第三十五話 潮騒の聞こえる場所・前編
目覚めと共に潮騒を聞くようになったのはいつの日からか――
バルコニーから望む海に、船は通らない。真冬の潮風にあてられてバイオリンの弦は耳元が耳元で震える。潮騒に混じって微かに聞こえるその音を、水平線の遥か遠くにまで響かせようとしてふと腕を降ろす。込み上げてくる感情が、音楽をうやむやにしてしまった。
茘枝は楽器を置いて手すりから青い世界へと身を乗り出した。目の前に見ていた海が、足元までに広がった。このまま足を落とせばその青が、燃え立つ瞳の奥にさえも染みわたっていくというのに……破滅という言葉を当てはめても良いだろうか?空白だらけのこの行為に。
茘枝は制服のポケットに手を入れ、取り出した手紙を幾片にも千切って海に投げ捨てた。一人で命令を受け取ってきたと聞いたら、きっと陽は怒るだろう。これは証拠隠滅でもあり、様々なことが気にいらない気持ちの清算でもあった。「水晶」の命令が波の音に呑み込まれ遠い紺碧に消えていくのは何とも愉快だったが、同時にその光景は、茘枝の心にある主の陰鬱さをもたらした。暗渠に滴り落ちていく雫の一滴一滴が重く、どす黒く、冷たい。溜まった水をかき回して掬んだ手が、澱を握っている。幸福が不純物だと知ったのは、それを手に入れてからのことだった。自分の心とはあまりにもかけ離れた場所にあったもの。それを掴み取るまでは、何か眩しすぎる、澄み切ったものを想像していた。陽が最初の偏見を打ち壊し、幸福というものを初めて具体的な形で示してくれた。それから始まった二人の生活が、後者の思いこみを打ち砕いた。陽と過ごす日々は確かに幸福だった。だが、嬉しく楽しいばかりでは決して済まされなかった。幸せを知ると同時に、怯えることを知った。愛することを知り、同時に憎むことも知った。誰かに依存して生きることと、あまりにも大きすぎるその代償も。破滅することに対する強い憧憬も。
「落ちんなよ」
寝室の窓から顔をのぞかせて陽が言う。茘枝は少しだけ笑ってみせた。
「落ちないさ」
掌に残っていた最後の一片を、陽に見えないようにそっと投げ捨てる。陽は何も知らなくていい。何も知らなくて、そして何も覚えていなくていいのだ。
「何考えてた?」
「別に何も」
「嘘つくなよ。お前がオレに何か隠せる訳ねぇだろ」
「取り留めのないことだ。言ったらただの愚痴になる。君とはもう少しロマンチックな会話をしてみたいから言わないさ」
「そんな会話した覚えなんてないけどな」
「だからこそ、偶にはいいじゃないか」
「変な奴」
君に言われたくないとの言葉をぐっと呑み込んで、茘枝は再びさざ波を眺め遣る。そうやって佇むながら、知らず知らずのうちに陽の腕が背後からその身を包むのを待っていた。だが、陽は来なかった。頬の辺りに寄せられる視線に気づいて、未だ同じ場所でこちらを見つめ続ける陽の方を振り向くと、陽が呟くようにふと言った。
「お前、そうしてると本当に綺麗だよな」
「どうしたんだ、急に」
陽の口元からいつもの人を小馬鹿にしたような笑みが消えているのに気付いて、少し頬が緩む。そういえば、初めて出会った時に美少年と評されたことはあったが、それ以降は容姿について何か言及されたことはあまりなかった。光源氏ではないのだから、男が容姿のことばかり褒められるのもどうかと思っていたことであるし。しかし、こうして真面目に言われてみると満更悪い気もしないのが本心で、茘枝は己の女々しさに呆れる他なかった。
「だったら、ずっとこうしていようか?」
あの不敵な表情と共に帰ってくるはずの返事がない。どうも調子が狂う。今朝は随分目覚めが遅かったことも考えると、熱でもあるのかもしれない。隣にいてくれればすぐに触れて確かめることもできるのに、今日はこんなに距離を置いてしまっているから黙っている他はない。ふと冷たい冬の風が吹いて二人の髪を乱した。昨夜以来の藍色の目を、茘枝は静かに見つめ返していた。
「お前、何を隠してる?」
「何も」
陽を誤魔化したところで罪悪感など疼きはしないのだ。覚悟は出来ている。
