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Crystal Brush  作者: 篠原ことり
第四章 革命
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第三十話 水晶の塔

第四部 革命

 会議室へと向かう理事長の顔には相変わらず何の表情もなかったが、その足取りは重かった。左手首にはめたカルティエの腕時計がその理由を示している――現在の時刻、午前八時四十分。これが平日ならばいつもより三十分早く起きなければならなかったという程度で不満は済むのだが、ちょうど文字盤の4数字の左横のところ、小さな窓枠から覗く3という数字が、理事長の不満を一層煽り立てているのだ。全く自分は理事会の輩を少々見くびっていたようだ。会議会議と繰り返しては、残り半分もない大切な人生の四時間やら五時間やらを奪っていくいけ好かない連中ではあることは知っていたが、まさか人の正月休みまで奪っていくなんて。もう少し家族サービスすることを教えた方がよさそうだ。こんなことを風間の奴に言ったら、きっとまた嫌味の一つでも言われるに違いない。ああ、そういえば風間も今日は来ているんだった。このつまらない会議が終わったら、昼飯につき合わせよう。何がいいかしら。美和子も呼んでやって三年ほど前までよく通っていた天ぷら屋でも行こうかしら。あの店の名前は何て言ったっけ……?牛歩作戦ではないがとにかく遅くなるばかりであった足も、ついに会議室の前に着いて、理事長は重苦しい溜息をついた。分かった、堪忍した、入るしかない。扉に手をかけた途端、部屋の中から戸を開ける者があって、理事長はまだ心の準備が十分にできないままに会議室の有様を見せ付けられ、そして唖然とした。腹を長机に押し付け、ぴんと背を伸ばしている理事たちの姿勢はいつもの光景であるけれど、あの敵意に満ちたぎらぎらした目を理事長は知らない。一体何があったというのだろう。理事長は自分を待ち構えている理事たちに気付かれぬよう、部屋の隅に座る風間校長と素早く視線を交わしたが、彼の顔にもいつになく緊張感と不安が漂っていた。 不気味なほど静まり返った中で、理事長は席についた。口を開いたのは議長の男だった。痩せているかがっしりした体型の多い理事会の中で、唯一腹を風船のように膨らませている男だ。やがて彼の言葉で理事会は始まるのであるが、その会議の怪しい雲行きを、理事長と校長は早くも感じ取っていた。


***

 夢のようなひと時を僕は永久と呼びたかった。無限の色彩の中に僕はいた。両手は常に絵の具に干からびていた。それでも、僕は夢のような世界にいた――


「逢ふことの、絶えてしなくは……」

「取った!」

 パーンと大きな音がしたと思った瞬間、明音が飛び上がって歓声を上げていた。友人たちの拍手に加わりながら、クリスは参ったように笑って肩をすくめた。まさか初戦で勝てるとは思っていなかったが、この負け方だけはどうもよろしくない。皆で百人一首大会をやろう、ということになったのがつい一昨日のことであり、本来ならばその日のうちにも行われるべきだったところを、クリスのために猶予を与えてもらった訳だからせめてもう少しは取りたかったのだが。昨日はノアと向かい合い、床一面に散らした長方形のカードを睨んで一日を過ごしたのだ。その成果は出したかったのだが、まあそれを阻む理由の一つには、あらゆるストーカー行為で鍛えた明音の凄まじい反射神経もあるので、クリスはいい加減に痺れた足を伸ばしてふうと息をついた。

「あっ、エーリアル、大会中は正座がルールだぜ」

「勘弁してよ。俺、慣れてないんだから」

「慣れてないって言ったらライだって大して変わらねぇじゃないか。なっ、ライ?」

「いや、俺は父親の躾が厳しかったからな……」

来夏は同情するようにクリスに微笑みかけた。

「そろそろお昼の時間ですね。一度中断しませんか?」

読み手を務めていたノアの提案に、クリス同様惨敗だった真央が真っ先に賛成して、皆は転倒しないように十分気をつけて立ち上がった。いつもこうした集まりはクリスとノアの寮で行われるのだが、菜月がいないこともあるしたまには場所を変えて、と来夏と落合が部屋を提供してくれた。この十六畳半の部屋こそ、クリスが転校してきたその夜に友人たちが歓迎会を開いてくれた部屋で、クリスも時折床から顔を上げて、壁や家具などを懐かしく見回したのであった。

