第三十五話 潮騒の聞こえる場所・後編
「よう、元気にやってるか?」
「まあまあね。そっちは?……聞くまでもないか」
「ああ、ったく、お前が羨ましいぜ」
時刻は九時を過ぎている。それなのに、茘枝はまだ帰ってこない。自分に合す顔がないのか、それともまた何か勝手に企んでいるのか。いつもの陽なら捜しだして問いただすところだが、今度だけは何かが足を躊躇わせる。それは、身を切るような寒さでもなく、たちのぼる珈琲の湯気の香りでもなく。
「それで、今はどうしてるんだ?」
受話器の向こうでは、電話中の颯に何とか構ってもらおうとする彼の幼馴染の声がする。
「どこにも行く当てなんてないからね。迷わず家に帰ったよ。両親は驚いてたけど、まあ上手く誤魔化しておいた。今は神社の手伝いとか、そんなことで気を紛らわしてる。しかし、君たちがいないと平和だけど退屈だ」
「へいへい、そりゃ結構なことで」
「まっ、誰かさんのいい加減な予算書を一つ一つ確認してる手間がないだけね」
白猫が開けっ放しの扉をするりと抜けて入ってきて、優雅な動きで陽の膝の上に飛び乗った。撫でろと催促されるままに手を動かしても、意識の半分は電話に、もう半分は別の方に向かったまま。
「茘枝はどうしてるの?」
少し低くなった颯の声が、陽のもう片方の意識をも揺さぶった。
「……さあな。オレに隠れてこそこそ何やってやがんだか」
「君に隠れて、ね。茘枝らしいといえばらしいけど」
「別にあいつのやることだ。何したってオレは構わねぇけどよ……けっ、ふざけた真似ばかりしやがって。いつもより深刻そうな顔してるくせにいつもよりバカげたことばかりするんだぜ?あー、気持ちわりぃ」
「誰が気持ち悪いって?」そう言ってくれる声が耳元にある気がしたのに。背もたれに仰け反らした喉をくすぐる長い髪を求めても、やはり部屋は静かだった。苛つきというのだろうか。「水晶」がわざわざ送り届けてくれたあの写真を見た折に湧きあがってきた感情のもっと小さなものが、胸の奥で起こって染みていく。受話器の奥だけが騒がしい。颯が陽の心を見透かしたように笑う。
「陽、あまり茘枝に当たらないようにね。茘枝も色々考えてるんだから」
「考えてるって何を?」
「そんなの君が一番知ってるだろう?」
沈黙を、肯定の意味だと颯は捉えた。しかし、吐き出された言葉はあまりにも頼りなかった。
「……最近のあいつは何考えてるか分からねぇよ」
颯の目に蒼白な友人の横顔が浮かぶようだった。恐らく陽もほとんど似たようなものを思い描いているであろう。張り詰め過ぎた瞳ときつく結ばれた唇――あの秋の夜の、どこか苦しげな。
颯は電話の相手には聞こえぬように溜息をついた。茘枝の気持ちは痛いほど判る。自分と同じだ。大切な人を守るために一人で全て片をつけようとしている。例え、それが下手な芝居であることを知っていても。しめつけるように、時には切りつけるように、生ぬるさをもった冷たく悲しい感情が、少年たちを孤独に走らせる。茘枝の場合は、その悲壮な覚悟のせいで一層追い込まれていくのだろう。あの行き場のなくなるような気持ちを、陽は恐らく知るべきなのだ。然し、颯はこんな感情をどう伝えるべきか分からなかった。
「おい、生きてるか?」
「あっ、ごめん……」
そういえばあの夜、自分も茘枝に同じように問いかけた。パーティの後の電話の最中、急に黙り込んだ茘枝に「生きてる?」と。茘枝に投げかけた問いが陽を通して自分に帰って来た。颯はこんな些細なことに、不思議な運命を感じるのだった。
