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『香りの招待状』  作者: 西崎小春


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第1話「三度目の来訪」

桐生 恒一は、自分がどこへ向かっているのかを、地図で確認したことがない。

スマートフォンの地図アプリを開けば、いつも通りの東京が映るだけだ。

駅、コンビニ、居酒屋、終電の時刻。どこにでもある情報。そこに、あの場所は一度も現れない。

それでも、迷わない。

理由はわからない。 わからないまま、歩けてしまう。

そして——そういうことは、ここでは考えない方がいい。

その日は、いつもより遅い帰宅になった。

会社の会議は伸び、上司の言葉は回りくどく、帰りの電車はやけに混んでいた。

吊革を掴む指先が痛くなるほど、車内の空気は重かった。

斜め前に、スマートフォンを大きな音で流す若い男がいた。

イヤホンもせず、笑い声を漏らしながら動画を見ている。

周囲の視線は刺さっているのに、本人は気づかないふりをしている。

桐生の胸の奥で、熱が上がった。

——こういうやつは、痛い目にあえばいい。

そう思いかけた瞬間、桐生は口を結んだ。 思考の手綱を、わずかに引く。

「約束」を、思い出したからだ。

誰かの不幸を願わないこと。 声に出さなくても、心の中でも、それは同じ。

……馬鹿げている、と最初は思った。

だが、守るのが難しいほど、約束は効く。 効くからこそ、難しい。

桐生は視線を落とし、息を整えた。 男の動画は、まだ鳴っている。

それでも桐生は、願わないことを選ぶ。

——あの人にも、事情があるのかもしれない。

——そう思えるほど、俺は強くない。 ——でも、願わない。今日は。

ほんの数秒、胸の奥の熱が引いた。

その瞬間だけ、車内の匂いが変わった気がした。 甘くもなく、重くもない。

言葉にできない、微かな香り。

すぐに消えた。 だが、桐生はそれを確かに感じた。

駅を降りる。

人波はいつものように流れ、いつものように割れ、街はいつもの夜の顔をしている。

ネオンの光、タクシーのテールランプ、コンビニの白い蛍光灯。

桐生は、その“いつもの”から一歩だけ外れる角を曲がった。

雑居ビルが立ち並ぶ路地。飲食店の匂いが薄れ、代わりにコンクリートの湿った匂いが増えていく。

電柱の影が長い。風が冷たい。

そして、古いビルの脇に、地下へ続く階段があった。

看板はある。 だが、そこに書かれた店名は——読めないのではない。

読めるのに、頭に入ってこな

い。目は文字を追うのに、意味が滑り落ちる。

ただ、「B1」という表示だけが、残る。

階段は狭く、壁は灰色で、足音が反響した。 一段、また一段。

降りるほどに、街の音が遠くなる。 代わりに、自分の呼吸がはっきり聞こえる。

踊り場。

そこに、黒い扉があった。

看板はない。 店名もない。 ただ、扉の中央に——金色の蝶が一羽。

金属のプレートなのに、生き物のように見える。 翅の縁は薄く、光を吸っている。

そして桐生は、その蝶が、淡く光っていることに気づいた。

入室中。

誰かが、すでに中にいる。

三度目の来訪。 初回のあの雑居ビルの扉とは違う。 二度目とも違う。

それでも桐生は迷わず、蝶の下の取手に手をかけた。

扉は重くない。 だが、軽くもない。 手のひらに、きちんと「境界」の感触を残す。

静かに押すと、音もなく開いた。

中は、別の空間だった。

黒と金。 それだけのはずなのに、暗くない。

天井は高い。ホテルのロビーより高いが、神殿ほどではない。圧倒ではなく、余裕。

声を出すのが少し惜しくなる高さ。

床は、御影石を敷き詰めたような黒い石だった。光を受けて、金の粒子がわずかに浮く。

なのに、冷たくない。足裏に伝わるのは、人肌のような温もりだった。

桐生は一瞬、足を止めた。

石が温かいはずがない。

——考えるな。

そう言い聞かせて、歩き出す。

廊下の左右に扉が並ぶ。十ほどあるように見える。だが、光っている蝶は三つだけだった。

残りの扉の蝶は暗い。眠っているように静かだ。

それでも、圧迫感はない。 むしろ、扉が多いほど、空間に“余白”がある。

廊下の奥から、足音がひとつ近づいた。

現れたのは、女だった。

美しい、と思った。 まず、それだけが頭に残る。

髪は艶やかで、肌は白い。顔立ちは整いすぎるほど整っていて、

