第一話 禁筆宣言
# 第一話 禁筆宣言
朝倉澪は、出社前に必ず駅前の立ち飲みで薄い紅茶を買う。甘くしない。原稿を読む前に舌へ何か残ると、言葉の温度を取り違える気がするからだ。
値上げ続きで昼を削る日が増えても、この一杯だけは削らない。そこまで切り詰めると、自分の仕事まで安く見積もりそうになる。
その朝も、紙カップのふたを親指で押さえたまま改札を抜けた。飯田橋行きの車内で、同じ画面を三度見た。NOVA-ARKの速報通知は、閉じても閉じても、別のアプリ経由で追いかけてきた。
車内の誰もが同じ見出しを見ているのに、何が始まったのかを説明できる顔はひとつもない。
会社のフロアに着いたとき、壁面の大型モニタには、もうその話題しか流れていなかった。
画面の左上に速報の赤帯。右下に、無音でうなずくキャスターの口元。中央には、小説投稿サイト「NOVA-ARK」のロゴを背景にした記者会見の映像が流れている。会見台の前に立つ広報担当が、やけに平坦な声で言った。
『本日より、当社プラットフォームにおけるAI生成作品の投稿を全面禁止とします。既存作品についても、今後は人間執筆証明の提出を求めます』
映像の下には、すでに各所のコメントが走っていた。
「当然」
「遅すぎる」
「これで文学が戻る」
「人間の言葉を守れ」
「次は出版もやるのか」
澪はそれを横目に見ながら、コートを椅子の背に掛けた。外はまだ冷たかったが、フロアの空気はそれよりずっと乾いていた。朝いちばんの編集部に特有の、締切前の気配。誰も大声は出さない。けれど、誰も落ち着いてもいない。
「見た?」
隣の席から、後輩の三輪が小さく言った。目の下に薄い影がある。昨夜遅くまで、何かの原稿を見ていた顔だ。
「見た」
「うちにも来るのかな。人間執筆証明」
「来るんじゃない」
「ですよね……」
澪は答えながら、机の上に置いたタブレットを起動した。業務システム、共有カレンダー、メール。いつも通りの並びに見えるのに、今日は妙に心拍が高くなる。画面上部には、社内一斉通知の未読が一件。
【重要】AI痕跡検査運用開始のお知らせ
件名だけで胃が少し冷えた。
クリックしなくても内容は予想がつく。投稿原稿、校正ログ、修正履歴、執筆補助ツールの使用有無、外部生成支援の痕跡。運用担当は編集部ではなく、管理本部と法務だろう。誰がいつ、何を、どの経路で書いたのか。手元の言葉が、どこかから来た言葉と混ざっていないか。
澪は一度だけ目を閉じた。
自分の過去には、見られたくないものがある。
ゴーストライターの仕事。名前の出ない原稿。見本誌にも載らない打ち合わせ。さらにその前、まだ業界に入る前に、文体模倣AIのチューニングを手伝ったことがある。学習データを整え、出力を人間らしくするためのパラメータをいじった。あのころは、それが仕事になるとは思っていなかった。ただ、文字をきれいに並べる感覚が好きだった。
好き、という言葉は少し不正確かもしれない。
文字が整うと、世界の輪郭も少し整う。それが面白かったのだ。
「朝倉さん」
振り返ると、フロア奥の会議スペースにいた部長の石堂が、手招きしていた。四十代半ば、いつもネクタイだけは律儀に締めている男だが、今日はその結び目が少し歪んでいる。
会議スペースのガラス越しに、外の通路が見える。そこにはいつのまにか、三人ほど立っていた。黒いジャンパー、白い腕章、紙のプラカード。まだデモの規模ではない。だが、表に出ないはずの熱が、もう建物の内側まで入り込んでいる。
「外、見たか」石堂が言った。
「ええ」
「NOVA-ARKの件だ。今朝から問い合わせが止まらない。うちも、取引先に説明できる材料が必要になるかもしれん」
「AI痕跡検査、ですか」
「そうだ。全原稿を対象にするわけじゃないが、少なくとも外部支援ツールの使用履歴は確認する。来週までに方針を出す」
澪はうなずいた。
うなずくしかなかった。
会議スペースの薄いテーブルに、石堂は紙を一枚置いた。社内配布用のドラフトだ。
「制作物の真正性を担保するため、必要に応じて執筆過程の透明化を求める――だってさ。言うのは簡単だ」
「人間が書いたって、証明できるんですか」
「できると思ってる連中はいる。たぶん、本気で」
石堂は苦く笑った。
「俺は、文章の出来と人間性は別だと思うがね」