「ああ、よかった。僕、お腹もすくし足も痺れるしでどうなるかと思いましたよ」

「体が軽くなって正座が楽になったかもな」

来夏と真央の会話を横に、クリスはふと明音の持ち札に目を落とした。すっかり忘れてしまった先ほどの歌の下の句。ああそうか、人をも身をも恨みざらまし――逢ふことの絶えてしなくはなかなかに人をも身をも恨みざらまし――歌と明音のあまりの不似合いさに、クリスは思わず笑った。全く会わなければいっそ諦めることができるのに、なんて、追いかけてきたのは誰だったかと。

 少ない自分の持ち札の中には、そんなにクリスの目を引くような歌はなかったけれど、思わずクリスが顔を赤くして伏せたのは、長からむ心も知らず……の歌であった。そんなクリスの表情を見ていたのは、読み終わった歌とまだ読んでいない歌を仕分けしていた、ノアだけであった。

「今来むといひしばかりに長月の有明の月を待ちいでつるかな……」


「あのさ、有瀬」

 散々遊んだ後の夕食の席で、ハヤシライスを掬って口を切ったのはクリスだった。ノアはいつも通り「はい?」と言って首を傾げる。どんな話題に対してもそうするように。

「この間、町で見かけた絵の話なんだけど……やっぱり、俺、あの絵は探してた絵と違うんじゃないかなって、そんな気がするんだ。はっきりしたことは何にも分からないけど。でも、志水晶がその作品で『絵』っていうものを完成させたんだとしたら、だったら、あの絵は違うと思うんだ。すごく素敵な絵だし、志水晶が俺と同じ場所にいたのかって思うとすごくどきどきさせられるのは確かだよ。でも、やっぱり……違うと思うんだ」

「……そうですか」

ノアは一瞬間スプーンの凸面に自分の顔を映すようにして俯いたが、その後静かに呟いた。それが喜びを表しているのか、それとも何か別の感情を表しているのかは、クリスには理解できなかった。ただ、また手を動かし始めたときのノアの表情は悲しげにではあったが微笑んでいたし、灰色の瞳にも優しげな光が輝いていた。

「残念ですね」

「えっ?」

「せっかく見つけたと思ったのに」

「そんなこと言わないでよ。実は少し俺もほっとしてるんだ。近い将来学園を去ることにならなくてよかったって。君ともっと……」

「クリス様」

「何?」

「グラスが落ちそうですよ」

「えっ?あっ、ありがと……」

 ノアが自分の言葉を遮ったことに、クリスは直感的に気が付いた。だから敢えてクリスも続けようとしなかった。なぜ言わせてくれないのだろう。照れ隠しのつもりだろうか。それから食器を洗い、冬休みの宿題を一緒に片付け、お茶を飲み、共にベッドに入るまで、二人は他愛のないことばかりを選んで話し続けた。灯りが消えて、互いの顔が見えなくなったとき、絡めた指先の冷たさばかりが互いの存在の証となったとき、クリスはようやく呪縛から解放されたような気がした。今なら語れると思った。恐らく、ノアの表情に何かしらの責任を負わなくてすむから。

