Act3.杖
明音にとってクリスマスが特別な日であった記憶はない。母親の愛はどんな日でも変わらず明音に注ぎ込まれ、彼女の死の後ですら明音の心を満たして枯れることなかった。母親はクリスマスだからといって豪華な料理をこしらえたり、クリスマスツリーを飾りつけたりするようなことはせず、小さな息子との住処を温かく、居心地のよい場所にしつらえることだけに全力を傾けた。それでも時々、幼い可愛い彼女の息子がクリスマスのイルミネーションに目を輝かせたり、ツリーに飾られたジンジャークッキーをほしがったりするときは、臨機応変に優しい態度を示すことはあった。
母親と過ごした最後のクリスマスの記憶は、杖型のキャンディが象徴していた。その年のクリスマスはたまたま休日で、明音は一日中病室に入り浸っていた。母親の病は、その頃には大分悪化しており、長いこと青ざめた顔で夢見るように宙を眺めているかと思えば急に苦しみだし、注射や投薬といったなんらかの処置を受けるとまた夢想状態に戻る、ということを繰り返していた。しかし、調子のよいときは昔と同じように笑ったし、意識を漂わせている時ですら、明音が手を握り返すことは忘れなかった。その日は、神のご加護のためか母親はすこぶる元気だった。明音が買ってきたクリスマスケーキを一緒に食べ、声をたてて笑い、明音の髪をいとおしそうに何度も撫でた。最後の行為だけが明音の胸を苦しくさせた。母さんはまるで、まるで……もう会えない人を見るような目で、俺を見る。
「明音」
足の速い冬の夜が駆けてくる音を聞くと、母親は明音に帰宅を促しながら、紙のような皮膚をした手を枕の下に滑らせた。
「クリスマスプレゼントね、本当は用意したかったんだけど……何も思い浮かばなくて。おじいちゃんとおばあちゃんに頼んで買ってきてもらおうとおもったんだけど。子供っぽいと思うけどこれでいいかしら?」
病院の陰気な蛍光灯がビニールの袋に反射して、明音は一瞬それがなんなのか理解することができなかった。手にとって、それを窓の外の闇に掲げて、初めてその形を認識する。口を赤いリボンで絞った袋に入った杖型のキャンディーであった。
明音は見慣れたものをはじめて手にしたときの物珍しさで赤白の縞模様を眺めた。その怪訝そうな顔をなんと理解してか、母親は少し擦れた声で笑って言った。
「退院したらもっといいものを買ってあげるから、それの引換券ってことでもいいわよ」
明音は慌てて母親の誤解を正そうとして――そしてやめた。不吉な予感が明音の背中を通り過ぎていって、戦慄させた。もしも今明音がこの小さなカラフルな菓子に満足してしまったら、母親はこの明音の幸せを形見に逝ってしまうのではないか。もし、退院したら……卑小で我儘な約束が母親の命を永らえさせるというのなら。
明音の願いもむなしく、母はそれから二か月後にこの世を去った。明音は最後のクリスマスプレゼントのことをすっかり忘れていたが、ある日コートのポケットに大事にしまってあったのを発見して、何も考えないうちから袋を開けてむさぼりはじめた。機嫌の悪い時に飴をかみ砕くのが明音の癖であったが、そのキャンディーははじめから、綺麗な曲線を描いているところから食い千切られた。ぼろぼろと涙がこぼれてきたのは、もしかするとその時が初めだったかもしれない。
今年もクリスマスの季節がやってきて、三宿学園の庭に初めてもみの木が置かれ、それが生徒会役員たちの手によって綺麗に飾られるのを手伝いながら、明音は舌先で転がした飴の破片の感触や、あのペパーミントの味をひそかに思い出していた。ただでさえも母への思いの絶えない日であった。今朝一番のバスで待ちへ下り、母の墓前でレギュラー昇格の報告をした。明音は遂に次の試合に出られるのだ。
「涌水」
昔あんなに欲しがったジンジャークッキーを枝に結び付けていると、大河内孝則の静かな声がした。かしましいサッカー部を優しく取りまとめていたその声は、今や白熱しがちな生徒会の会議すらも淡々と仕切っていた。彼は生徒会議長に選ばれたのである。
「お前にお客さんだ」
「お客さん?」
明音は振り返り、この一年で表情がぐっと柔らかくなったと評判のキャプテンの顔を見上げ、首を傾げた。大河内は平静を装いながらも、その口元が悪戯っぽくゆるむのをあまり隠しきれていなかった。
「まあ、とりあえず生徒会室に行ってみろ」