「目が戻ってるぞ」
「戻ってるって?」
「最初の頃。氷室の家で会った時と同じ目だ」
茘枝は静かに目を閉じてわずかに首を傾けた。陽はどこまで見透かすつもりなのだろう。自分のことは何一つ語りたがらないくせに。もし、陽が今の茘枝と入れ替わっても、きっと同じことをするに違いないのに。
「そうか……」
茘枝は瞳を見られないように、海に向かって顔を俯けた。長い髪がはらりと耳から零れおちて、彼の横顔を覆い隠した。
***
見上げれば、晴れては濁る空の色。菜月は一体どこにいるのだろう。部屋にはノートの切れ端が置いてあっただけだという。落合と来夏が沈んだ声で話すのを聞きながら、クリスは実物を見せてくれと言う勇気は沸いてこなかったし、悲しみというよりは、平手打ちでも食らったかのような衝撃に圧倒されていた。やがて、大きなものがゆっくりと体を通り過ぎていくと、クリスにはもう何もする気が起きず、ノアの優しい声を頼って何とかその日一日を乗り切ったような次第であった。
「きっと大丈夫ですよ」
初めてクリスを慰めた声は、ノアだった。
「榊原先輩と一緒なんでしょう?きっと大丈夫です。酒本さんは先輩の傍にいるために、自分の意思でここを出ていったんです。生きてればまた会えますよ。そのうちお便りがあるかもしれませんし……」
お便りは来ないままにその週が終わり、また新しい週が始まった。しかし、忙しく美しい日々のうちに、クリスたちは何らかの希望を掴みかけはじめていた。酒本はきっと大丈夫だ。何事もなく、きっと幸せに先輩との日々を送っているはずだ。何の根拠もない希望ではあったが、信じる他にない希望であった。そして、見上げてみる空がまた濁る。
バスで町に下り、買い物を済ませてバス亭に立つ頃には、空は暗く、街灯のすぐ真下でさえも吐く息の白さが目立った。ぼんやりと霞むような光では到底太刀打ちできないような、冷たい漆黒が町を覆っていた。早く帰らないと、有瀬の夕食の支度が遅れてしまう。雑踏の中で気持ちばかりが急いていた。それなのに、一体どこかで何かあったのか、おびただしい車のヘッドライトの中に、バスの巨大な輪郭は見えない。巻き付けたマフラーにじっとりと焦燥の汗が滲んだ。その一方で、裸のままの両手は冷え切っていく。帰る手段になりえない電車だけが、先ほどからせわしなくクリスの頭上を行きかっていた。
ふいに、後ろから、ぽんと肩を叩かれた。振り返ったクリスの目に、見覚えのある顔が映り込んだ。
「あっ、先輩!」
「やあ、天才少年画家君」
立っていたのは茘枝だった。その微笑みが穏やかでありながらも何だか見慣れぬように思われるのは、町の灯りのいたずらか。それとも、彼が身に纏っている白いコートのせいなのか。しかし、いずれにしても、茘枝の出現はクリスにとって喜ばしい出来事だ。こんな一人の町で、知り合いに出会えたのだから。
「奇遇だな、こんなところで会うなんて。バスを待っているのかい?」
「えぇ、でも、なかなか来なくて……もう二十分も待ってるんですけど……」
まさかその直後に解決策が打ち出されるとは知らずに、クリスは困り果てたような溜息をついた。茘枝の微笑の色が変わった。
「だったら私と一緒に行こう。車があるから」
「く、車?!」
「おや、忘れたのかい?私は十八歳だよ」
「そんなことは知ってますけど……でも、何で学校に?」
「話すと長くなる。夜もすぐに更けてしまうし。さあ、早く付いておいで」
バス亭の行列から逃げだせたことが、クリスの感じた最初の喜びであった。茘枝はクリスが付いてきているかもいちいち振り返らず、すたすたと人ごみの中を潜り抜けて行った。黒いばかりの群れの中に、茘枝のコートはとても目立った。クリスは買い物袋を両腕に抱え、遅れをとらじと慌てて先輩の後を追いながら、その右手にバイオリンのケースが握りしめられているのを確認した。きっと、町には楽器のメンテナンスかなんかがあったのだろう。しかし、まさか車で……一体どこに置いているんだろうか。そもそも学園内で車を所有することは校則違反でないのか?いや、もしかしたら、あれも生徒会の特権なのかもしれない。呆れるほど生徒会優遇の学校だから。まあ、一般生徒である自分も訳あってその一部を享受しているのだが。
