5.『見合い』の三文字
視線の先に、彼女が見える。距離があるはずなのに、淡い香りが鼻を掠めた気がした。
――あり得ない距離感で香る、甘い香り。
僅かに細められた彼女の目。その隣に立つ男の手の動きも、悔しいくらい全部見える。そして……彼女の前に立つ男が、穏やかに笑っている。距離は近すぎないし、礼節も守っている。何も問題はない、ただの正しい距離。
……それでも。
「……っ」
胸の奥を、何かが強く引き裂いた。見たくもないのに、男の手が、ほんの軽く彼女の肩に触れただけ。たったそれだけのことに感情を抑えきれない。社交の範囲だと、咎める理由などどこにもないと、分かっているのに――
奥歯を強く噛み締めた。
「……は?」
喉の奥から低く掠れた声が漏れて、口の中が嫌に乾いている違和感。
――嫌だ。
あれに触れるな。
それに触れるな。
彼女に、触れるな。
「……っ、くそ……」
――番いなんて、いらない。そう言ったのは、自分なのに、どうして……どうして、あの距離を許せないんだろう。
どうして、あの手を叩き落としたくなるのだろう。
「……触るな!」
――そこで、はっと息を呑んだ。
薄明かりのベッドの上で、天井に手を上げている自分。
「……夢……?」
汗をかいた額に触れて、現実で良かったと思うべきなのか……離れて楽になると思っていた安直な自分の心に、呆れるべきなのか。
夢の中でさえ、あんな声を出すなんて――
「情けない……」
そう口にしながら、窓を一つ大きく開けた。入り込んでくる冷たい空気を浴びて、頭を冷やした。
「ソイル、いるか?」
返答が返ってこないほど、早くに目を覚ましたようだったが、どうせもう眠れない。支度を済ませ、山積みになった仕事の山を、一つずつ片付け始めた。
開けた窓から、朝日が差し込み始める時間――
「エイキ様、今日は随分早起きですね」
「……ソイルか。今日の分は終わってるから一人にしてくれ」
「珍しいこともあるんですね。そういえば、ウェルガリアに置いてきた諜報の報告なんですけど」
「ウェルガリア……」
「お見合いするらしいですよ」
「誰が」
「リゼ様が」
「リゼ……」
勢いで呼んだ、彼女の名前。
――そして、見合いの三文字が重くのしかかる。
「……そうか」
短く返した声は、驚くほど平静だった。そのくせに、書類に落とした視線が、まるで文字を捉えてくれない。
――他の男と、結婚……。
夢の中で見た光景が、嫌に鮮明に蘇る。肩に触れた手、距離、そして笑み。
「……っ」
ペン先が、紙を強く引っ掻いて、滲んだインクがじわりと広がった。
「……エイキ様?」
「……なんでもない」
彼女が誰と会おうと、何を選ぼうと……関係ないだろ。
「……見合いか」
「良縁だと良いですね」
「……そう、だな」
――ボキッ……
手元の筆が、音を立てて真っ二つに折れた。壊れた物は二度と直せない、使い物にならない筆を見て自分と重ねるなんて情けない。
「ウェルガリアに行ったことが、無駄とは思いませんけどね」
「何故そう思う?」
「陛下は、嬉しそうに書簡を――」
「送ったのか!?」
僕の変化に気付いて、誰か報告したとしたら――
「番いですからね」
「…………最悪だ」
思ってる以上に低い声が、溢れた。
自分で突き放したくせに。
関わるなと言ったくせに。
――そんな自分が、一番どうしようもない。
***
「リゼ、陛下からのお呼び出しだ」
「陛下……?」
「何でも、至急登城してほしいそうだ。支度してきなさい」
「分かりました」
侍女シェリルの手を借りながら支度を済ませ、急足で馬車に乗り込んだ。
お城の入り口には、待ち構えていたように数名の官吏が立っていて、謁見の間を通り過ぎた後、一般の客間に通された。
「陛下、御前失礼致します」
「おぉ、待っていたよ」
最近特に感じる、独特なインクの香り……思わずテーブルに置かれた書簡に視線を移した。そこに押された、スウィーデンの刻印――
「察しが良いようで助かる」
「……私に関することは、分かります」
「そうだ。結論から言おう。リゼ嬢、お前にスウィーデン王国から正式に、エイキ第二王子の婚約者候補として打診が来ておる」
――最悪だわ。
息の仕方を忘れたみたいに、胸が詰まってしまう。会わなければ関係ないと思っていたのに……。あんな風に突き放された相手の名前が、こんな形で目の前に差し出されるとは思ってもみなかった。
「驚くのも無理はない。だが、これは両国にとって非常に意味のある話だ」
淡々と続けられる言葉。
「先方は確定ではなく、あくまで候補としているそうだ。つまり、リゼ嬢の意思も尊重される」
……そんな綺麗な話じゃない。ここまで整えられた時点で、断れる余地なんて限りなく薄い。
「返事は急がなくていい。が、あまり時間もない」
久々に聞いた、大人の矛盾。
“僕は貴女を選ばない。だから、貴女も僕を選ぶな”
そう言ったくせに……どうして今更、こんな形で関わってくるの?
「リゼ嬢」
「……少し、考える時間を頂けますか」
「あぁ、構わん」
それ以上は何も言わず、深く一礼して部屋を後にした。
「……はぁ……」
廊下に出た瞬間、張り詰めていたものが一気に崩れるように深い息を吐き出した。落ち着こうとしても、無理。
あの距離。
あの声。
触れられそうになった、あの瞬間。
「ふざけないでよ」
……もう良い。こんな形で選ばれるくらいなら……自分で選んであげる。