「ったく。そっちが忙しいならもう切ってもいいんだぜ」
「いや、そういう訳じゃないんだけど……少し考え事してて。あのさ、陽、学園を出てからずっと調べてたんだけど……」
その時、陽は玄関の鍵を回す小さな音を聞いた。シャネルがにゃあと鳴いて膝から飛び降りた。
「けっ、遅いご帰宅だ」
「考え事ですか?」
ぼんやりと冬の町に見入っていたクリスは、少し眠たげな、間延びしたノアの声にはっとした。「起きてたの?」咄嗟にそう返そうと思ったが、遠い町のネオンに照らされたノアの顔は、先ほどのクリスに劣らず薄ぼやけていた。まるで、海深く泳いでいた鯨がほんの気まぐれから海面に顔をのぞかせたように。クリスの問いは変わった。
「ごめん、起しちゃった?」
「いいえ、喉が渇いて起きたんです。そしたらクリス様がまだ起きてるから……」
「そっか。うん、もう俺も寝るよ」
クリスはうつ伏せの状態からベッドに肘をついて肩と顔を起こし、枕の上で両手を組んでそこに顎を乗せていた。ノアが階下に静かに下って(まるでクリス以外の誰かがこの家で眠っているように)また戻って来るまで、クリスはそのままの姿勢でいた。イギリスにいた頃を思い出した。教会でこんな風に両手を組んで祈った。何回そうしたかは覚えていないが、恐らく全て自分のためだろう。世の平和だとか、隣人の安穏だとか、そんなことを思って祈った時は一度もないはずだ。今、もし他人のために祈れるとしたら――考えて、一番に浮かんだのは薫の顔だった。薫とは切ない擦れ違いが続いていた。放課後の美術室で寄り添いあったあの日から、二人の間に恋人らしい囁きも抱擁もない。数えれば、もう二週間も。ただ数少ない授業の中で交わす目線だけ。体が熱くなるほどに薫に恋焦がれている。せめて子供っぽいキスだけでも出来たならば。
ノアが布団を被ったところで、クリスの思考回路は強制的に遮断された。仕方なく、クリスも完全に体を横たえて目を閉じた。「クリス様」とノアが呼んだ。
「何、有瀬?」
「まだ朝と同じことで悩んでるんですか?」
「朝と同じことって……」
「関本さんから聞いたんです。もしクリス様が画家じゃなくなったら、どうなるかって話」
「ああ……」
頬の辺りがぼんやりと赤くなるのを感じた。薫への想いに夢中になって、昨夜の茘枝の嘆きをすっかり忘れていたのだ。先輩の嘆きに応えようと思って、自分なりの回答を探していたというのに。しかし、何と答えるのだろうか。「俺には俺が画家じゃなくても一緒にいられる友達がいるので平気です」とでも?問題は少しも解決していなかった。
「クリス様」
「ん?」
布団の中で丸めていた手を取られ、クリスは目を開けた。ノアの手は温かかった。眠たい赤ん坊の体温も高いと聞く。見つめるノアの目もまるで幼子のように無垢だった。
「僕はクリス様が好きですよ」
「えっ?」
「クリス様がどんな人でも僕は好きです。画家なんかじゃなくたって……クリス様は僕の最初の友達なんです」
「有瀬……」
ノアの手を取り返しながら、クリスはこのいたいけな親友に抱いた感情を思い出した。嫉妬――あの妖精の絵は本当にノアが描いたのだろうか。
「だから、何にも心配しなくていいんです。クリス様に何かあった時は僕が助けます」
ノアがにこりと笑った。その時、クリスの頭の中で見知らぬ映像が弾けた。深い深い海の底へ沈んでいく少年。浮かび上がっていく自分と彼を繋ぐ二つの手はやがて切り離されていき、二人の間には人魚の吐息のような泡が立ち込める。
待ってて!必ず迎えに行くから!今度は僕が助けに行くから!
