第三十六話 主よ憐れみたまえ・前編
夜中に雨が降った。闇の中を忍ぶように降る雨だった。
暗い部屋の中に置かれた鏡が、雨を映して水晶のように煌めいた。千住薫が黒い布でそれを覆うと、忽ち部屋は元の暗闇に戻った。漆黒が肺まで染めるような暗さだった。灯りはなくともベッドの場所は分かる。薫はその上に横たわり、色を失った青い目を天井に彷徨わせた。後少しだと誰かが囁く。後少しで、目的は達成される。
薫は目を細めた。しかし、それは一体誰の目的なのだ?他でもないお前自身のだろう。影が笑う。お前が受け入れた全ては既にお前自身のものだ。お前が欲してそして手に入れたものだ。あの女の髪に、声に、ただ焦がれていた頃のお前に、一体何が出来たのだ?あの女を見す見す死なせた、無力なお前に何が出来た?
苦悶が弾けた時、薫は横にいる人の腕を取っていた。同じ感触がした。あの女の亡骸の前で自らを抱きしめた時と。この中には同じ血が通っている。その腕は怯えたように大きく跳ねた。
「心配するな。いつも通りのことを……するだけさ」
***
「慎様?」と呼びかけられた拍子に左手の中で押し潰した、封筒の中の文字が、頭の中で点滅する。
「コーヒー、できましたよ?」
慎はおずおずと差しだされるカップを受け取って、その中の真っ黒い液体に目をやった。どうやら今日は上手くいったようだ。少なくとも目視できる限りでは、摂取しても健康に害はなさそうに見える。昨日のようにごぼごぼと真っ赤なものが泡立っていたら、その時は中身をぶちまけようと思っていたのだが――もちろん、明音に向かって。小さく礼を言って恐る恐る口に含むと、不味くはないが、決してコーヒーのそれではない味が口いっぱいに拡がった。慎は顔をしかめると、二度と持ち上げないつもりでカップをソーサーに置き、書類の上でペンを滑らした。
「おい、今日の予定はどうなってる?」
「各部活動の決算報告が四時から。それから、今日の代表委員会は森先生の都合で来週の木曜日に変更になりました」
「……そうか」
「あ、あと、生徒の学園外での活動に関する規則の修正案は、副校長先生でなく校長先生に提出するようにとのことです。副校長先生は急遽出張が入ったので……」
一体どうして一般生徒に過ぎないこの少年が生徒会室に出入りして、自分の秘書代わりをしているのか。理由は慎にも分からない。生徒会役員三人が罷免になり、全員が学園を去った。あとは自分一人で静かに悠々と仕事ができるはずだったのに。かつては大いに毛嫌いしていた騒がしい環境に、いつのまにか慣れ切ってしまったのだろうか。だとしたら恐ろしいことだ。人恋しさから明音を側に置くようになったというのは、不服ではあったが、ある程度納得がいった。もう一つ考え当たった理由よりはずっと――まさか、自分は、この少年が半分の血のつながった弟であるから、近くに置いておくのではない。
慎の否定を裏付けるように、明音が異母兄弟であるという真実は、慎の明音に対する愛情を深まらせるばかりか、優しい感情から慎を一層遠のかせていた。兄弟に対する親愛の情を、慎は知らない。世間で思われている兄弟の理想像と、自分と兄の関係は全く違う。兄は弟を翻弄させ、屈服させ、その喉元をきつく鎖で縛りあげる。飴を与えて甘やかしたかと思えば、次の瞬間には鞭をくれる。きっと最終的には殺すつもりなのだろうと、慎は確信している。そんな兄を、薫を、慎は憎む他なかった。憎んで、憎んで、憎み通すしか。頭を、完全に兄の足の下に敷いたまま。
分かるはずもない。明音を弟として認めた時、一体どのように扱えばいいのか。一体どのように愛すればいいのか。頭が痛いのは、決して寝不足のせいだけではないはずだ。