「今夜は同じ夢が見られるといいですね」

それでも一足早くノアが言葉を放つ。

「……そうだね」

何の感慨もなく、クリスは緩く握った拳の甲を額にあてて同意した。二人が同じ夢を見る意味とは一体なんだろう。

「でも、夢ってすぐに忘れてしまいませんか?朝起きたときには気分だけがそのまま残っていて、後は何にも覚えていなくて」

「そうだね。そういえば、今まで見た夢のことってあまり覚えてないや」

「だから、今夜は一緒の夢が見られるといいですね。そうしたら片方が忘れても、片方が覚えていられるから」

結局二人はそれきり黙したままだった。クリスは何も聞く気をなくした。ただ、二人並んで同じ夢を見る、そのことばかりについて考えていた。その行為の意義も、夢を覚えていなくていけない理由も、どんな夢ならば二人を結びつけるのかも。思案する中で夜が更けていった。やがて真夜中を告げる鐘の音が響く。その荘厳な音に交じって、今夜は強く吹く風が木々をざわめかせ、窓を震わせる音を、クリスは微かに聞いた気がした。

 そっと胸元に手を忍ばせ、取り出したのは水晶の指輪だった。この暗闇の中でも僅かな光を受けて見惚れるばかりの輝きを放っている。なぜ生徒会役員の指輪を付けているのか訊かれたくなくて、更にもっと言えば薫との関係を気付かれたくなくて、年が明けてからはずっと紐を通して首から提げていた。ただノアが寝静まってから一人物思いに耽るとき、こんな風に取り出して眺めたり、薬指に嵌めてみたりすることはあった。床に散らかした百人一首のカードのように胸に散らばった雑念を、指輪がまとめてくれる気がして。また左手に乗せて見つめ続ける。その光の中に、クリスは何を見たのか。


***

 それでも夢のような時は終わるから。命と水に満ちた森を抜けて人はいずれ荒野に出でる。そして果てしない暗黒の中をさまよい続ける。人間の本来の居場所は、所詮そんな場所なのだ。


 僕は今日息子を亡くした。妻を二十四年間に渡って苦しめた病気は、息子を二年ほど苦しませてそして殺した。僕だけが生き残っている。惨めな「健康」なんてものを引き摺りながら。僕には何も残されてはいない。僕は持っている希望全てを失った。もう僕は何も描けない……しかし、僕は学生時代に既にこの絶望への対策を考え出していたではないか。そのための犠牲が必要である。僕と、そして深い闇に心を明け渡した少年が。



 水晶を融かしたような海を見つめ、自分を憐れむ声を涙一つ流さず聞いていた。海辺の墓で、幼くして両親を失った幼い少年の姿に誰もが同情し、その行く先を案じた。しかし、クリスにとって未来とは虚無であり、何の意味も持たなかった。虚無という言葉を知らない時代の彼は、ただ胸の中で未来と過去の重さを比べてみただけだった。何もない未来――見通しのない暗闇の世界と愛情に囲まれていた輝かしい過去。もちろんその比重は言うまでもない。

「まあ、碌なことにはならないと思ってたけど、まさかこれほどまでとはねぇ……」

湿っぽい葬式の中で幾度か聞いた、白けて乾ききったような声にも、クリスはますます未来の陰鬱さを思い知らされた。葬儀に参列した父親の親戚たちはほんの僅かに過ぎなかったけれども、彼らとて、両親の反対を押し切って外国人を妻とした父を決して許してはいなかったのだ。イギリスにいる母の親戚たちもそういった事情に配慮したと見えて、クリスにとって叔父と叔母にあたる夫婦だけが来日していった。二人にはクリスも以前一度だけ会ったことがあり、叔父の青い目を見ると、クリスは凍りついた心の中に少なからず親近感を覚えた。自分と、そして母と同じ瞳だ。しかし、それでもクリスは救われなかった。クリスは相変わらず闇の中にいた。