「今度は……僕が……」
無意識のうちに言葉が零れ出る。現実の世界に帰ると、ノアがきょとんとしてこちらを見返していた。クリスは自分でも訳が判らないまま、仕方なく笑った。
「ううん、何でもないんだ。ありがとう、有瀬」
手を離したノアに背を向けた後で、ノアが悲しげに瞳を潤ませていたことを、クリスは知らない。
***
頭痛がぼんやりと目の前を霞ませる。せめてもの慰めに目を閉じてみるが、ついそのまま眠ってしまいそうになる。それなのに、茘枝の胸中はごたごたと片付かず、床に散らばったものを踏むばかりだ。いつまで経っても安らかなる夢の世界には辿りつけない。疲れた目をふと持ち上げて、頬にかかった髪を耳に挟んだ時、ふと二つ離れた席から投げかけられた視線に気がついた。茘枝はすぐに前髪を元に戻した。ティーカップを叩き割った彼の右手はきっと今も痛むはずだ。欠片を拾い集める途中で傷ついた茘枝の指も、まだずきずきと疼くのだから。何を言われても風を受け流す柳のように。陽のどんな挑発にも茘枝は静かな言葉で応え続けた。しかし、いつしか陽が言葉を荒げ始めると、次第に茘枝も冷静ではいられなくなってきた。陽への怒りはなかった。ただ自分への苛つきと疲労とが茘枝の理性も論理も麻痺させていた。陽が手を振り上げた時、茘枝は身構えもしなかった。打たれたところでいい仕打ちだと思った。自分にとっても、陽にとっても。だが、陽の手の行き先は、テーブルの上だった。冷めた紅茶と陶器の破片が散らばり、絨毯を汚した。
「シャネルが怪我をする」
そんなことを呟いた覚えはある。乾いた声で笑った覚えもある。気が付いた時、陽はその場におらず、茘枝は摘み上げたカップの破片が真っ赤に染まっていくのを一人うち眺めていた。
チャイムが鳴った。同時に鳥居先生の悲鳴があがった。今日のユニットを終わらせることができなかったらしい。頭に入らない横文字のテキストを閉じながら、あちこちに移動し始める人ごみの中で教室を出て行く陽の姿を、茘枝は見つけた。
珍しい人に呼び出しをされたものだ、とクリスは思う。ついていきながらも、クリスは驚き、戸惑っている。自分の行動を思い返してみる。どこかで生徒会に迷惑をかけたことはあったか?考えてみてもついに辿り着いたのが転校初日の夜のことだったので、クリスは自分ではなく生徒会の方によっぽど何かあったのだろうと考えることにした。もしくは恋人たちに。
「あの、川崎先輩……?」
「ん?」
前を歩く陽の足取りは軽いようで重い。
「どこに行くんですか?」
「秘密」
「俺、何かしました?」
「別に。何も」
「はあ……」
陽が飴を噛み砕く音が、昼休みの騒がしさの中でもはっきりと聞こえる。飴を噛む人は短気な人だと以前イギリスの叔母が言っていた。クリスの知る限り、陽は短気な人ではなかった。ただ、今はこうも快活に返事をしながらも、恐ろしく機嫌が悪いことだけはクリスにも感じられた。クリスは陽が最上階への階段をのぼりはじめた時も何も言わず、素直に生徒会室の入口までやってきた。
クリスは陽の表情をちらりと見遣ったが、目を隠したその顔から読み取れるものは何もなかった。ここには最早階下の声も届かない。ガリっという不吉な音だけが時折響く。クリスには一時間ほども思えた数秒で鍵が開けられ、陽は一人そそくさと生徒会室の中に入り、奥の窓枠に身を凭れかけさせた。部屋の前で困惑したまま突っ立っているクリスには、暫くの沈黙の後で言葉が与えられた。
「入れよ」
クリスが部屋に踏み込んだ途端、窓の景色を眺めていた陽は身を翻し、机のパソコンに向かって何やら打ちこみ始めた。入ったところでどこにいればよいのか判らず、仕方なしに陽の傍らに立つと、陽は画面を伏せ、クリスの肩を押して窓の景色を示した。
「この景色に見覚えはあるか?」
「えっ?」
自分の顔を見上げようとしたクリスを、陽は手で強制的にクリスの頭を挟んで目線を固定し、再度尋ねた。
「昔、全く同じ景色を見たことがねぇか?」
「えっと、中庭の景色ならいつも見てますけど……」
「そうじゃねぇ。この窓から見たこの景色を見たことはねぇかっつってんだ」
「そんなのありませんよ。第一、生徒会室に来たのは初めてですし」
「だろうな」
陽は放り捨てるように呟いた。クリスには益々訳が分からなかった。こんなことを聞くために俺を呼んだのか?全く意味を成していないこんな質問をするために?しかし、陽の指が両頬を離れても、クリスの目は動けなかった。やがて、クリスの横顔が微妙な変化を遂げた。憐れむような、どこか苦しげな陰を灯して――風に靡く緑の草、冬になっても尚鮮やかな花の彩り、校舎と塔の白、湧きあがる青い噴水。この窓の桟に手をかけて春風を頬に感じた。一体この記憶はどこの記憶なのか。ただ、ふりこのように大きく揺れて、往復しながら脳を掠めるばかり……
