41・王都へ
リカルドは、いよいよ朝が来れば王都に足を踏み入れる、という時に、ユーグさまにも何を伝えず姿を消してしまった。
夜中の騒ぎでろくに睡眠をとれないままに運命の朝を迎えた私の心は、不安ばかりで異常に尖っていたので、すぐに思ったのは、『リカルドまで私たちを裏切ったの?!』という事だった。
でもすぐに、そんなわけはない、とその思いを打ち消した。だって最初から私とユーグさまは、リカルドだけでも安全な他国に逃げるように、と何度も説得してきた。王の狙いはあくまで、今後の自分にとって邪魔な、意に染まぬ第一王位継承者のユーグさまと、処刑してやったのに生きながらえている私の筈であり、リカルドはただ、私たちを手助けしたばかりにとばっちりをくらっているだけだと思っていたから。ユーグさまや私が逃げたら国王の兵士たちは面目を保つために必死で追うだろうが、リカルドだけならそこまででもないかも知れない。伯爵家の次男、実は複雑な出生の秘密があるにしたって表向きはそれだけ、王にとって脅威になる存在ではない筈。
それでも、王が私たちを陥れようと手ぐすねひいて待っているところに私たちと一緒に行けば、もし『ローレン侯爵の口添えを得て貴族たちを味方につけ、王の失脚を狙う』という、私たちの一か八かのような賭けに負けたら、確実に処刑される。だから、無私に私たちを助けてくれたリカルドは、むしろ今ここにいない方がいいのだ。
そうは思ったけど……混乱して不安なのには変わりない。仇敵のイザベラが突然現れて、意味深な言葉を散々振りまいて、質問の殆どに答えを得られないままエッチェルに連れて帰られてしまったので、私はただ混乱していた。
情報――憶測も交えたものだけど、イザベラは宰相の実子ではなくローレン侯爵の姉で独り身のまま修道院で暮らしていた女性の娘でつまりローレン侯爵の姪で、ローレン侯爵の庶子であるリカルドのいとこ。それは、王にも秘密。
でも、その事が、私とユーグさまの運命にどんな影響を与えるというのだろう?
「アリアンナ。何があっても、リカルドは俺たちを傷つけるような事はしないよ。だから、俺たちに出来るのはあいつの幸運を祈るだけで、不安に思う事はないよ」
「――ええ」
それはそうだと思う。でも、書き置きすら残さずリカルドがいなくなったという事実に対して不安を消すことは難しかった。もちろん、私たちに最悪の場合が訪れた時には、リカルドだけでも生きて幸せになって欲しいとは思っているのだけれど。
でも、いつまでもリカルドの事を考えている訳にはいかない。私たちはいよいよこれから、敵地に入るのだから。
私たちを乗せた馬車は、静かに大門を抜け、王都へと進んでゆく。もしもここで死ぬ運命だとしたら、逃げもせず自らその運命に飛び込んだ、勇敢な、しかしとんでもない愚か者、というレッテルを自ら貼り付けたようなものだ。
馬車から見る王都の風景。それは、私がかつてジュリアンの命により、死ぬために極寒の地へ送られる馬車から見た、これが生まれ故郷の見納めと絶望の中で思った時のものと大して変わらないようにも見えた。
かたりと馬車の窓を持ち上げると、初秋の風がふわりと入り込む。私の金の髪は嬲られてなびく。ユーグさまは私を見て笑む。まるで、何一つ怖い事はないのだ、というみたいに。私も微笑みかえす。
――でも、これは強がりだ。刻々と、王城に近づいていく。死ぬかも知れない、酷い痛みと屈辱を伴って。それが現実だと、忘れたいだけ。忘れなければ、立ってさえいられないかもという気持ち、それから、「決して恥じる事はないと自身を保っていれば恐れる事はない」と鼓舞する気持ち、それらが交互に訪れてきた。
そして、昨日までそこにあったリカルドの笑顔がない事が、後ろ向きな思いを後押ししてしまう。
様々な思いを巡らせながら街並みを眺めていた時、ふと違和感を覚えた。
平日なのに、閉店している店がいくつもある。それに……記憶の中の王都は治安がよく、少なくとも目に付くような貧困はなかった筈なのに、身なりが乱れ風体の悪い男たちの姿が、朝の時間に目に付く。