明音は純粋に客を喜び歓迎する気持ちから生徒会室へと駆けていった。特に素敵な予感がした訳ではなかった。母の死が明音の背後から影を重ねていったときのような、明確な予感はしなかった。しかし、階段を登り切り、生徒会室の扉を恐る恐る開けた時、戸を開ける音に気付いた様子もなく窓の桟に寄りかかり、中庭を見下ろす人の後ろ姿を明音が見間違えるはずがない。明音は驚きと喜びとが胸の中で同時に爆発した音を聞いた。
「慎様!!!」
慎は銃弾のように飛んできた明音をかわした。窓ガラスにへばりつき、そして落ちていく明音の無残な姿も含めて、こういう事態になるだろうことはとうに予想していた。伊達に明音のストーキングを忍んできた訳ではない。慎は窓ガラスの安否だけを確かめると、足元に崩れ落ちた明音を盛大に踏みつけて元は自分のものであった椅子に腰をおろした。明音は踏まれた際、締め付けられた蛙のような声をだした。
「し、慎様……」
「別に歓迎してくれと頼んだ覚えはねぇ」
「お、お久しぶりです……!」
明音のすさまじい生命力は、たちまち明音を立ち上がらせるまでに回復したが、そんなものよりもはるかに明音の回復に貢献したのは、なによりも慎に会えたうれしさだっただろう。明音はきらきらと光る大きな目いっぱいに慎の姿を映しだした。慎は彼の髪と同じ紺色のコートをはおり、片方の手はポケットに入れ、もう一つの手で頬杖をついて神経質そうに指先で顎を叩いていた。顔立ちに関しては、明音が一瞬息を呑むほど父親に似てきていて、尖った美しさを増していた。父親の特徴をほとんど受け継がなかった明音にはその美が羨ましかった。明音は、十分に代わりとなる母親の可憐な容貌を持っていたが。
「し、慎様、でも、一体どうして?」
「勘違いするんじゃねぇ。用事があって寄っただけで、お前のはそのついでだ」
「で、でも、俺に会いにきてくれたんですよね?!」
自然ににやつく口元で尋ねると、慎は溜息をついて「バカかお前は」とつぶやいた。しかし、そのそぶりに、かつては確かにあった突き放すような刺々しさと憐憫はない。再びこらえきれずに抱き着こうとした明音を、慎は蠅を退治する要領で叩き落とした。
「今度俺に触れようとしてみろ。次こそ命はねぇぞ」
「は、はい……」
床にしがみついたまま見上げると、慎の表情を縁どる疲労がはっきりと見えた。しかし、それは心地よい疲労であった。正しく青春を送り、真面目に勉学に励む人の疲れだ。明音はこうしてはいられないことを思い出し、急いで食器棚の方に走っていくと、コーヒーを淹れる準備をはじめた。慎はそれを見て顔をしかめる。
「俺に構うな。お前のコーヒーは十分だ」
「そんなこと言わないでくださいよ!この一年でようやく人が飲めるようなものを淹れられるようになったんすから!」
「……自慢げに言うことか?」
「俺にとっては自慢です!」
さっきからがしゃがしゃと忙しない音をたてている明音の手つきに不安を覚えたものの、慎は結局したいようにさせることにした。その背中を黙って眺めているうちに(明音はコーヒーを淹れるのに精いっぱいでとても口を開けるどころではなかったので)、慎はこの異母弟の夭逝の母親について想いを馳せ始めた。一度も会ったことのない女性。父親の心を奪い去ってしまった、唯一の女性――そして、父。
千住法正の容態が思わしくないことは、一部の人々に知れ渡っている事実であった。父親は必死にそれを隠していたが、森羅万象はクリーム色に包まれていると思い込んでいる彼の妻は騙せても、二人の息子の目は誤魔化せなかった。慎と薫は時々、葬列に紛れ込んだ人のように声を低めて、父の様子を報告しあった。新しく家庭を持った薫よりは、慎の方が父親と一緒にいる機会は多かったが、そうはいっても忙しいハリウッド俳優の身の上である。父との会見は点のように慎の生活に穿たれるばかりで、その度毎に父親は悪くなっていく一方だった。一度だけ、慎は父親にそれとなくほのめかしてみたことはあったが、父親は腫物に触れられるのを嫌がるように、烈火のごとく怒りだしたので、慎はそれ以上何も言えなかった。
「あとどれくらい持つと思う?」
ある日、薫が慎に言った。二人は既に悲しい諦めを覚えていた。父は死ぬだろう。彼に定められた寿命よりもっと早く。