「本当に哀れなこと……」

 やがて夜の帳が落ち、波の一つ一つに星が煌き始める。生きている者は撤退を強いられたはずの場所で、クリスは墓石の影にじっと身を潜めていた。恐怖は感じなかった。今、クリスがひれ伏すこの土の下に眠る人は、ひたすらに優しい人たち、愛を注いでくれた人たちであった。例え亡霊となってでも出てきてくれればどんなによいか。クリスはぽろぽろと零れる涙の痕が、睫毛の直ぐ傍で夜気に冷やされていくのを感じた。なぜ両親は自分を置いて逝ってしまったのだろう?なぜ自分も一緒に死ななかったのだろう?こんな世界に一人だけ残されて、自分はこれからどうやって生きればよいのだろう。頼れる人もなく、愛する人もなく、一欠けらの希望さえない。このまま一晩をここで過ごせば死ぬことができるだろうか?それとも死ぬためには、幾日もの飢えと乾きに耐える必要があるのだろうか?両親はいとも簡単に死ぬことができたのに?いっそあの海に身を投げ入れれば……

「いけないよ」

ふらつく足で立ち上がり、虚ろな目で波を掴んで海の方へ歩み寄っていくクリスを、静かな声が止めた。クリスは振り返った。その声に聞き覚えがなかったにも関わらず、クリスは一瞬、背後に父の姿を期待した。声の正体はもちろん異なっていたが、父の亡霊がそこにいたよりも、その人物の存在はクリスにとって異様なものだった。子供が一人墓地にいて、しかも投身自殺をはかっているというのに、この冷静さは一体何だろう。真っ直ぐな体の痩せた男だ。ほとんど青年といってよいぐらいの歳に見えるが、無表情でいるために若々しさというものは感じられない。生きているようには思えず、かといって死んでいるようにも思えない。全身が銀色がかって見えるのも果たして月明かりのせいなのだろうか。男は再度口を聞いた。

「自分を殺してはいけない。自分を殺した者は木となってアルピエにその身を啄ばまれる、地獄でね」

「アルピエって?」

「ハーピーのことだ。上半身は女で下半身は鳥の姿の怪物だよ」

「ふーん……」

クリスは男をじっと見返しながら、ぼんやりとその怪物の図を頭に思い描いていた。女の上半身を持つといっても、きっと醜悪な顔をしているのだろう。いずれにせよ、両親が地獄にいるはずがない。自殺では両親と同じところには行けないのだ。クリスは海へ向かっていた足を今度は反対方向へ向けて、男の方へと歩き出した。男は微かに笑った。

「死ぬのが怖くなったかい?」

「別に」

「死を恐れるのは心が健全な証だと言うけどね」

「僕は父さんと母さんのところに行きたいだけだもの。誰かが僕を殺してくれなきゃ……」

「悪いけど、僕にその役目は果たせないよ」

「だったら、やっぱりあの時に一緒に死ねばよかったんだ。一人残されても辛いことだらけだもの。ねぇ、僕には歳をとるまで行き続けるしかないのかな?貴方は死んでいるの、生きているの?」

「……死者は蘇らないよ、決して」

男は笑みを崩してそう呟くと、音もなく身を返し、墓地の奥の更なる暗闇へ紛れようと足を進め始めた。クリスはためらわずにその後を追っていったが、男の方も特に止めようとはしなかった。最初の内は白くぼんやりと浮び上がっていた墓石も次第に消え、足元に踏む草の豊かな土も、ある時から石畳の道に変わっっていった。しかし、今どんな場所を歩いているのかは闇が覆ってしまって分からない。ただ、クリスの前には男の細い背中があるだけで、四方は全て沈黙と暗黒に閉ざされていた。これが死への道だとしたら、それはどんなに素晴らしいことだろうかとクリスは思う。静かで痛みも苦しみも伴わない。足を動かしても疲労も沸かない。クリスの心はかつてないほど穏やかだった。

 突然、頭上に星空が戻ったのは、随分長いこと歩いた後であった。間もなく、クリスは星空を遮る白く巨大な影に気がついた。最初は積み上げられた墓石かと思ったが、どうやらそうではない。塔のようだ。その堂々とした頭に鐘を頂いていて、いかにも荘厳に夜空に聳えている。男が塔への入り口となっている装飾のある門を示したので、クリスも続いて塔の中へ入った。塔の中は空洞となっており、円になった壁に寄り添って螺旋階段がどこまでも続いている。男はもう大分上を歩いていた。ここまで来たからには最後までついていくつもりだった。クリスは階段をのぼりはじめた。