「慎様」
「何だ?」
無駄口は慎めと言ったはずなのに、命令をまるで聞くつもりのない明音は、仕事中でも平気で自分の名を呼ぶ。しかし、書類に目を落としたままでは返事がないことに気がついて、慎は顔を上げた。明音は、明るい朝日から目をそらすように顔を伏せて、表情を揺らしていた。
「一つ、聞きたいことがあるんです……」
そう言った後でも、明音はしばらく躊躇うように口を開けたり閉じたりしていたが、やがて決心がついたように、でも相変わらず目は伏せたままで言った。
「生徒会の先輩たちがどうして学園を出ていったのか、俺には分かりません。理由を知ろうとも思いません。でも……慎様だけには学園を出て行ってほしくないんです。出て行きませんよね?慎様は、その……学園を置いて、どこか遠くへ行ったりしませんよね?」
話が流れて行くうちから、慎は笑うしかないと知った。そして、明音の質問が終わった時、予定通りに笑った。だが、作るのに時間がかかったその微笑みが、予想以上に優しいことに気がついた時、慎はいつもの高慢と余裕を以ってこう言い放った。
「いちいち、くだらないことを聞くな。当たり前だろうが。俺が自分の職務を放り出してのこのこ逃げられるかよ」
「そうですよね」と明音も笑った。左手の中で隠すように丸めた封筒が、もしくはその中身が、慎の手の平に突き刺さっていた。
石崎・エーリアル・クリスをこの学園から追放せよ
さもなければ、貴殿の学園内での地位、名誉、友人などの全てを保証できぬものとする
「呪いだ。これは、絶対に呪いだ」
「何が?」
教室に入って開口一番不吉な言葉を放った落合にそう聞きながら、来夏の顔に心配する素振りは皆無だった。
「有り得ねぇだろ?いくらなんでも。今日の部活の決算報告、酒本がいないせいで俺が出なきゃいけねぇんだぜ?しかも、代表委員会の方は木曜日に変更って……おい、俺木曜日は大河内とデートの予定なのに」
「あれ、いつの間にかそういう関係に?」
「石崎、気にするな。勝手にそう思ってるだけだから」
「ああ、やっぱり……」
「やっぱりってなんだ、エーリアル。畜生、おい、酒本、戻ってこい!今日だけでいいから戻ってこい!」
窓の外に叫んだところで、行ってしまった人は帰ってこない。絶望する落合を傍目に、クリスとノアはトランプを積み立ててピラミッドを建設し、来夏は洋書を捲っていた。ノアが震える指で加えた一枚が仇となり、ピラミッドはすぐさま崩れた。こんなときでも、ノアは律義に謝る。
「ごめんなさい、クリス様。僕のせいで……」
「そんなに謝らないでよ。仕方ないさ。それにどっちみち、そろそろ片づけなきゃいけない時間だし」
「あっ、ほんとだ。じゃあ、続きは放課後にしましょう」
二人して床やら机やらに散らばったトランプをまとめているとき、ふと二人の手が触れた。それ自体は何でもないよくあることなのだが、クリスはその時初めてノアの存在を認識した気がして一瞬固まった。そういえば、最近自分はノアの目をちゃんと見て話していない。前はイギリスのこの習慣が抜けなくて、恥ずかしがられたほどなのに。そして、クリスは、一見何でもなさそうに思える二人の関係のこじれが(それはクリスだけが感じていたのだが)、やはり最終的に例の絵の問題に帰結すると知って、急激にもどかしい思いに駆られた。あんな問題、聞いてしまえば済む話なのに。今でも聞けばいいのだ。美術室に飾られているあの妖精の絵は君が描いたのか、と。薫さんを見惚れさせ、かの志水晶の筆を完璧なまでに模倣した、あの絵は君が描いたのか、と。
クリスの舌が痺れた。友人をも嫉妬できる自分の浅ましさが、憎くてならなかった。