茘枝を追いかけて行くうちに、電車の音は遠のき、街灯は減り、人気と雑音とネオンも薄れて行った。クリスはふいに不安を感じ、遠くにきらめく観覧車を振りかえった。先ほどまで自分たちのいた場所はあんなにも遠い。何も喋らない茘枝はまるで亡霊のようで、クリスは死者の世界へいざなわれているような、そんな気さえするのであった。前を見ていなかったクリスは、茘枝の足音が消えたことにも気付かず、茘枝に肩を掴まれてはっとして立ち止まった。
「後ろを向いていると危ないよ」
「あっ、すみません……」
「一人でさっさと歩きすぎた。すまない」
「いいえ、俺がぼーっとしてただけですから……」
「私もだ。考え事をしていた」
「何を考えてたんですか?」
言ってから、何てくだらない質問をしたのだろうとクリスは思った。これでは、バカ丸出しではないか。茘枝は暫く黙っていた。クリスの左側に立っていた茘枝は、クリスより黒い海の傍に立ちながら、後輩の左肩をぎゅっと握りしめていた。しかし、やがてその手をクリスの右肩まで伸ばすと、茘枝は再び歩み始めて呟いた。
「君のことを。君が私の前からいなくなってしまった時のことを」
えっ、とクリスは確かに言おうとした。だが、開きかけた唇を、革の手袋で包んだ指が塞いだ。左耳を長い髪がくすぐっている。動揺を隠しきれもせずに、クリスは茘枝の顔から目を逸らした。不幸なことに、二人の気を紛らわせてくれるようなもの、例えば、車の往来だとか、人だとか、猫の鳴き声だとか――そういったものは一切なかった。
「どうして先輩が俺のことを……?」
「判らない。それでも私は時々君のことを考える。そうせずにはいられないんだ」
「な、何言って……」
茘枝の腕がクリスを暗い駐車場の中に引き入れた。茘枝の顔を見上げて、その時、クリスは、自分はさらわれてしまったのだと気づいた。暗闇に浮かび上がった表情は、夢を見るかのように、恍惚として、虚ろだった。
「先輩……?」
「私が君のことを考えてはいけないかい?」
恐ろしいほど優しい声が聞く。
「一体どうして?」
「だって、そりゃ……先輩、川崎先輩と何かあったんですか?」
「川崎……?」
一瞬理解できなかったかのように呟いて、茘枝は痛ましげに眉をひそめた。クリスの肩を離れた手が、今度はクリスの指先を求めたが、クリスは素直に応じた。それはふらつく人が、支えを求めようとするようで。
「先輩、大丈夫ですか?」
クリスは何とか自分のペースを取り戻したことを悟って尋ねた。茘枝はただ、無言でうなずいた。
「川崎先輩と何かあったんですか?」
自分が立ち入る問題ではない。そう知りながらも、クリスは続けて聞いた。「いや、別に」と茘枝は言った。そして、ポケットから車のキーを取り出し、白いポルシェのエンジンをかけると、助手席にクリスを招き入れた。クリスに不安はなかった。ただ茘枝への心配だけがあった。発車後もしばらくその均衡を保っていたクリスの心だったが、ようやく町の雑踏を抜け出した後で、ミラーの茘枝が不思議な笑いを浮かべた時、相手が元の優位を取り戻したと気づいた。そう、この人は逃してくれないのだ。
「か、川崎先輩は……!」
「君は」
逃れようとしたクリスの言葉は、しっかりと遮られた。
「なぜ絵を描くんだ?」
クリスはとまどった。こんなことを聞かれるとはとても思っていなかったので。
「えっ……あ、あの……」
「好きだから。君は素直にそう答えられるかい?」
クリスは茘枝の横顔を見遣った後、まばらな街灯が次々と自分の背後に消えて行くのを感じながら、小さくしかししっかりと返事をした。
「はい」
それ以外に理由は考えられなかった。気づいたらいつも絵を描いていた。物心ついた時から……本当に?自分はいつから絵を描くことが好きになったんだ?