 足元は薄暗かった。ガラスのない窓が等間隔で細長い光を投げかけてはいるのだけが、唯一の灯りであった。しかし、幼いクリスは格別に警戒することもなく、ひたすら頂上を、男を目指して上り続けた。男はクリスより二段ほど高い円を巡っている。彼が何かを見せようとしていることにクリスは気付いてきていたが、まるで見当はつかなかった。それは恐ろしいものだろうか。それとも美しい、希望を抱かせるようなものだろうか。答えはあの白い丸天井の上にある。そして、時間や距離に対する感覚がクリスから一切奪われた後で、ついに答えは示された。

 クリスははっと息をのんだ。美しく、しかし同時に恐ろしいものが、何の前触れもなく目の前に現れたからだ。クリスが訪れたのは、いくつものアーチ型の窓に囲まれた円形の部屋で、巨大な水晶が天井から垂れ下がっていた。その輝かしい結晶のうち、最も大きく真っ直ぐ床に伸びたものが、部屋の中央にある円柱と繋がっている。床も壁も一面白く、水晶は月明かりや星の光を受けるでもなく自ら輝き、光の波を部屋の至る所に投げかけている。部屋の入り口に立ち唖然とするクリスの顔にも、円柱に手を寄せ、水晶を見上げる男の顔にも。

「こっちへおいで」

男が呼んだ。クリスは言われた通りに歩み寄り、背後から両肩に彼の手を受けて再び水晶を仰いだ。その瞬間にも、水晶はオーロラのように光の色と形を変えていく。

「美しいだろう?」

男の問いかけにクリスは頷いた。何か言いたくてもそれが精一杯だった。

「あれは世界で最も美しいもの、世界で最も光り輝いているものなんだよ。あの水晶は、この世界の全ての人の憧れであり、夢であり、この世界の全ての人を支配するものなんだ。僕が完成させた。僕がやっと形にしたんだ。たった一つの筆で。僕の願いをこの水晶が叶えてくれる……」

それから男は不意にクリスの肩に涙を落とした。クリスは振り向いてその顔を見上げた。男は手の甲で涙を拭って笑いなおした。

「すまない。でも、悲しくて泣いてる訳じゃないんだ。ただ、夢が叶った時のことを思っていたんだ」

「貴方の願いは何なの?」

クリスは聞いた。男は笑ったまま答えない。

「ねぇ、貴方の願いは何?」

「……僕の願いは死んだ息子を蘇らせることだ」

「息子?」

「そうだ。病気で死んでしまった。大切な大切な僕の子供だったのに。僕の光だったのに。クリス、僕たちは似ているね。二人とも大切な人を亡くしてしまったのだから。ただ、失った人たちを蘇らせられる力を持っているか、そこだけが違う」

「なんで僕の名前を知ってるの?……蘇らせるってどういうこと?……だって、貴方は……」

水晶のシャンデリアの上で揺れる鐘の音が、クリスの言葉を遮った。真夜中を知らせる鐘、日が変わる瞬間、それでも夜は終わらない。男の微笑が色のない光の中で怪しく閃いた。男は片方の手をクリスの肩に乗せたまま跪き、水晶を指してクリスの視線を誘導させると、耳元で誰かの名前を囁いた。誰だろう?知らない名前だ。僕はそんな名前の人間ではない。いや、僕の中に彼がいるのか。クリスの青い目の色は、次第に水晶の光に呑みこまれて虚ろになっていく。でも僕の名前はノアじゃない。僕は――



