第三十八話 水晶の夢・後編
「うちの神社の近くに林があってさ。小さい頃はよく近所の子供とか、菜月とかと一緒に遊びに行ったんだ」
語る颯の傍らで、篠木山展望台のマスコットキャラクターのキーホルダーが揺れている。
「この間、たまたまその時一緒に遊んだグループに再会したんだけど、男の子がね、一人だけいないんだよ。あの子はどうしたのって聞くけど、誰も知らない。その子の存在を覚えてはいるんだけど、名前は愚か、どんな子だったのかさえ思い出せない。あの頃の写真を見てもどこにも写ってないんだ。それからずっと考えてる。彼は実在の人物なのか、霊魂の類なのか。それとも僕たちが勝手に作りだした架空の人間かって」
三宿の町にはネオンが眩しい。崖の上の学園は随分と寂しいものだ。紙コップにそれぞれの飲み物を入れて、それぞれ夜景を――慎は学園を、茘枝は海を、陽は町を――見つめていた他の生徒会役員たちは、何も答えられないでいる。沈黙を破ったのは、ふとキーホルダーを手にして颯が呟いた一言だった。
「これ、いくらだろ……」
***
「待ってて!必ず迎えに行くから!今度は僕が助けに行くから!」
「それでも僕は行かなくちゃ……!」
「乃亜」
恐らく息子の方に呼びかけているのだろう。はい、と返事をすることにノアは時々戸惑う。自分は志水乃亜であり、また同時に有瀬ノアである。どちらかを否定すれば同時にもう片方ではなくなってしまう。心もまたさまよい続けている。乃亜とノアの間を。自分は一体何者なのか。激しい痛みと苦しみの中、ノアは考え続けていた。悶えるより、吐息を荒げるより、ずっと楽で熱中できる仕事であったから。答えのない問いを投げかけ続ける。それはまるで底のない海に沈んでいくように。
志水晶が柱に触れると、ノアを縛りつけていた鎖は潰え、ノアの体はゆっくりと柱に沿って滑り落ちた。背中を苛む痛みが消え去っても尚ノアの顔から苦悶は消えなかった。それどころか、ノアは一層辛そうに表情を歪めて、息を乱した。父親はそんな息子の前にしゃがみこむと、驚くほど冷静に、静かに口を開いた。
「苦しいか?」
「はい……」
「もう少しだ」
「はい……」
立ちあがった晶の目と座りこんだままのノアの目が、同じものを捉えた。まだ襲いくる強烈な痛みに耐えながら、必死にこちらに歩いてくるクリスの姿だった。クリスの顔はノアに見えなかった。ちょうど先ほどノアが前髪で自分の表情を覆ったように、クリスも汗でへばりついた前髪に青い瞳を隠していた。見えるのは堪える口元だけだった。倒れかかっては支え、倒れかかってはまた支え、その連続で少しずつクリスは体を引きずってくる。そこから受ける印象は父と子でまるで違うものであった。
クリスがようやく二人の場所に辿り着くと、志水晶はそっと後ろに退いてクリスのために場所を空けた。その判断は正解であった。渾身の力を振り絞って歩いてきたクリスは、ノアの前に倒れ込み、それからほとんど気力だけで起き上がって床に打ちつけた頬をノアに向けた。
「クリス様……!」
「ある……せ……」
クリスが右手で前髪を払った時、クリスの目には涙が光っていたが、それは決して痛みだけが作った結晶ではなかった。そんなものは、汗だけで十分だったから。その瞳で、クリスはノアをじっと見つめた。サファイアと煙水晶、海と灰、その間でどんな言葉が交わされたか、傍からは知る由もない。だが、確実にノアは宝石を揺らした。
クリスは握りしめた左手をそっと持ち上げて――クリスにとってはこんなにも些細な行為でさえ、震えずにはできなかったのだが――ノアの掌の上にあてて開いた。何かが押し付けられる感覚に、ノアははっとして身を強張らせ、晶に気づかれぬよう、視線だけで手の上を探った。指輪が二つ。片方はチェーンに繋がれてネックレスになっている。水晶との婚約指輪だった。
「有瀬……」
見つめ返すノアの目がまた揺れる。あれはまだ季節の香る頃。三宿学園にまだ秋の彩りがあった頃。何もないクリスの左手にノアは泣いた。お互いに肩を濡らしあった。そして、あの時と同じ決断をクリスはもう一度――
「友達を置いて、勝手に一人でどこかに行くなよ!」
そんな叫びが聞こえた気がした。
今度は反対の手で、ノアがクリスの手を取って、自らの首の後ろに持っていった。クリスは指先でワイシャツの上からわずかな膨らみを感じ取った。クリスはにこりと笑った。
「クリスさ……」
