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ラッダイト・プロトコル  作者: 神楽坂らせん


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第四話 キッチンのGPL

# 第四話 キッチンのGPL


 待ち合わせ場所に指定したのは、神保町の古い喫茶店だった。

 昨夜まで画面の中で燃えていた炎上が、今日は人の声と椅子の軋みの高さで測られる。


 午前十一時。雨になる寸前の空気が、ガラスの向こうでうすく曇っている。澪が先に入ると、店の奥ではコーヒーカップの触れ合う音だけが静かに続いていた。こういう店では、誰も思想を声高に語らない。だからこそ、話すべきことがよく聞こえる。


 久世連は、約束の三分前に来た。


 テレビで見るより細かった。肩の線が少し下がっていて、徹夜明けの人間の目をしている。整った顔立ちは変わらないのに、拡散動画の中でだけ増幅される輪郭というものがあるのだろう。と、澪は思った。


「録音、してもいいですよ」久世は座るなり言った。「むしろ、そのほうが公平だ」


「じゃあ遠慮なく」


 澪は端末をテーブルに置いた。録音ランプが小さく灯る。


「内部監査って、いったい何をさせたいんですか」


「運動の中で、何が起きているかを見てほしい」


「あなたが見えていないことを、外の人間に見ろと」


「そうです」


 久世はまっすぐ答えた。その素直さは、誠実さというより追い詰められた人間の短絡に近かった。


「PLの中に、炎上そのものを楽しんでいる人間がいる。目的が人間の創作を守ることじゃなく、誰かを吊すことに変わっている。僕もそれは止めたい」


「だったら、あのマニュアルは何です」


 久世は目を伏せた。否定しない。


「運動が大きくなると、言葉は勝手に定型化するんです。誰かが効率のいい拡散方法を作る。誰かがそれを真似する。気づいたときには、勝手な正義が運用手順になる」


 久世は苦く笑った。「便利ですね。人間の言葉を守る運動なのに、まるで機械みたいだ……。

 皮肉ですね」


 それから、彼は水をひとくち飲み、少しだけ声を落とした。


「でも、もっと先に壊れた業界がある。料理です」


 澪は眉を上げた。


「料理?」


「RML騒動、知ってますか」


 名前だけは見たことがあった。機械可読レシピ言語。料理サイトと家電メーカーが一斉に採用して、少し前にライセンス解釈で揉めていたはずだ。


「詳しくは知らないです」


「知財の弁護士で、笹原七緒という人がいる。あの人に会ってください。文学の話をしてるつもりで、同じ罠を別の業界が先に踏んでる」


「あなたの紹介で?」


「ええ。僕の名前を出せば、たぶん会ってくれる」


 澪はそこで少し考えた。本題から逃げたくて別件を投げている可能性もある。だが、いま必要なのは、久世を詰め切ることより、自分の足場を増やすことだった。


「内部監査の件は保留させてください」


「わかりました」


「でも、せっかくですから、ひとつだけ教えて」


 澪は久世を見た。


「あなたたちが守ろうとしているのは、本当に人間ですか。それとも、人間が苦労している姿ですか」


 久世は、すぐには答えなかった。

 店のスピーカーから、やけに明るいピアノ曲が流れている。場違いな明るさだった。

 やがて久世は視線を落としたまま、言葉を継いだ。


「その違いが、もう曖昧になっているのかもしれないです」


 笹原七緒の事務所は、飯田橋の雑居ビルの四階にあった。法律事務所らしくないのは、壁一面に本ではなく食品パッケージが並んでいたことだ。海外の缶詰、古い即席麺、調味料の瓶、業務用スパイスの空き袋。知財の弁護士というより、収集癖のある台所の亡霊みたいだった。


「久世くんから話は聞いてる」


 笹原は名刺より先に、ペットボトルの水を一本渡してきた。三十五歳。声は淡々としている、相手の喉の渇きにはよく気づくタイプの人間のようだった。

 勝ち負けより制度の設計図を描くのが先、という顔をしていた。


「あなた、いま文学の炎上を見てるんでしょう」


「見てるというか、巻き込まれてます」


「なら、料理を見るといい。法が弱い場所では、道徳がすぐに腕力になるから」


 笹原はタブレットを起動し、ひとつの資料を澪に見せた。見出しは【RML公開義務に関する相談案件一覧】。店名、相談内容、現在の被害。行がびっしり並んでいる。


 予約キャンセル。再配布要求。取引先からの照会。仕入れ停止の示唆。店頭抗議。


「法律上、レシピそのものを著作権で縛るのは難しい。これは、たぶんあなたももう知ってる。

 でもRMLを使うと、公開義務があるって話になる。

 正確には、そう主張する人たちがいる、ね」


 笹原は指で画面を送った。


「面白いのはここから。法的にはかなり怪しいのに、社会的圧力としては十分に機能してしまう。『共有は善だ』『隠すのは利権だ』『みんなの知恵を独占するな』。言ってること自体は、半分くらい正しい。

 ……半分だけ、ね。

 善を一般論として語る人は、だいたい主語が大きすぎるの」


 笹原はそこで少しだけ笑った。


「本当に大事なのは、公開する自由と、公開しない自由が両方あること。法はその選択肢を残すためにある。正義を強制するためじゃない」


「でも、文学では逆に『説明しろ』『証明しろ』がどんどん強くなってます」


「そうでしょうね。制作過程を開示できる人だけが、善良な作り手と見なされる」


 その一文で、澪は少し黙った。人間執筆証明。入力ログ。改稿履歴。提出できない人から落ちていく制度。料理も文学も、違う言葉で同じ崖に向かっている。


「行きましょうか」笹原が言った。「一次情報を取りに行ったほうが早い」


 飯田橋から代官山までの移動は短いのに、街の湿度が別物だった。駅前の骨太な雑踏が、坂を上るごとに細くほどけていく。高架下の低い振動は消え、代わりに犬の首輪の金具が鳴るような、小さな生活音だけが残った。