頬を押し当てたガラスの冷たさが、クリスを現在の生徒会室に引き戻した。窓はクリスの吐く息でうっすらと曇っている。袖で拭った部分に、陽が黙り込んでパソコンの画面に見入っている様子が映し出された。その不鮮明な絵の中で、扉が開いた。
「ここにいたのか……」
その声と瞳がどこか優しく淋しげに湿っていたのは、ほんの一刹那のことであった。クリスの存在を認めた途端、衝撃が茘枝の顔を染めた。茘枝の目は続いて陽の前の機械へと移り、衝撃は須臾を以って怒りへと変わった。ふらつく足を扉の枠で支える左手が、震えていた。
「何をしている……?」
「さあ」
陽はパソコンの蓋を閉じて静かに言った。青い双眸は、今や真っ直ぐ茘枝を射ていた。
「お互い干渉なしだ。それがお前の決めたルールだろ?」
「何を戯けたことを。君のしていることは……!」
「これがオレのやり方なんだよ」
二人の意図することは、クリスにはさっぱり分からなかった。それでも、茘枝の中で張り詰めて、たった今大きく揺れて零れたものを、クリスも感じ取った。
「納得いくやり方が、他になかった……」
クリスは陽の左手にいつもの水晶の輝きがないことに気が付いた。嫌な予感がした。学園を去っていた颯の影が胸を過ぎる。生徒会が崩壊している?――まさか有り得ない。否定しながらも、目の前の真実に慄き、そしてそれを疑う時、残酷な調べがクリスの前に現実を突き付ける。
「おい。何やってんだ、てめぇら」
背後からの言葉に振り向きもせず、茘枝は静かな溜息を吐いた後、生徒会室の中にすたすたと入っていて陽の傍らに並んだ。その際にしっかりとパソコンの電源コードを踏みつけて行くのを忘れずに。慎を振り見た彼の足元に、また一つ、美しすぎる鎖が転がった。
***
ここでは潮騒が聞こえない。膝を抱えても、耳を澄ませても、目を閉ざしても。海ははるか遠く望む場所にある。四つの壁は健全に白い。精神病院の白さだった。机も時計も何もかも統合がとれていてつまらない。この部屋は患者を締め上げて殺す。患者の内側から少しずつ。
「陽」
「何だ?」
「そこにいるのか?」
「ああ」
「扉のすぐ前に?」
「……ああ」
初めて陽と口を聞いた。この部屋に閉じ込められてから。否、もしかすると生徒会室で隣に並んだあの瞬間以来かもしれない。「水晶」の決定は早かった。向き合いながら黙り込む夕暮れの居間に、知らせは届いた。生徒会役員を罷免。二週間の停学の上、謹慎処分。手紙には簡単にこうも付け加えられていた。尚、生徒会役員の地位を失った以上、二人は今いる寮で生活を続ける訳にはいかない。翌日の朝にも移動先を指示すると。ああ、違う。その手紙を読んだ時に交わし合った目線があったではないか。茘枝は覚悟の意味を陽の目の中に探した。しかし、茘枝はついにさがしていたものを恋人の瞳の中に見つけることができなかった。
「水晶」は宣言通り、翌朝一番に人を寄越した。最低限の言葉を以って移動は進められた。学園の東にぽつんと忘れ去られたように建っていたその寮を、知らなかったのは生徒会役員として不覚だったかもしれない。それは十年近く前まで使われていたが、増加する学園の生徒数に収容能力が追いつかなくなって使われなくなった場所だった。十年もの間、この建物は打ち捨てられていた。それなのに、この建物はまっさらだった。埃の積もる様子も蜘蛛が巣を張る様子もない。家具もまだ新品同様に使用できた。二人に不自由な生活を強いる目的は「水晶」にはなかった――外に出られないということを除けば。ただ、「水晶」が求めていたのは、彼らが最も苦しむ環境に二人を置くことだった。二人は隣同士の違う部屋に閉じ込められた。そして、二つの部屋を、鍵のかけられた扉が繋いでいた。
茘枝は戸惑うように扉に触れた。壁に埋もれるように白い扉もやはり冷たい毒を塗られていた。だが、茘枝は扉に頬を寄せて目を閉じた。向こうにいる人の存在を体で確かめたかった。
「ここからは波の音が聞こえないな」
沈黙に圧されて呟く。聞こえなかったのか聞こえたのか陽からの返事はない。開いた瞳で茘枝が見る海は、青く続く丘の先で光を映している。茘枝はゆっくりとその場に膝を落とし、扉に背中を預けて座りこんだ。多分同じような姿勢で恋人も座っているに違いない。そう見越して。茘枝はまた口を開いた。
「こうなることも君は覚悟の上だったのか?」
「……」
やはり返事はない。声を出すのが辛いのだろうか。この部屋の息苦しさのせいで?