優しい口づけがノアの言葉を遮る。限りなく温かく、そして悲しいものに包まれながら、ノアはクリスが指輪を通した紐を解いて手の中に収めるのを確かめていた。瞑った目の先に懐かしい匂いがした。二人の距離が元に戻ると、ノアはただ一度、大きく頷いてみせた。その時、水晶の部屋の上で鐘が鳴り始めた。
「時間だ」
志水晶は何の感慨もないように呟いた。振り返るクリスの目にもやはり感情はなかった。敵意も憎しみもない代わりに、尊敬も愛情もおそれもなかった。鐘の音に塔はこれほどまでに動揺しているにも関わらず。志水晶は今、ガラスのない窓の枠に腰かけて右手に筆をもてあましていた。すぐ外を吹き荒れる風も彼には無意味なようだ。彼は襟元すらも乱れていない。
「君が乃亜の苦しみを理解してくれたことを嬉しく思うよ、クリス君。じゃあ、ほんの暫くの間……その後は永遠にさようならだ」
晶の姿が消え去ると、頭上の水晶がふいに暴走を始めた。水晶のあらゆる面から光が放たれ、水晶のあらゆる面に反射して、部屋に、そして夜に乱舞する。何もかもが真っ白になっていく。クリスとノアは顔を伏せたが、その中でクリスは固くノアの手を握っていた。しかし、やがて、流れ込んできた水が二人の手を引き裂いた。
***
クリスは水の中でそっと目を開けた。最初に見えたのは、口から零れ出るいくつかの泡、そして上から注ぎこんで水泡に煌めく銀色の光だった。見上げる水面は遠のいていく。今度はクリスが沈んでいくのか。でも、関係ない。ノアさえいれば。二人で一緒に水面にあがればいいだけだ。
ノアの姿を水底に求めて、クリスは群青の帯の奥から浮かんでくる彼の姿を認めた。その途端、クリスの胸に湧き上がってきた思いは――やっと会えた。やっと見つけた。涙が水に溶け込んでいく。やっと取り戻すことができるのだ。ここに置き去りにしてしまったもの。紛れもない、もう一人の自分に。
口元を緩めてクリスは腕を伸ばした。指先から手繰り寄せて、その体ごと抱きしめるつもりだった。しかし、ノアは、クリスの微笑みにも、差しのべられた手に応えようともしなかった。二人の体は青の世界で擦れ違う。笑いを崩したクリスがノアの思惑に気づいて急いで握った手を、ノアは振り払って拒んだ。そうして初めて、ノアは不思議なほど穏やかな微笑を浮かべることができた。
「有瀬……!」
「クリス様……」
「どうして……?!」
ノアは自分の手を抱きしめた。そこにあった温度を、その温度に込められた想いをいとおしむように。それは、クリスの焦りにはあまりにも似つかわしくない、祈りのように安らかな行為であった。
「さようなら、クリス様……貴方に会えて、よかった」
ほんの少しの余韻だけ残して、ノアは強く水を蹴って水面の波に消えた。呆然とするクリスも、変わりゆく水の色にはっとしてノアの後を追った。自分を引き寄せる力にあらがって、何度も何度も水を掻いた。
頭が海面を突き出ると、そこは季節のない星の夜で、緩やかな波がクリスの背中を花咲き狂う丘に打ちつけた。クリスは這いあがって膝をついた。慄くほど沢山の星が空を埋め尽くす夜、クリスはようやく呼吸と五感を思い出して呼吸をし、重く冷たい体を百合煎の丘の上に横たえて、制服に染みこんだ海水を白い花弁の上に跳ね飛ばしているのであった。
本当は今すぐにでも立ちあがってノアを追いかけたいのだけれども、生身の体はそれを許してくれそうにもない。息を整え、寒さに震えながら、クリスは墓石の白さが闇の中にうっすらと浮かび上がるのを見つめていた。一番手前の墓が、志水律と乃亜の墓であった。
行かなきゃ。まだ肺が正しく機能していないにも関わらず、クリスは唐突に思った。行かなければいけない時に体が動かないなんてことがあるはずがない。そんな無謀な声がした。クリスは近くの百合を一つ手折って立ちあがった。クリスの腕をとってくれる人がいた。見えなくとも、ここに眠る人たちが近くにいるのを感じた。ありがとう、とクリスは小さく言った。両親も、まだ若き母親もきっと頷いてくれただろう。彼らの力をもらって、クリスは走り出した。夕方と同じだった。ただ、ノアのために。塔に向かって。