「君が羨ましい」
茘枝がラジオのスイッチを入れると途中から流れ始めるバッハのバイオリンコンチェルト。
「私はなぜ自分がバイオリンを弾いているのか判らなくなるときがある。ただ、それを周りが求めているからなのかもしれない。それとも、バイオリンを弾くという行為がもう私の一部になってしまったのか」
もう学園の門は見え始めていた。真っ白い彫刻のように、いや、もっと虚しく悲しいもののように月夜の中にぽつんと浮かび上がっている。それは例えば、墓の下に忘れ去られた骸であったか。
「先輩……」
「そこまで考えると何もかも判らなくなるんだ。私は……もしバイオリンを弾かなくなったら、私は私でなくなるのか。そんなくだらないことばかり考える。君は……」
流し目でクリスの目を捕え、茘枝は車の速度をあげた。愚かなまでに無垢な少年は、催眠術にかけられたかのように茘枝の横顔か、それともその後ろの暗闇か、どちらかにじっと見入っている。楽器の音が鼓膜に染みて脳に絡みつく。たった一つの麻酔だった。目を閉じることさえも叶わずに……せめて冷たい風に身を切りつけられながらの破滅であれば。何も願えないこの身を恨むしかない。一度「水晶」に奪われてしまった自由。束の間の不安定な平和のために投げ出したものの重さ。取り戻すことはできない。ならば、最期だけは剣を高く掲げて向かっていこう。全ては恋人のために――ハンドルを握る自分の指先が震えていることに気づいたのは、その時だった。
「先輩!!」
何を考えるでもなく、ほぼ本能的に、茘枝はブレーキを踏み込んでいた。闇に、静寂に、遠い町のネオンにさえも響いたはずの衝突音の代わりに、タイヤが地面をこする甲高い悲鳴が冷気を切り裂いた。目の前を包んだ暗闇は一瞬で門の白さに変わり、ラジオは別の曲を流し始めていた。なぜ、今、自分は生きているのか。なぜ、隣の少年は真っ白い顔に青い瞳を輝かせているのか。知らない曲の歌詞だけが、やたらに切ない。
***
「どこか具合でも悪いんですか、クリス様?」
「えっ、別に……」
昨夜は眠れなかったなどと、素直に言う気はなかった。買い物の帰り道にあった出来事を、ノアに話そうとは到底思えなかったから。眠る度に、まどろむ度に、夢の中に何度も蘇る。茘枝の打ち明けた苦しみが。彼の問いが。なぜ絵を描くのか。もし、絵を描くことをやめたら、自分は自分でなくなるのか――あまりにも難しすぎる問いであった。
「でも、昨日からずっと変ですよ。あっ、もしかして、ジャクソン先生の風邪がうつったんじゃないですか?昨日ずっと咳き込んでいらしたし」
「多分違うと思うけどなぁ……ありがと、有瀬」
「おーい、エーリアル!有瀬!」
「クリスせんぱーい!ノアせんぱーい!」
ああ、また騒がしくなったとクリスとノアは顔を見合わせて苦笑した。二人が振り返るよりも早く、背中に衝撃が走り、けたたましい笑い声が耳元に響いた。悪友とも言える存在を失って一時はすっかりしょげていた(鳥居先生曰く「萎れていた」)落合だったが、どうやら元の元気を取り戻したらしい。明音の突進がそれに続き、朝の静かな登校時間は突如かしましいものに変わったが、ひとまず二人はノアの方に預けておくとして、クリスは後からやってきた来夏に笑いかけた。
「おはよう、関本」
「よっ」
