闇の中に希望の色を灯す。その瞬間、確かに感じた――あの笑顔と、あたたかな声。


「チョコは、苦味があるからこそ甘みが引き立つんです」


 笑い声が、遠い記憶のように響く。その言葉を思い出し、深く息を吸いながら笑った。


「そうだ。苦いだけの戦場じゃない……君の甘さを知っている私だから、強くなれる!」


 微笑んで言い放った刹那、剣が光を帯びた。香気を纏った刃が牙をむく魔獣を次々と貫き、霧を裂く。魔獣の絶叫が響き、血しぶきが飛び散る中、仲間たちが一斉に反撃を開始する。魔障が散り、夜空に星が戻ってきた。


 翌朝、北の空はどこまでも澄み、夜の名残をひと筋の風がさらっていた。丘の上で包み紙を広げ、かすかに残る香りを吸い込む。


「ありがとう、真琴。君の“甘さ”が、この夜を救ってくれた」


 風が吹き、包み紙が風に舞い上がって、光の中で遠くへ飛んでいく。まるで王都へ帰っていくように――。



 同じ時刻。工房の窓際で、ふと顔を上げた。どこからともなく、甘く懐かしい風が流れ込み、カカオの香ばしさと混じって鼻をくすぐる。


 窓枠の木目が朝の淡い光に照らされ、埃の粒子がきらきらと舞う中、風がカーテンを軽く揺らす音が響いた。


「あ……リオン様、無事なんだ」


 胸の奥がじんわりと温かくなる。フェリシュが窓辺で笑い、金の光をぱらぱらと舞わせる。


「真琴の“香り”、リオンにちゃんと届いたのです。だって“想い”の甘さに、距離は関係ないのだわぁ!」

「ありがと、フェリシュ」


 礼を言いながら、窓の外を見つめた。朝の光が工房に差し込み、テーブルの表面にやわらかな影を落として、香りがふたりを包み込む。


(――空の向こうに、あの人がいる)


 そう思うだけで、この朝はいつもより少し甘く感じられた。工房の空気がほんのり甘く湿り、遠くの鳥のさえずりが耳に優しく聞こえ、心を満たしたのだった。

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