「納得するやり方が他になかったと、君は言った。四年前、私たちが身の安全を手に入れるためには、『水晶』に服従する他に道はなかった。今、君は一体何のために『水晶』に歯向かう道を選んだ?」
「……後悔してんのか?」
「まさか。していない。でも、君の言葉を聞きたい」
「言葉?」
「君が何を一番に思っているのか、君が守りたいものは何なのか、それだけを知りたい」
暫しの静寂が、茘枝に失望を与えた。陽はまた逃げるつもりなのか。いつもと同じように。本心を知ろうとすると逃げてしまう、狡猾ながら憎めない手口で。こうして言葉以外何も交わせない今なら、答えてくれると思ったのに。唐突に陽は低い笑い声を洩らした。喉奥から笑う、いつもの笑い方だった。
「陽?」
「バッカだな、お前」
「何を急に……」
茘枝ははっとして口を噤んだ。無造作においた手に触れる指先があると気づいて。床と扉の隙間からこちらに差し出された手があると知って。茘枝は思わず手を引いた。膝の上で、触れられた左手を抱きしめる。
「オレの人生で一番高かった買い物はよ、それまでの人生のほとんどを支払ったんだぜ?安定した生活も、家庭も……ああ、大富豪になる千載一隅のチャンスもな」
陽の声がそんな茘枝の行動のためか鋭くなる。茘枝の左手の傷はまだ痛んでいる。
「まあつまらねぇ人生だったことも考えると、安い買い物だったかもしれねぇけどよ。それを買ったおかげで、毎日面白かったし。ただ、まさか、それがオレの元から逃げ出そうとするとは思わなかったけどな」
陽の指が茘枝のシャツの裾を掴んだ。逃げようとしたのか、本能的に丸めていた体が仰け反って、後頭部が扉の湿った冷気に押し当てられる。陽は一層研ぎ澄まされた声で、扉越しに茘枝の耳元に囁いた。
「……覚悟してたんじゃなかったのか?」
もし泣くことを知っていたら、涙も頬を伝って来ただろうに。茘枝は泣くことを知らない。嗚咽を漏らすことも、鼻を啜ることも。ただ胸だけを激しく震わせた。覚悟、覚悟と何度呟いただろう。陽と共にいたこの日々で……陽の声は鋭くも哀調を帯びていた。これが彼の本当の声、本当の言葉だったのだ。そして、本当の言葉を欲した自分こそ、偽りばかりを吐いていたのだ。シャツを掴む手が離れると、茘枝は扉に向き直り、額を扉にあてた。そして、息ばかりの声で言った。
「陽、すまない……」
「……」
「私は君から逃げようとした。君に依存していく自分が怖かった。君なしでは生きられなくなっていく自分が嫌だった」
「……もういい」
「私は何も知らなかった。何も……君の傍にいるということは、そういうことなのだと。私は何も覚悟をしていなかった……」
「もういい。黙れ」
茘枝は左手の指を全て扉の奥に差しこんだ。例え指が潰れても構わなかった。陽に触れたかった。陽の傍にいるという事実を確かめたかった。陽の指は茘枝の上にそっと重ねられた。そして傷も含めて陽自身の温度の中に包み込んだ。後の二人はそのままひたすら静かに呼吸をし、やがて日が暮れるとうとうとと浅い眠りの中に誘われていった。
扉を叩く音がする。陽か?陽が起こしているのか。だがもう少し眠っていたい……ノックはしつこい。傾けていた首が痛む。睫毛の前に前髪が零れかかっている。向こう側にある茘枝の手を陽は相変わらず握り続けている。ノックは廊下と面した方の入り口から聞こえる。だが、この暗闇の中では歩いて行けない。それ以前に、陽と手を離すのが嫌だった。茘枝は小さな声で誰だと尋ねた。
「うわっ、いた!あっ、あの、涌水明音と申します!あっ、あの、今から扉開けますよ!いいですね?!」
「おい、何の騒ぎだ?」
扉越しに陽が聞く。眠たげな声だ。この建物には不釣り合いなほど明るく元気な声に、目を覚ましたのだろう。茘枝が事態を把握できていないうちに、カチャッという音が聞こえ、この部屋より濃度の薄い闇が小柄な少年の輪郭を模った。不意に眩しい一筋の光が、茘枝の目に突き刺さった。茘枝は目を閉じた。どうやら少年は懐中電灯を持ち歩いているらしい。