落合、ノア、明音の三人がおおいに盛り上がりながらぐんぐんと進んでいってくれたおかげで、クリスと来夏はゆっくりと平和な時間を過ごすことができた。本来ならば、クリスとノアが楽しんでいたはずの時間だったのだが。聡い来夏は、クリスのなんとなく振り切れない様子にも気が付いて、前方の三人の声が一層騒がしくなったところで、声をひそめて尋ねた。
「どうした、石崎?」
「えっ……?」
「さっきからあまり元気がなさそうに見えるぞ」
「……やっぱりそう見えるんだ」
ノアには打ち明けられないことも、来夏になら打ち明けられる気がした。何となく気恥ずかしい気もしたけれども。クリスはしばらく迷った末に(来夏はちゃんと待っていてくれた)やがて呟くように言った。
「何で俺って絵を描いてるのかなって思って」
「何で……?」
クリスはこくんと頷いた。
「どうしてそんなことを?」
「人に聞かれたんだ。誰とは言えないけど。何で君は絵を描くのかって。その時は好きだからって答えたんだけど、本当にそうなのかだんだん自信がなくなってきたんだ。もしただ好きなだけだったら、絵を発表する意味はなんだろうって。俺は確かに絵を描くことが好きだけど、描いた絵で人に認められたい。心のどこかには、人に認められたくて描いてる自分もきっといると思うんだ」
「……」
「俺に何で絵を描いてるか聞いた人は、もしバ……その、まあ、その人がやってることをやめたら、自分が自分でなくなるのかもしれないって言ってた。それを聞いた時はよくわかんなかったけどさ、一晩考えて少しその人の気持ちが判った気がしたんだ。それってつまりさ、自分が自分でなくなるんじゃなくて、世間が自分を自分と見なしてくれなくなるかもしれないって意味なんだね。そしたら、何の覚悟もなく絵を描き始めたことが急に怖くなったんだ……もう引き返せないんだな」
二人は校門をくぐるまでしばらく黙ったままでいた。前方の会話はますます高らかになるばかりであった。クリスと来夏の横を歩いて行く生徒たちは、みんな何の不安もなく、幸福そうだ。それが表面上であることを知っていても、やはりクリスは何となく羨ましかった。
「俺は芸術家の苦しみは分からねぇけどさ」
来夏は溜息を吐いた後、このように切り出した。
「いいんじゃねぇのか?世間の奴らどう思おうと。世間なんて目立ってぎらぎらしてるものが好きなだけだ。そりゃ光らなくなったら捨てられるだろうけどさ。それだけのことだ。別に死ぬ訳じゃねぇんだし。少なくともお前の一番近くにいる奴らは、お前が絵を描かなくなってもお前のこと認めてくれんだろ?有瀬とかさ」
クリスは来夏に促されるままノアの横顔を見遣った。ノアは笑っていた。クリスの隣をいく人と同じで、クリスの苦しみの片鱗すら知らず。それでも優しさにも切なさにも似た気持ちが湧きあがって来るのはなぜだろう。きっとそれが、何も言わない中でのノアへの信頼の証なのだろうとクリスは思った。
「……うん」
楽器の音がどうにも気に食わない。メンテナンスでどうにかなる問題ではなかったのだ。思わず愛器を叩きつけたくなる衝動はこればかりが起こすのではない。全て知られていた。「水晶」に。
破いてゴミ箱に放り込んだ手紙には単独行動を咎める旨が簡略に書かれていた。命令はあくまでも茘枝と陽の二人に下されたものである。二人で行動できないのなら、命令違反と見なす、と。それだけならまだどうかできたのに、ご丁寧にも陽にまでわざわざお手紙を送っていただいて。丁寧を超えたところでは、昨夜の写真まで添えていただいて。しらを切りとおす茘枝に、陽が憤激したのは言うまでもない。