どこか現実味が薄いのに、目だけはやけに現実的だった。視線が、こちらの内側を見ている。

年齢はわからない。二十代にも見えるし、三十代にも見える。照明のせいかもしれない。

だが、それだけでは説明できない。

彼女は微笑んだ。

「お待ちしておりました」

声は小さい。 けれど、よく通る。

桐生は名を尋ねようとして、やめた。 前回も、同じように思った。 そして、同じようにやめた。

ここでは、名前は重要ではない。

彼女は桐生に近づき、廊下の扉を指した。蝶が淡く光る扉のひとつ。

「こちらへ」

桐生は頷き、その扉へ向かった。 蝶の光は、ただ灯っているだけなのに、

なぜか“息をしている”ように見えた。

扉の前に立つと、彼女が静かに言った。

「……約束は、守られていますか」

桐生の胸の奥が、わずかに揺れた。

今日、電車で思いかけたこと。

あれは——「願っていない」と言い切れるか。

一瞬でも、願いの影が落ちたのなら、それは破りかけたのではないか。

桐生は、嘘をつきたくなかった。 だが、正直すぎるのも違う気がした。

彼は短く息を吐き、答えた。

「……まだ、完全じゃない」

彼女は、否定もしない。 評価もしない。

ただ、ほんの少しだけ目を細めた。

「それで、よろしいのです」

桐生は戸惑った。 許された気がして、逆に怖かった。

彼女は扉を開け、桐生を中へ通した。

施術室は黒かった。壁も、天井も。けれど暗闇ではない。

金の細い線が、空間の輪郭だけを静かに示している。

ベッドはダークグレー。柔らかそうで、実際に柔らかい。

布が肌に触れた瞬間だけ、人は自分が疲れていたことを思い出す。

そして——窓があった。

桐生は、三度目にして初めてその窓に気づいた気がした。

いや、前もあったのかもしれない。 ただ、見えなかっただけなのか。

窓の外には、東京の夜景が広がっていた。

だが、それは“普通の東京”ではない。

高層ビルの灯りは綺麗すぎた。車の光は整いすぎていた。

まるで、誰かが丁寧に磨いたガラスの中の東京。

彼女が言った。

「どうぞ、力を抜いて」

桐生は目を閉じた。

香りが近づく。 甘いわけでも、強いわけでもない。 ただ、深い。

その香りが、胸の奥の熱をほどいていく。 仕事の言葉、電車の苛立ち、日々の小さな不満。

それらが“自分の外側”へゆっくり移動していく。

俯瞰。

桐生は、ふと理解しかけた。

この場所は——癒しを与えるのではない。 自分自身を、少し離れたところから見せる。

それだけのためにある。

だから、約束が必要なのだ。 約束がないと、人はすぐに元の自分に戻る。 戻るというより、沈む。

桐生は、また一つ思いかけた。

——あのマナーの悪い男が、もしも今ここにいたら。

そこで、止める。 願わない。 選ぶ。

香りが、それを助ける。

それが、三度目の意味なのかもしれない。

施術が終わったのが、何分後だったのかはわからない。

彼女は桐生を廊下まで送り、淡く光る蝶の扉を閉めた。

扉が閉まると同時に、蝶の光が揺れた。

それは機械の点滅ではなかった。

本物のアゲハ蝶が羽ばたいたあと、ゆっくりと翅を閉じていくように

——光が静かに、静かに暗くなっていく。

桐生は息を呑んだ。

その消え方を見てしまうと、 この場所が“ただの店”ではないことを、否応なく認めさせられる。

彼女は何も言わない。 ただ微笑むだけだ。

桐生は頭を下げ、歩き出した。

廊下の他の扉の蝶は、暗いままだ。

だが、どこか一つの蝶が、ほんの一瞬だけ微かに灯った気がした。 桐生は振り返らなかった。

振り返らない方がいい。

それもまた、ここで自然に身につくことだった。

地下の扉を出ると、東京の音が戻ってきた。

車の走行音。 遠くの笑い声。 冷たい風。

桐生は階段を上がり、地上に出た。

ふと、道の向こうに、女が立っているのが見えた。

黒いコート。 髪は暗く、街の光を受けて淡く艶めく。

こちらを見ているようで、見ていないようで——ただ、何かを待っている姿だった。

桐生は、なぜか胸の奥がざわついた。

——あの人も、来ているのか。

確信はない。 だが、そう思ってしまった。

香りが、ほんのわずかに揺れた気がした。

桐生は視線を逸らし、歩き出した。 誰にも説明しない。 まだ、この物語は始まったばかりだ。

そして彼は、三度目の夜になってもなお、この場所の“名前”を知らないままだった。

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