 連れて行かれたのは、代官山の外れにあるレストラン「ソノラ」だった。昼営業と夜営業のあいだの、店がいちばん素顔に戻る時間。客席にはまだ洗い上がったグラスの匂いが残っていて、厨房には玉ねぎと焦がしバターの甘い湯気が漂っていた。


 葛西陽介は、フライパンを拭きながら振り返った。


「笹原さん、その人が例の?」


「文学側の人。朝倉澪さん」


「例の、って言い方、だいたい良くない案件ですよね」


 澪がそう言うと、葛西は少しだけ笑った。疲れているのに、笑い方だけは軽かった。


 三十八歳。腕まくりの跡に、熱い鍋の縁に触れたような薄い火傷がいくつもある。職人の手だった。だが、その手の動きはどこか落ち着かない。カウンターの端では、通知の入った端末が裏返しに置かれている。


「いま、どんな状態なんですか」澪は聞いた。


「一言で言えば、面倒です。料理より先に返信が必要なメールが多すぎる」


 葛西はそう言って、端末を表に返した。画面には未読メールが三十七件。件名だけで、だいたいの空気がわかる。


 《公開済みRMLレシピの再配布について》

 《あなたの店は知識の囲い込みに加担しています》

 《不買対象店舗候補のお知らせ》


「うちは前に、店の人気メニューを何本かRMLで公開してたんです。家でも作れるようにって。で、公開してないレシピもある。当たり前ですよね。店の看板まで全部配りたいわけじゃない」


「なのに、全部出せと言われる」


「そう。『一部だけ公開するのは偽善だ』って」


 葛西は、言葉の最後で少しだけ肩をすくめた。


「偽善でも何でも、こっちは善意で出してたんですよ。賄いから生まれた一皿とか、家で子どもと作れる簡単なやつとか。好きで出してたものまで、義務に変えられると、急に別のものになる」


 厨房の奥で、仕込み中の若いスタッフが無言でハーブを刻んでいた。包丁の音だけが細かく続く。


「予約も減りました?」と笹原が聞く。


「先週から団体が二件キャンセル。『店の思想が不透明だから』だそうです。あと、取引先のひとつが、レシピ管理方針を確認したいって。醤油の使い方ひとつで企業秘密に触れるとか何とか」


「料理してる暇がなくなりますね」


「なってます」


 葛西は即答した。


「最近、いちばん長く見てるのが鍋じゃなく受信箱なんです。最悪でしょう」


 その言い方に、澪は少しだけ救われた。冗談が残っている人は、まだ完全には折れていない。


 葛西は冷蔵庫から小さな保存容器を取り出し、中身をスプーンでほんの少し皿に落とした。褐色のソースだった。甘い匂いの奥に、遅れて辛味が立つ。


「うちのタレです。これを公開しろって言われてるわけじゃないけど、理屈を詰めていくと、いずれそこまで来る」


「出したくない理由は、商売だからですか」澪は聞いた。


「それもある。でも、それだけじゃない」


 葛西は皿を見下ろした。


「レシピって、地図なんですよ。地図は渡せる。でも、どこで道に迷ったかとか、どこで帰りたくなったかまでは書けない。俺は、その迷い方まで含めて自分の料理だと思ってる」


「だったらなおさら、公開しなくていい」


「うん。でもね」


 彼はそこで一度、言葉を選んだ。


「ほんとは、いつか出したいレシピもあるんです。新人が真似してくれたらうれしい皿とか、家族の食卓に降りていってほしい味とか。だけど脅されながら出すのは違う。没収と共有は、似てるようでまったく別です」


 その一文を、澪は頭の中で反復した。


 没収と共有は、別。


 法と倫理、強制と自発。その境界線は、条文より先に、いま目の前の台所に出ていた。


「文学でも同じかもしれません」


 気がつくと、澪は口にしていた。


「AIを使ったかどうか、どこまで自分で書いたか、全部出せっていう空気がある。透明性の名目で。でもそれって、読者のための説明というより、作り手に苦労を提出させる儀式になりつつある」


「苦労の提出ですか」笹原が言った。


「ええ。汗を見せろ、っていう」


 葛西は少し驚いた顔をして、それから困ったように笑った。


「料理のほうも似たようなもんです。手間を隠すな、秘密にするな、みんなのために差し出せって。善意はあるんでしょう。でも、善意だけで人の厨房に入ってこられると、かなり困る」


 店を出るころには、雨が降り始めていた。代官山の坂道に、細い水の筋ができている。澪は傘を開きながら、さっき見た厨房を思い返していた。火傷の跡のある手。裏返された端末。鍋より受信箱を見る時間。あれはもう、料理の話だけではない。


 帰りの電車で、笹原から短いメッセージが届いた。


 《法は自由を残すためにある。けれど、善を命令文にした瞬間、だいたい壊れる》


 澪はその文を保存した。


 夜、自宅の机に向かう。ノートPCを開くと、空白の文書が白く立ち上がった。カーソルの点滅は、いつも少しだけ急かしてくる。


 文学の炎上。料理の公開義務。人間証明書。汗のない作品に価値はない、という標語。どれも別々のニュースに見えて、底ではつながっている。


 人は、人間を守りたいのではなく、人間が苦労している証拠を拝みたいだけなのではないか。


 もしそうなら、それは保護ではない。信仰だ。


 澪はタイトル欄に、まずこう打った。


 機械差別という言葉


 少しだけ指が止まった。


 それから、企画書の一行目を書き始めた。

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