***
「えっ?元彼に会っちゃったんですか?」
「そうなのよっ!それで、飲みに誘われたから脈ありかなーって思ったのに……!」
「結婚してたんですって。三年前に」
「あら、まあ、お気の毒ねぇ」
「鳥居先生、そんなに落ち込まないで。縁がなかったものはしょうがないわよ」
「でも、でも……!」
「大丈夫ですよ。ジャクソン先生がまた新しい人紹介してくれますって、ねっ?」
「もっちろん。任せといて!」
女性たちの声が、足音と共に高く賑ってまた遠ざかっていく。この学園の事情は何も変わらないように思える。変わったのは恐らく自分だけだ。「校長捜索隊」ののぼりを掲げていた橋爪先生は、校長室に黙って腰かけている自分を見て、驚きながら困惑している様子だった。景気づけに逃走劇を一つ二つ繰り広げてもいいのだが……いや、やはりやめておこう。理事長がいなくなった今、こちらも何か一つ手落ちがあれば首を切られかねない。別に今の地位に特別執着している訳ではないけれども、ひたすら心配なのはこの学園のこと、この学園の生徒のことだ。誰か間に立って守るものがいなくてはならない。「水晶」と生徒の間に。そして、そのために犠牲になるとしたら、自分が最も適任なのだ。あの日の自分の声が、ここに木霊するような気がする。
「僕は断固反対です!なぜそんなものが学園の運営に関わるのです?彼は自分の野望のためには、生徒たちをも犠牲にしかねません!」
「無理だよ、風間。これはね、彼が仕組んだ時限爆弾なんだから。奴はもう僕たちの世界から手が届かない次元で物事を取り仕切ってるの。君や僕に何ができると思う?僕たちは所詮蚊帳の外の人間なんだよ」
三つのノックが校長の回想を遮った。「どうぞ」と呟いて現在の人をやり過ごす。思えばあの日はもう遠くなった。もう十年も昔のことなのだから――自分はまだあの日の憤りを以って立ち向かえるだろうか。「水晶」というこの上もなく強大な権力に。学園をその輝く手の中におさめようとする独裁者に。
「失礼します」
入って来たのは千住慎だった。校長の目が鋭く光ったのは、慎が扉を閉めるために背を向けた一瞬で、慎が振り向いた時、校長の顔は穏やかで寛容な教師の顔に戻っていた。校長はにこりと微笑んで、慎が現れたことに対する嬉しい驚きのようなものを繕った。
「おや、千住君でしたか。一体どうしましたか?」
「はい。例の規則の修正案を提出しにきました」
「そういえば、副校長先生がそんなことを言ってた記憶が。まあ、そこに掛けてください。いいえ、遠慮しないで……しかし、感心しましたね。生徒会の運営は現在たった一人で行っていると聞きましたが、まるで滞りがない。随分と仕事熱心ですね」
「当たり前のことです」
慎は愛想笑いもせずに淡々と言った。校長も「まあそうでしょうね」とさらりと受けた。
「君の仕事には相変わらず狂いがない。正確には、君の後ろについている者とでも言いましょうか……上司という呼び方はそぐわないし、かといって、『水晶』とその名で呼ぶのも憚られますね。彼の正体はそんなに美しいものではありませんから」
有田焼の湯飲みに注がれていく緑茶を見つめたまま、慎は何も言わなかった。この手のことは覚悟していた。四人もの生徒が学園から弾きだされた後で、「まっとうな」教職員としてこの男が何もいわないはずがない。校長の演説は続く。
「自分に歯向かう者は切り捨てる。脅して命令を実行させる。独裁者たちの常套手段です。学園は生徒たちが学ぶところです。誰かが自分の都合のために好き勝手できる場所ではありません。彼の個人的な望みのために、もう既に四人もの生徒が学園を追い出され、もっと多くの人々が苦しみを味わってきた。そんな彼が自らを『水晶』と名乗る資格はありません」