澪は、その言葉に少しだけ救われた気がした。だが同時に、別の痛みも走る。出来と人間性が別だとして、では何をもって人間の仕事を守るのか。苦労か。時間か。手書きの跡か。ミスの数か。
もし価値の根拠がそこにあるなら、速く上手く書ける人は不利になる。支援ツールを使って書いた人は、たとえ思考のほとんどが自分の中にあっても、疑われる。そういう社会が、ほんとうに人間を守っていると言えるのか。
昼前になると、フロアのざわつきは別の方向へ流れた。
ビルの下でデモが始まったのだ。
窓際に人が集まる。誰かがスマホを持ち上げる。画面越しに見える横断幕には、太い黒字でこう書かれていた。
機械文学を買うな。
人間の言葉に金を払え。
汗のない作品に価値はない。
澪はガラスに近づきすぎないようにして、その光景を見た。コールは整っている。少人数なのに、練度が高い。先導役の声はよく通る。別の会社員たちも、エレベーターホールの隙間から覗き込んでいた。
「けっこう本気だね」三輪が言った。
「本気だよ」
「でも、AI使ってたのって、あくまで補助でしょ。誤字直したり、要約したり」
「そういう場合もあるけど、中には全文書かせてしまうこともあると思う」
「そんなことしたら、すぐばれるでしょ。ばれるような書き方してて、何が楽しいんですか」
「楽な方法を知ったら、人はどこまでも楽をしたがる。たぶん私たちも例外じゃない」
「だったら、なおさら線引きして、『使ってない証明』を出してもらうしかないってことですか」
三輪の声は素朴だった。だからこそ痛い。
文章の現場にいて、ITリテラシーも高いはずの三輪が、まずそう思う。
その事実だけで、問題の輪郭は十分に見えてきた。悪意の有無より先に、問いが「どこからが不正か」から「何を提出させれば安心できるか」へずれていく。
澪はすぐに答えられなかった。
怒りは、必ずしも対象の大きさに比例しない。奪われるかもしれないものが曖昧であるほど、人は過剰に反応する。自分たちの足場が、どれだけ機械に寄っていたのか。わからないまま使っていた者ほど、線引きと提出を欲しがる。
誰かが安心するために、誰かが切り捨てられる。
それが制度になる瞬間を、澪は何度か見てきた。
昼休み、彼女は社外のカフェに逃げた。店内の会話も、ほとんどがNOVA-ARKの件だった。カウンター席では、若い編集者らしい男が「これで新人作家の水準が上がる」と言っている。向かいの女性は「上がるんじゃなくて、ふるい落とされるだけ」と返した。
窓の外、歩道を通る人々の中にも、腕章をつけた者とつけていない者がいる。
澪はホットの紅茶をひとくち飲み、タブレットを開いた。仕事用ではない。個人のメッセージアプリだ。通知は少ない。もともと派手な人間ではないし、最近は誰かと深くやりとりする余裕もなかった。
未読が一件。
差出人は、知らないアカウント名だった。
《あなたの原稿履歴を知っている》
それだけ。
続きはない。
送信時刻は、今朝の七時四十四分。
澪は、指先が冷たくなるのを感じた。メッセージを開いたまま、しばらく動けない。相手のプロフィール画像は空白。タイムラインも空。IDは意味のない英数字の羅列だった。だが、たしかに届いている。
原稿履歴。
頭の中で、その語がいやに重く響いた。履歴という言葉は、本来ただの記録だ。けれど今は、証拠の匂いがする。誰かが、過去を掘り返すために待っていたような匂いが。
そのとき、さらに一通、通知が来た。
添付ファイルあり。
件名なし。
差出人は、さきほどと同じ。
澪は一度だけ息を止め、それから開いた。
画面に表示されたのは、短いテキストと、ひとつの日時だった。
《明日、社内の誰かがあなたを売ります》
その下に、たった一行。
《先に話したほうがいい》
店のスピーカーから流れる環境音が、急に遠くなった。
澪は紅茶のカップを置いた。指先がかすかに震えている。
誰が。
何を。
どこまで。
問いだけが、静かに増えていく。
窓の外では、まだデモの声が続いていた。
人間の言葉に金を払え。
その叫びは、正しいようにも、危ういようにも聞こえた。
澪は画面を見つめたまま、次の通知を待った。
そして、来た。
今度はメール。
件名は、もっと短かった。
【内部告発の準備があります】