「知らねぇよ。マスコミに隠しきれてるうちは、あと二、三年は持つだろう。だが、精々もって五年ってところだぜ」
「俺も同じ意見だ。父さんさえ嫌がらなければ、無理にでも病院にいれるんだが」
「やめとけ、やめとけ。絶対に聞きゃあしねぇよ。それに、もしかすると、親父の方でも早く死にたがってるのかもしれねぇ」
弟の不吉な発言に、薫の目が戒めるように光った。
「慎!」
「兄貴だってわかってるだろうが?今の親父に生き甲斐なんてねぇ。とりつかれたみてぇに働いてるのだって、そうでもなきゃどうやって生きればいいのか分からねぇからだ……まっ、精々、早く孫の顔でも見せるこったな。あんまり時間はねぇぜ……」
父親の命の砂がひそかに零れ落ちていく中、慎は父親の人生を何度も何度も振り返った。そして、彼の人生の分岐点があの無名の女優との悲恋にあったことを、認めない訳にはいかなくなった――最も、慎は明音への寛大な心で彼女の存在を許してはいたが。しかし、あの女はこんなにも濃く強い色彩を父に与えていたのか。たった数カ月の恋、限られた逢瀬、それだけの奇跡。
もし、父親に明音の姿を見せたどうであろう?ふと浮かんだ気まぐれのような考えが、満更ばかにできなくなってきたのはつい最近のことであった。もしこの世界の中に父親の生き甲斐になるものがあるとすれば、それは涌水明音に他ならない。彼こそは、父と彼の永遠の恋人の、愛の結晶なのだから。
「できましたよ、慎様!」
慎は正確にコーヒーのにおいを探り出して、我に返った。これは驚くべきことだった。なにせ一年前の明音といえば、コーヒーと言って、沼の底をすくってきたかのようなどろどろの緑色の液体を差し出したのだから。
「あ、あぁ……」
そう言って一口含む。確かにコーヒーの味だった。一般的なコーヒーに期待する以上でも以下でもない、何の特徴もないコーヒーの。
「美味しいですか?慎様?」
「まあまあだな」
「えー。それでもまあまあっすかー?」
先ほど自分でようやく人が飲める程度のものを淹れられるようになったといって、その口調は何か。慎は一言言ってやりたかったが、父の命が蛍の光のように明滅する様を思い出すと、ふいに明音に対して悲しいまでの愛情が込み上げてくるのを感じた。なぜこんな気持ちになるのだろう。疲れが気持ちをはやらせるのか。慎はこの夏、せっかく入学した三宿学園大学法学部を退学し、国立名門大学の試験の準備を進めていた。
「慎様?」
明音が不思議そうに首を傾げる。この時、慎の中には紛れもなく父がいた。慎の中の父が、明音を見つめていた。慎は脳を麻痺させる感情が、愛情であることを悟った。慎の口元に何か熱いものが駆け昇ってきて、震える白い唇を割った。
「明音……!」
初めて兄に名前を呼ばれて、明音は驚愕のあまり言葉がでなかった。だが、あんなにも夢見た瞬間を、素直に喜ぶことはできなかった。不意に立ち上がった慎と、その顔を見上げる明音と、二人の間には不明瞭なものが多すぎた。慎は切羽詰まっており、追い詰められていた。明音の名前を呼んだあとで、慎は体から毒が抜けたように座り込み、数秒だけ白痴めいた表情がちらついた。明音はそれに耐えられなかった。
「慎様?慎様?大丈夫ですか?!」
ほとんど叫ぶように明音は聞いていた。慎はその声をうるさいとも言わず、コーヒーを急いで口に運んで頷いた。もう元の慎に戻っていた。
「悪い。どうも疲れてるみてぇだ。今日はもう帰る」
「で、でも、慎様、あの……!」
引き留めたい。正直に体調不良を訴える慎を引き留めるのは、道理に反していると知っていても。聞きたいことがある。なぜ、慎は、兄は、唐突に自分の名前を呼んだのか。明音の名前を呼んだ時、慎の瞳にいた人は一体誰であったのか。しかし、明音はその正体を知るのが、同時に恐ろしかった。
コーヒーをいっきに飲み干して生徒会室の出口まで進んでいった慎は、ふと、思い出したように立ち止まった。明音の胸に一瞬期待が膨れ上がった。しかし、慎はただポケットに入っていたものを投げつけるためにそうしただけだった。
「あっ、あの、慎様、これ……!」
「レギュラー昇格祝いだ。ありがたく思え……そんなもので悪かったな」
「……!」
どうして人は皆、同じものを明音に寄越すのか。ペパーミント味の赤白のストライプ。儚い命の支えにさえもならない杖型キャンディー。また明音の歯に噛み砕かれて、溶けていく。それだけの……