「……修正案を受け取っていただけますか?」
「君はなんのために生徒会長になったのですか?」
原稿の束を突き返されて、慎は初めてまともに校長の顔を見た。そして、直前の問いの意味をようやく理解した。そこに込められた悲痛な響きの理由も。今、風間校長と慎は同じ集団の頂上に立つ者同士として向かい合っている。片方は集団を守るためにその地位におり、片方は集団を支配するためにその地位にいる。守る方が教師で、支配する方が生徒であるとは、何ともおかしな常識への皮肉だった。
「君には守るべき人はいないのですか?傍を立ち去ってほしくない人が、悲しい思いをしてほしくない人がいないのですか?君と一緒に笑ってくる人が?」
校長が何度も表現を変えて求めた人物は、遂に慎の頭の中に見つからなかった。見つけようと試みただけでも評価をしてほしい。ただ一瞬、明音の顔が浮かんだような気がしたけれども、理性がそれを掻き消した。自分は他の生徒以上にあの少年に情を抱いてはいけない。
「受け取っていただけないのなら、これで失礼します」
慎は静かに述べると、修正案の原稿を引き取ってその場を切り上げた。部屋を出て行く時、校長の目がまだ自分を見つめていることを背中に感じながら。
溜息が校長の口から零れ出た。恩人に歯向かう苦しさに胸を満たしながらも、ただひたすら自分の信じる正義のために憤慨した。あの日の苦労は一生報われないのか。「水晶」に苦しめられた人々――その顔を思い浮かべる時、自分をその中に加えないようにいつも気を付けてきた。だが、今この虚脱感の中では……蚊帳の外の人間。紛れもなくそうであるはずの自分が、そしてそうであった他の人々が、なぜこんなにも苦しまなくてはならないのか。
校長は受話器を手に取った。十年前の日、ここで対立した人と、自分の生涯の恩人の声がふと聞きたくなって。
***
昼休みの廊下の奥から慎が来るのを見つけた。慎の普段と何も変わらぬ堂々とした様子が、尋ねたかったことをクリスの口の中に閉じ込めて、躊躇わせた。そんなクリスの葛藤を知ってか知らずか、擦れ違う直前で立ち止まった。クリスの足も自然にそれに倣った。
「よう、石崎」
「……こんにちは」
生徒会の役員たちが学園を去っているというのに、この人はなぜ平気なのだろう。自分は絶対にそうならないという自信があるからなのか。この人が……生徒会長が、他の生徒会役員を追いやっているという可能性は?有り得ない話でもない。でも、信じたくはない話だ。
「それで、最近調子はどうだ?」
「調子って……」
「絵の方はどうしてる?」
「まあ、趣味で描いてますけど……」
「お前のお友達の方もどうやらそうらしいな」
クリスははっとした。そういえば、颯はクリスとノアとの関係を気にしているそぶりだった。颯が学園を出る前の数日間は特に。なぜこうも生徒会の役員たちはノアのことを気にするのだろう。ノアが理事長の息子だからか。だが、今となっては理事長もその席を追われている。ノアに他のことで執着すべきものはあったか?クリスの脳裏にぱっと浮かんだのは、転校初日に塔の上で見たノアの頬にキスする慎の姿だった。
「有瀬のことが気になりますか」
「それなりにな。元は俺の所有物だ」
「所有物だなんて、そんな言い方は……」
「おっと、つまらねぇことで言い争ってる暇はねぇ。俺はただちょっと挨拶しただけだ。まっ、せいぜい有瀬と上手くやっておけよ。後がどれだけ苦しくなるかは知らねぇが」
慎の態度に思わずかっとしたクリスは、先ほどの躊躇も忘れて去り行かんとする背中に叫ぶように投げかけた。