濡れたズボンが足に纏わりついた。重すぎるブレザーは脱ぎ捨てた。それでもワイシャツが背中や腕にひんやりと冷たかった。クリスが走れば星空も巡り、百合の花も数を変えた。走るのにどうせ役にもたたない上履きは水の中で失ってしまったらしい。靴下の足の裏に、クリスは踏みつぶしていく花と土の柔らかさを覚えた。体のどこが痛もうと、一度ノアの苦痛を知ったクリスには、新しく一歩を踏み出すのを恐れる言い訳にはならなかった。誰もいない電車が海の上を、クリスの横を滑っていく。その音が消えた瞬間に、水晶の塔は忽然と目の前に現れた。
薔薇の彫刻が施された門に両手をあてると、鐘の音を待つこともなく扉は開いた。螺旋階段を駆け上がる足の指先が、送り込まれる血と熱と、踏みしめる階段の冷たさに困惑してよろめく。足が宙を踏み、クリスは二度三度と転倒し、顔と体に傷を作った。部屋の入り口がいよいよ間近になってきた後で、疲れ切った足首が段差に絡み、クリスは手もつけずに顔を打った。口の中に拡がってきた血の味をのみこんで、クリスはふらふらと立ちあがる。さすがにもう駆け上ることはできないけれども、一歩一歩を進んでいく。自分の鼓動と呼吸がうるさかった。到るところにできた傷に、潮水が滲んだ。何もかもを振りきるように、クリスは大事な人の名前を呼んだ。
「有瀬っ!!」
叫んで水晶の部屋に転がり込む人があった時、ノアは振り向くことを恐れた。ノアは柱の足元にいた。自分の使命を果たそうとしていた。全てはクリスのためなのだ。でも、クリスに知られる訳にはいかない。きっと止められてしまうから。ノアは右ポケットに手を突っ込んだまま、かつてない恐怖に襲われていた。きっとこれ以上はない葛藤だった。早く済ませなければ。でも……
後ろから両腕を掴んだ手がノアを凍りつかせた。ああ、終わりだ。見つかってしまった。ぐずぐずしているからこういうことになるのだ。計略は失敗に終わった。何もかもを、ここで終わらせるつもりだったのに。絶望するノアの肩に、濡れた顔がもたれかかってきた。違うとノアは気づいた。これは父親ではない。彼の体重に圧されるまま一緒に床に崩れ落ちて、ノアは膝の上に親友のボロボロになった姿を見た。
「あ……ある……せ……よかった……間にあって……」
切れた唇が作る微笑みを見た時、そして息を吸った時、しっとりと、しっかりとノアの内側は湿ってきた。ノアはもう耐えられなかった。縋りつくように、ノアはクリスの肩をぎゅっと抱いた。
「クリス様!」
「有瀬……」
「どうして?!……どうして僕のために、こんなに……」
クリスはそっとノアの頬を包んで見えるようにかざし、自分は床の上に横になって言った。
「いつか迎えにいくって約束したよね?」
「はい……」
いつか二人で交わした大切な思い出。二人の記憶が、心が交差する地点。
「遅くなって……ごめん」
「……はい……っ!」
仰向けになったクリスの胸の上にノアは顔を寄せて泣きに泣いた。そんなノアの頭を、クリスは優しくぽんぽんと叩き続けていた。水晶から放たれた二人。彼らがお互いをどんなに愛し、どんなに求めているかについて語るために、何も憚ることはなかった。何も。後から後から落ちてくる涙に区切りをつけようと、ノアが顔を上げた時も、クリスはノアの顔をそっと指で拭ってやった。
「僕は死んでもよかったんです。僕は最初から死んでいたんだから。そうしたら、志水乃亜の魂も貴方の影も元に戻ったのに。どうして貴方は邪魔をするんです……?」
真顔になったクリスは、ノアのズボンのポケットをまさぐった。冷えて真っ赤になった指が案外すぐにとりだしたのは剃刀だった。ノアは「あっ」と声を漏らしたきり、罪を恥じる人のように顔を伏せた。クリスは何も言わなかった。
クリスはノアの肩に手をかけてゆるやかな動作で立ち上がると、床に腰をおろしたノアの手を自分の手で抱きしめた。一緒に過ごした日々に何度もそうしたように。もうノアが逃げ出さないことを確認して、クリスは一つ息を吐き、右手に持つ剃刀を高く高く宙に放り投げた。剃刀は天井の突き出す水晶の先端に引っ掛かり、その傷はシャンデリアの全体に、やがては柱にまで及んだ。ひびが床に達した瞬間に、虚構の世界は崩れ始めた。それを成り立たせていた絵が切り裂かれた、その瞬間に。水晶は殺された。
水晶の欠片が二人に向かって降り注いでくる。狂乱の光が二人を包む。共犯者である二人に、せめて断末魔の悲鳴を、自らの返り血を浴びせかけるように。まだ涙目のノアに向かって、クリスは静かに笑って言った。
「君の手、温かいね」
「はい……」
「俺の手はとても冷たいだろ?」
「……えぇ」
「ねっ、ほら」
クリスは最後に見られた気がした。ノアが微笑んだ顔を。