 世界が真っ白になり、また暗く閉ざされて、酸素に満ちた重たい液体がクリスの肺に流れ込んできた。クリスは水の中で目を開けた。水面から差し込む朝日のような優しい光が、クリスに向かって微笑む少年の顔を歪みなく映し出していた。クリスと少年は手を繋いでいたが、クリスが浮かび上がっていくのに対し、少年の方は水底へと沈んでいこうとしていた。クリスは手を離したくなかった。その少年に対し今まで一度も愛情を感じたことがなかったにも関わらず。そんなクリスを見て、少年は口を開いた。

「手を離して。僕は貴方のために行かなければ」

「僕のためって?」

手を離すまいとますます必死になりながら尋ねる。答える少年の声は穏やかだった。

「貴方が生きるために。そして僕が生きるために。貴方は弱さを捨てて強く生きられる――僕はそれを心から望んでいます」

「君は……君は誰なの?」

「僕は……」

二人の絆は辛うじて指先で繋がっているだけになっている。もう間に合わないことは分かっていた。それでも最後の瞬間まで、クリスは爪の端にまでこめた力を緩めようとしなかった。二人の手がそして離れていく。少年は相変わらず微笑みをとどめたまま、底に沈んでいく。その身が水底の闇に染められていくにつれ、その髪と目の色が鮮やかになっていった。浮かび上がって行くばかりのクリスは、間もなく空気に触れようとしている唇を動かし、この水の隅から隅にまで届くよう、めいっぱい叫んだ。

「待ってて!」

灰色の小さな光だけになった少年の目が驚きにきらりと光った気がした。

「待ってて!必ず迎えに行くから!今度は僕が助けに行くから!」


「でもその時には、君たちはもう別々の人間になってしまっているだろう。二人は永遠に離れてしまった」


「それでも僕は行かなくちゃ……!」


暗闇の中に置いてきた君を、僕は決してそのままにしておいたりしない。必ず僕は迎えに行く。そして、絶対に君を助けるから――


***

「君を助けるから……」

 浴槽から顔を出して、クリスは濡れたままの唇で呟いた。今あげた水しぶきが、湯から出したばかりの火照った肩や腕に零れかかった。額に張り付いた前髪をかきあげる。誰かとそんな約束をしたような気がした。でも、まさか。そんな大々的で気障な約束なんてするはずがない。漫画やアニメではあるまいし。しかし、風呂の中に顔まで浸している時、そしてしたはずのない約束を呟いた時、心に光のさすような、懐かしい気持ちになったのはなぜだろう。分かるはずがない。今のクリスには。

 クリスは防水加工済みの時計を見て、かれこれ一時間近く風呂場にいることに気がつき、慌てて浴槽の縁に裸足をかけた。今朝は何となく目覚めが悪く、珍しく朝風呂を使ってしまったが、ノアはとっくに朝食の支度を済ませて待ちきれないでいるに違いない。クリスが超特急で着替え、最後にセーターの袖に腕を滑らせたその時だった。コンコンと扉を叩く音がして、クリスの名を呼ぶノアの小さな声が聞こえてきた。

「……クリス様?」

「ごめん、有瀬!俺、色々考え事しててさ。なんか今日見た夢のことを思い出そうとしてたら頭がこんがらがっちゃって……今行くから、あと少しだけ……!」

「クリス様、父が理事会を追放になりました。昨日のことです。父はもう理事長でありません」

「……えっ?」

自分の耳を信じられず、クリスは扉を開けた。エプロンを装着しておたまを持ち、ノアが洗面所の前に立っていた。特に憔悴した様子もないが、動揺したその名残がノアの表情の中に認められた。

「有瀬、今なんて……?」

クリスはごくりと唾を飲んで言った。声が掠れる。ノアは囁くように返した。

「父が理事長をやめなければいけなくなったんです。昨日の理事会でそう決定したそうです。父はもうこの学園に対して何の権力も持たなくなりました」

音をたてて床に落ちたおたまの凹面に、朝食を並べられた二人の居間が映りこんでいた。




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