「何で生徒会の皆さんは学校を出て行くんです?!」
慎の足が止まった。
「偶然なんかじゃないですよね?教えてください。気になるんです……先輩たちは皆、俺に何か聞いた後に出て行ってしまったから……なぜ貴方は平然としてられるんですか?生徒会の皆さんがどんどんと出て行ってるのに。生徒会長、お願いします!理由を教えてください!」
何も不安のない生徒たちが、明るい声で騒ぎ立てながら真横を通り過ぎて行く。二人がもう少し歩けば、掲示板に辿り着く。生徒会役員三名の停学が告知されている掲示板に。今も幾人かの生徒が、部活や授業の連絡をさがしてその前に立っている。彼らは生徒会が壊滅しかけていることに気づけど、それを不思議に思うばかりで何も知ろうとはしない。独裁国家の善良な国民たち――慎の目には、彼らはそう見えた。
「こっちも質問がある」
慎はくるりと踵を返してクリスの方に歩み寄り、妙な馴れ馴れしさだけをこめてクリスの右肩をぎゅっと掴んだ。クリスは慎を睨むだけだった。
「捜し物は見つかったか?」
「俺の質問に答えるのが先じゃないんですか?」
「順序なんてどうでもいい。捜してたものは見つかったのか?」
クリスは息を吐き出して唇を固く結んだ。この人がクリスの捜し物を知っているらしいことは、何となく気づいていた。以前にも言われたことがある。図書館で、「塔の上に行けば、見つかると思ったのか?」と。どこから話が漏れたのかは分からないが、もしかすると颯の完璧な情報網で知ったのかもしれない。菜月によると、颯がその気になれば、その人物の生涯がまるまる分かるというほどらしいから。そんな中でも、クリスはノアを疑うようなことはしなかった。クリスはとうとう打ち明けた。
「いいえ」
「そりゃ残念だったな」
「そう簡単に見つかるとは思ってませんよ。何しろ、存在するかどうかも分からない幻の絵ですから。それでも俺は捜し続けます。まだ時間はありますから」
「美術室にある絵も違うのか?」
生徒会長の手を振りほどこうとしていたクリスは、その言葉を聞いた途端ぴたりと動きを止めた。
「あの妖精の絵はお前が捜してるものじゃねぇのかよ?」
固まったクリスは今、慎の手に自らの手を重ねているような格好になっていた。それだけで十分に妖しげな構図だっただろう。クリスが正面を向いたまま凍っていた顔をゆっくりと上げたため、クリスと背中を屈めていた慎の顔は、あと少しで触れ合うほどの距離まで近づいていた。
「じゃあ、やっぱりあの絵は……」
クリスの声は掠れていた。もう生徒会のことはすっかり頭から消え去っていた。
「あの絵は、志水晶のものなんですか?」
「素人目にはそう見えるな。だが贋作かもしれねぇ。細かいことはプロに訊くんだな」
「じゃあ、あの絵は有瀬が……」
描いたものではなかったんだ。しぼんだ言葉にはそんな続きがあった。震えるクリスの瞳のすぐ前で、慎は不敵な笑みを浮かべた。クリスはそれすら認知することをやめていた。慎はぐっと身を起して、クリスの肩から手を退けた。
「大変だな、画家ってやつも」
視界に戻ってきた周囲から奇特な目で見られないために、クリスはふらついても前に進む必要があった。あの絵はやはり志水晶のものだったんだ。なんだ、何も心配することはなかった。心配って一体何を……?いや、そんなことはどうでもいい。ああ、全ては杞憂だったんだ。これで自分は何もかもから解放された気がする。そして、後はただゴールに向かって突き進めばいいのだ。もうすぐ、きっと、クリスの苦しい旅は終わるはずだ。
クリスは自分の中で芽生え始めた、この学園生活への疲労に気づくほどの気力はなかった。