「君を守るためなんだ」なんて、野暮なことを言うつもりは毛頭ない。弁解するぐらいなら死んだ方がましだ。茘枝は楽器をピアノの椅子に置き、CDプレイヤーの電源を適当に入れてみた。前回の音楽の授業で使ったのだろうか。流れたのは、やはりバッハのバイオリンコンチェルトであった。カメラにしっかりと切り取られた昨夜と同じ調べ。陽は写真を海に投げ捨てた。
音楽室の扉が軋む音で、茘枝は振り返った。一瞬陽かと期待してみたが、現れたのは恐らく今一番顔を合したくない人物だった。きっと何もかも知っているに違いない。茘枝は慎の顔を見るより先に目をそむけていた。
「何の用だ」
「けっ、やっぱり不機嫌でやがる」
「用がないなら出て行け」
「あー、ったく、こちとら用もねぇのにお前の所に来るほど暇じゃねぇ」
「ならさっさと要件を言え」
グランドピアノの上に両肘を置き、左手の薬指を弄ぶ。この指輪を慎の顔にぶつけてやったら少しは清々するかもしれないな、と茘枝は思った。やたら腹の立つことばかり喚くならそうしてやろう。茘枝は密かに決心した。
「『水晶』からの手紙は読んだか?」
「白々しい。自分の兄と云ったらどうだ?」
「生憎そこまで仲がいい訳じゃねぇ。それで、要件は理解していただけたのか?」
「そんなことを聞くために来たのか。伝言役も大変だな」
「おい、早く俺に出て行ってもらいたいなら早く答えろ。要件は分かったのか?」
「今答えるつもりはない。答えなら行動で示す」
茘枝はそれきり口を閉ざし、沈黙に帰れの意味を込めたつもりだった。しかし、慎が立ち去る気配はない。それどころか、忌々しいことにこちらに歩み寄って来る。教壇にもたれかかる慎を、茘枝は振り見てじっと睨みつけた。
「帰れ。邪魔だ」
「おい、これは忠告だ。あまり悠長なこと言ってられねぇぜ。お前がこれ以上勝手なことをすると、あいつの方に危害が及ぶことになる」
「言われなくとも判ってる」
茘枝は再び慎に背を向け、左手が白くなるほど右手で強く握りしめた。「水晶」が一番痛いところをついてくるのは知っている。知っているはずなのに、なぜこうも息苦しいのだろうか。学園の空気は。
「だったら、もう少し慎重になれ。せめて忠実な振りぐらいはしろ。昨夜みたいな真似は二度とするな。俺を二度も密告者にさせんなよ」
茘枝の中でバイオリンの音が消えた。音楽室に響くのは帰っていく慎の靴音だけとなった。
気がついた時、茘枝の右手は慎の手の中にあった。声も息も漏らせずにただ憤りに震えていた茘枝は、慎の次の一言でようやく思考を取り戻した。
「おい、今忠告してやったばかりだろうが」
「貴様……っ!」
慎が右手を返すと、茘枝はふらふらと数歩後ずさってグランドピアノの傍らに立った。慎は冷たく、落ち着いたままでそんな茘枝を眺めていた。この男憎しと思ったことは数え切れなくとも、かくまでの殺意を抱いたのは今回が初めてだった。
「やめとけ。痛い目に遭うのは判ってんだろ?」
「陽に手出しはさせない!」
「勝手にほざいてろ」
茘枝は左手の薬指に触れた。指輪を抜きとりかけた。だが、慎がまた後ろ姿になり、バイオリンコンチェルトをまた意識できるようになると、茘枝の全身の力は奪われたようになくなってしまった。それでも茘枝は去っていく慎に向かって言葉を投げつけた。
「貴様は軽蔑に値する……!」
慎は振り向きもせずに扉の向こうへと消えて行った。