「あっ、すみません!大丈夫っすか?!って、じゃない、じゃない。とにかく急いでるんでいいですか?そこの扉も開けますよ」
明音は土足のままどたばたと部屋に踏み込んできて茘枝の隣に立った。茘枝は闇に慣れた目で、この少年を慎のストーカーだと突き止めた。しかし、なぜ一般生徒がここに?茘枝の戸惑いは、明音の声に遮られた。
「あの、手、危ないんでどけてくださいっす。あっ、川崎先輩、そこ危ないんでどいてもらえますか?」
陽が手を離した。茘枝はじんじんと痺れる左手を胸に押し当てて立ちあがり、数歩下がって事の成り行きを見守った。とにかく分かったのは、明音がこの扉を開けようとしていること、茘枝と陽が再び会えるようにしているということだ。それ以上に喜ばしいことはないのだから、茘枝は何も言わないことにした。扉は明音の持っている鍵で呆気なく開いた。開いた扉の向こうに明音は相変わらず明るい声で呼びかけた。間もなく、茘枝と同じように何も分かっていない陽の顔が、こちらの部屋の闇に浮かんだ。茘枝が駆け寄りたい衝動を抑えるために、明音の声が必要だった。
「さあ、急いでください!時間がないんっす!見つかったら大変なんですから。急いで降りてください!学園の門のところで車が待ってますから、それに乗って逃げるんです!」
「逃げるって……」
明音は部屋の窓をちらりと振り見た。海に面していない方の窓で、遠くに高等部の校舎と塔を望める窓だ。その窓の外で、灯りがちらつくの茘枝と陽は見た。明音もそれを確かめると、二人を急かし、窓に向けて懐中電灯を大きく三回回転させた。明音の意味したことを理解する時間もなかった。茘枝は陽の手の引くままに階段を駆け下りながら、必死に現実を見つめ直そうとしていた。どうすれば、頭が現実に追いつくのか。しかし、更に驚くべき光景が二人を待ち構えていた。満点の星空の下に二人が降り立った時、二人が見たのは、二人のポルシェと、その前に立つ慎の姿だった。
「てめぇ、何でこんなところに……」
「いいから早くしろ。さっさと乗り込んでできるだけ学園から離れた場所に行け。当分戻って来るんじゃねぇぞ。もたもたするな。早くしねぇと見つかるぞ」
車のエンジンは既にかかっている。乗り込んだ順番から自然に、茘枝が運転席に、陽が助手席に座ることになった。ハンドルを取る手が感覚を取り戻すのを、茘枝は数秒待たなければならなかった。その時、慎が窓を叩いて開けろと手で命じた。茘枝は言われた通りにした。
「忘れ物だ」
慎が茘枝に投げつけたのは見知らぬ鍵だった。怪訝そうな顔をする二人に慎は平常の傲慢さを保ったまま呆れて付け加えた。
「どうせお前らは榊原みたいに行く当てもねぇだろうが。一応、住む場所を確保してやったぜ。ルートは車に入力してある。海岸沿いを南に向かって真っすぐ行くだけだ。俺のことが信用できねぇなら使わなくても構わない。それだけだ。さっさと行け」
「慎……」
「感傷に浸ってる暇はねぇんだ。当分その顔を見せるな」
「……感謝する」
慎が笑った気がした。窓の反射に遮られて、よく分からなかったけれども。茘枝と陽は流し目だけで視線を合わせて頷いた。鍵を陽に渡して、茘枝はアクセルを踏み込んだ。学園の門に突進したあの夜よりも強く。今夜は、あの夜とは違って、学園の門に今度は反対側からぶつかろうとしていた。
「お元気で!」
遠くで明音の声がした。
「どこへ行く?」
門もいよいよ間近になって、茘枝が訊いた。夜の闇が、風が、木々が猛スピードで車窓を通り過ぎて行く。陽はふざけたように傾げた首をミラーに映した。鍵を右手でもてあそびながら。
「別にどこでもいいじゃねぇの?オレは構わねぇぜ」
「そうか……」
開いた門を車が抜けて行く。その瞬間に、茘枝は言った。
「私も構わない……君と一緒なら」