「あっ、クリス先輩!」
***
久しぶりに明音を招いて食事をするのは楽しかった。ノアはいつもより気合を入れて料理を用意したし、明音の食欲は菜月の魂が乗り移ったのかと思われるほどだった。テレビでは、ちょうどホウセイ・チズミ主演のドラマをやっていた。今日クリスを散々惑わした人の父は、今や天才刑事になって、様々な攻撃を掻い潜ってマフィアのアジトに侵入しているところであった。テレビから聞こえる銃声も、明音の楽しげな笑い声も、お茶を注ごうとするノアの気配りも、クリスはどこか遠くにいるような心地で見つめ、訊いていた。自分はもうこの世界の人ではないような、モニターの向こうから二人を眺めているような、そんな心地だった。
「やっぱり、かっこいいなぁ!さっすが慎様のお父様!」
明音は自分の父親とは決して言わなかった。
「明音君、こっちのグラタンも召しあがってくださいね」
「あっ、もちろん頂きます!はあ、俺は幸せだなぁ。慎様の秘書として使ってもらえて、こんなにおいしいご飯を食べながら素敵なドラマを眺められて。今が絶頂期かもしれないなぁ」
「あれ、生徒会長の秘書なんてやってるの?」
グラタンを皿の上に山のように盛りながら、明音は頷いた。
「はい!ほら、榊原先輩がいなくなってから、代わりをする人が誰もいなくてそれで俺に……本当は今日の夜も慎様の寮で仕事をする予定だったんですけど、慎様、今夜は家族で食事をするらしくて」
「仲のいいご家族なんですね」
ノアがなんなく言ってのけた発言にも、明音はただ同意するだけだった。
「そうですよ。しかも、家族全員美形で秀才ですからね。すごいなぁ。さすがに敵わないよなぁ」
明音の純粋さがなぜかとても痛々しく見える。そこだけは現実世界と感覚を共有して、クリスはドラマの進行具合を窺った。この賑やかな食卓の目の前で凄惨な場面が繰り広げられている。主人公に、部下であったはずの恋人の女性が銃を突き付けているところだ。明音がはっと息を呑んで、フォークに突き刺していたマカロニを落とした。「なぜ君が?」と主人公が問うと、女性の後ろにマフィアのボスが現れる。恋人であったはずのその人は、マフィアのボスの娘だったのである。
「ごめんなさい……」
恋人役は、ホウセイ・チズミと並んでいても少しもひけを取らぬ女優だった。その大きな綺麗な目から涙が溢れ、同時に銃声が響く。一度目を主人公に向かって撃つ。主人公は倒れる。そして二発目があった。それは、自分の父であるスーツの男に向かって。最後に、三発目を、自分の頭に。撃たれた腹部を抑え、息も絶え絶えになりながら、主人公は女の名を叫んだ。
明音がわっと泣き出したのはこの瞬間だった。一方のクリスは、この悲しいシーンの背後で流れ続けている物悲しい音楽が気になって、思わずノアに訊いてみた。
「ねぇ、この曲なんだっけ?バッハのマタイ受難曲だったことは覚えてるんだけどさ」
「マタイ受難曲39番目のアリア『主よ憐れみたまえ』です……」
意外にも答えたのは明音だった。感心して明音の方を見ると、明音が泣きながら説明した。
「このドラマのタイトルなんっす……うっ……原作小説と同じタイトルで、この曲から付けられたんですよ……あぁっ、ホウセイ・チズミ様が……!」
クリスとノアは顔を見合わせて笑った。音楽は顔を合わせる二人の間にも流れてきていた。それが、予兆だったのかもしれない。