「この頃は特に、王都の治安が乱れ、財を失う者が増えているという情報は本当のようだ」
私の隣から同じ光景を見ているユーグさまが言う。
「でも、強権を持っている王の膝元でどうして?」
「王や国王派の貴族にうまく取り入り上納する富商ばかりが栄え、庶民がその煽りを喰らっているという事だ」
「民の暮らしの安定すら望めない王都の有様では、王の先行きも知れないのではないかしら? 規律に厳しいと聞いたのに、治安を乱して店が開けられないなんて」
「規律は厳しいだろう。だがそれは、王家への翻意を持つ、或いは持つと疑われた者に対してだ。逆に言えば、王家に忠誠を誓い上納を多くする者に対しては、少々の事は目を瞑られるという事だ。ほら、あそこの立派な宝石店はちゃんと営業しているようだ」
「そんな。都合の良い一部の者にだけ甘い顔をして、反抗的だったり役に立たないと思ったりした者にだけ厳しいと? そんな不公平なこと……」
「王たる者は常に公平だ、という風に思っていたの?」
ユーグさまは首を傾げて問う。私たちにこんな仕打ちをしたジュリアンが公平な人間であろう筈もない事くらいわかっているだろうに、という疑問を浮かべている。
「あ、いいえ、勿論、ジュリアン王が公平な人間である筈がない事くらいわかっています。ただ――なんて言ったらいいのでしょう、王は……民を虐げる事に関しては、例外などなくやる印象があったのかも」
ユーグさまは微苦笑した。
「確かにね。彼は驚くべき手腕で、突然の国王交代劇に国が割れそうなところを見事にまとめ上げた。苛烈過ぎる程に罰を重くし、誰に対しても――時には自分を支援する者に対してすら、些細なミスの代償が不服従の罪と裁いて処刑台に送ったと聞く。そうした事により、恐怖を煽り、誰もが王を恐れ、服従している……今のところ。でもそれは主に貴族以上の階級に対しての事だ。市民については多分王は、税を搾り取る対象以上のものではない。だから、多く貢ぐのが民の最大の価値だから、価値ある者は虐げないのだろう。当面は」
「なるほど。でも、民にだって貴族と同じように心があるというのに」
「きみはそれを知っているが、王はそれを知らない。民など個の存在ではなくゲームの駒の集合体みたいなものとしか思っていないと思うよ」
そう言ってユーグさまは私の肩を抱く。
「こちらに勝っているところがあるとすれば、そこかも知れないな。俺たちは民を知っている。まあ、全てを理解しているとはいえないだろうが」
「そうですね……」
でも、村人と親しく交流して、王都に暮らしていた頃には想像も出来なかったその暮らしを垣間見たとは言っても、その事が強大な権力を持つジュリアン王に対する有利だとは、ちっとも思えなかった。
賑わいのない都、少数の富んだ身なりの者たちが高級な店に馬車を乗り付けて出入りする姿しか目につかないような都を抜けて、私たちの馬車はついに王宮の門をくぐった。
王の侍従長が私たちを出迎え、滞在の為に用意されていた離宮に案内する。この侍従長を私は知らない。私が刑を受ける頃にはこんな男は王宮にはいなかった。つまり、当時いた上級侍従は皆きっと処分されてしまった、という事なのだろう……。
夕刻からの晩餐会に私たちは招待されていて、そこで趣向を凝らしたもてなしが用意されている、と仮面のような笑顔を張り付けたまま侍従長は告げ、そそくさと去っていった。
晩餐会! そこで、私たちの運命は決まる。
その前に、ローレン侯爵と面会出来れば、とユーグさまは呟いている。侯爵はこちらが着けば会いに来てくれる手はずにはなっているけれど、どうだろうか。息子のリカルドはいない。その事によってもしも侯爵が私たちを見限って危険を回避するのであれば、私たちは万策尽きると言っていい。
でも、暫く気を揉んだ後で、ローレン侯爵がユーグさまに面会を申し込んでいる、という知らせがもたらされた。