翌朝一番に、クリスは美術室に駆けて行った。鍵はすぐに手に入れることができた。花木先生が冬の朝のコーヒーを楽しみに、早々とやって来ていたので。待ち切れずに階段を駆け上がり、もどかしい思いで鍵を差し込んだ。だが、一度回転してかちゃんとなったはずの扉は開かなかった。元々開いていたのだろうか。疑問に思いながらもう一度鍵を逆方向に回すと、やはり開いた。一体誰が開けたのだろうか。美術部の生徒が閉め忘れて行ったのだろうか。だが、そんなことはどうでもよかった。クリスは一刻も早くあの絵の前に立ちたかったのだ。
妖精は変わらずそこに佇んでいた。夢見るように目を閉じて、細い背中を伸ばし、裸の胸を背景の白に突き出して。透き通った羽を美しい世界の中に広げ、恍惚の全てをこの世界に放つように。そして、クリスと妖精は今、同じ世界を共有していた。クリスの心は震えた。自分は遂に見つけたのだ――
突然、拍手が起こった。たった一人の拍手が、クリスの背後から。現実に引き戻されて振り返ったクリスは、そこに慎の姿を見た。誰かを褒めているとは思えない、勝ち誇ったような、しかしどこか影のある表情をして、慎は美術室の机に腰掛けていた。
「よかったな。捜し物が見つかって」
「どうして、貴方は……!」
クリスが真っ先に覚えたのは、驚きよりも苛立ちだった。しかし、続いてモディリアーニの絵の影から現われた人物が、クリスの感情を何もかもすっとばしてしまった。その人は、朝日の輝きを謳歌するようにゆっくりと歩いて、慎の傍らに立ち、その肩に寄りかかる。
「有瀬?」
「どうしてここに、って顔してますね。クリス様」
ノアの声はか細いはずなのに、不思議に凜と澄んでいて、教室によく響き渡った。クリスは、困惑の中で自分の顔を見つめるノアが誰かに似ていると思った。それが誰だか思い出せない。
「いいじゃないですか。クリス様がずっと捜してたものを見つけた瞬間なんですから。親友の僕もお祝いしたかったんです。クリス様が一番うれしい時間を共有したくって」
「でも……でも、どうして生徒会長と?」
「そんなことはどうでもいいんですよ、クリス様。貴方の喜びの前には些細なことです。ねっ、ほら、クリス様」
ノアは小鳥のように慎の体から離れると、靴の先で音をたててクリスの元に駆け寄り、両手でクリスの頬を覆った。いつもとは違う友人に、クリスが戸惑い、うろたればうろたえるほど、ノアには楽しいようだった。ノアの手が頬から首へ、そして肩へと滑り落ちて行く。クリスの両肩をしっかりとつかんだ時、ノアはクリスの体につと身を寄せた。
「あ、有瀬……?」
「羨ましい人……」
「貴方のせいで生徒会の先輩がたはこの学園を出て行かなければならなかったんですよ。そんなことも知らないで、自分一人の幸せだけ手に入れて、僕は貴方が本当に羨ましい……」
「えっ……?」
「ほら、そんな驚いた顔しちゃって」
愕然としつつも、クリスは思い出した。ノアの顔が何に似ていたか。昨夜のあのドラマの女優の顔だ。主人公を撃ち、父を殺し、自分も死んだ、あの美しい人の顔だった。クリスの考えを読み取ったかのようだった。ノアの次の行動は。ノアは突如、涙を頬に伝わせて、女優と同じように「ごめんなさい」と呟いたのだ。そして、刹那に笑った。
「なあんて、やってみたかっただけですよ。ねっ、クリス様、貴方はこの学園での目的を果たした。だったら、もうこの学園から去っていただけますよね?ぜひそうしてください。貴方のせいで三宿学園を追われた人々へのせめてもの罪償いですよ、クリス様。そうしたら、千住様は学園を去らないで済むんですから……そんな顔しないでください。ほら、絵を見つけられたご褒美です。銃弾よりはずっといいでしょう?」
ノアのキスは塩辛く、冷たくクリスの唇に染みた。クリスにはもう何も見えていなかった。ただ、あの憐れなアリア、「主よ憐れみたまえ」だけが物悲しい調べを奏でていた。