第二十三話 少年たちの世界
休日の校舎が珍しく賑わいを見せている。文化祭も一週間後の迫った土曜日のことだ。基本的には部活や生徒会以外の休日活動は禁止されている三宿学園だが、文化祭前だけは特別で、一週間前からは休日でも準備をして良いことになっている。いつもより少しラフに着くずした制服姿に、中に詰めるものが少なすぎて肘ではさむと潰れかける鞄を持った生徒たちのざわめきは、興奮と楽しげな焦燥感を以って、さざなみのように学園中に広がっていた。2年A組の教室もその波紋からは逃れられず、40人のクラスメートたちは、それぞれ紙の皿とプラスチックのフォークを手に、胸に溢れ来る感激をどう表現したものかと悩み悩んでいるところであった。
「こんなのでよろしければ、作り方は教えられますけど」
「無理!絶対無理だって!俺たちにこんなのができるはずがない!」
それが言い表せる精一杯だったのかもしれない。ノアの謙虚な言葉に、すぐさま一人の生徒が返して言った。
「いえ、意外と簡単なんですよ。普通のチーズケーキ作りの課程にほんの少し手を加えれば……」
「おい、石崎!」
皆に囲まれて賞賛の言葉を浴びるノアを満足げに見守っていたクリスは、来夏の呼び声に振り返った。どうやら実行委員会の方で招集がかかったようだ。クリスは教室の雰囲気を壊さないように、あまりのチーズケーキをがつがつと貪る菜月に簡単に用件だけ伝えて、来夏と共に廊下へ出た。二人の移動は当たり前のように駆け足で、ただ副校長に見つからなければよいのであった。
「えっと、今度は何?」
クリスは舌を噛まないよう慎重に言った。
「予算書の見直し。昨日ちゃんと提出してくれたよな?」
「うん。でも、まだ今日と明日で買わなきゃいけないものが増えるかも。材料費なんてほとんど当てにならないし……」
「その時はその時だ。あっ、カフェテリアの机と椅子は予定通り借りられそうだぜ」
「なら、よかった」
ちょうど鳥居先生の姿を前方に認めたので、二人は急激かつ自然に速度を落とした。鳥居先生は目の前の書類に夢中で、幸い二人には気がついていなかった。しかし、その幸いというのも結局二人にとってに過ぎず、鳥居先生は間もなく教室から飛び出てきた副校長と衝突し、生徒同様叱られる羽目になった。
「あーあ」
クリスが思わず呟くと、来夏は微かに苦笑してみせた。
「まっ、おかげで俺たちは副校長に見つからずに済んだけど」
会議室では、颯によって予算書について簡単な補足説明を受け、各自足らないところの手直しをするよう命じられた。颯な几帳面な赤い文字は、全ての代表者の顔に青さを滲み浮かばせていた。クリスと来夏も例外とはならず、細かい指摘には思わず絶句する他なかった。クリスの特に苦しいのは、部屋を去り際の颯のウィンクによって、一切の苦情を禁じられたことだった。
とりあえず予算書は来夏に任せることにして、クリスはカフェテリアに向かって2Aの文字が書かれたシールを約十五台の机と三倍の数の椅子の脚に張る仕事に勤しんだ。それから再度教室に戻り、ノアに指導を受けたクラスメートたちが、様々な台所用品を手に試行錯誤を始めるのをうかがって、また提出用の書類をいくつかまとめ、休憩時間になってようやく手を休められるようになった。
「クリス様、お疲れ様です」
ノアが弁当箱を手に駆けつけてきたので、クリスもこわばった筋肉を動かして笑った。「ありがとう、有瀬。有瀬の方も色々大変だっただろ?」
「いいえ、僕はちっとも」
クリスはノアの髪についた小麦粉を指で払ってやった。
「今日はどちらでお弁当を?」
「あっ、うん、今日は教室で食べるよ。昼休み中に絵を一つ完成させちゃいたいから」
「まだやるんですか」
ノアは垂れ気味の丸い眼を瞬かせて尋ねる。クリスは弁当を受け取って頷いた。
「うん……でも、完成するかどうか。千住先生が望んでくれた個展だからさ、千住先生の好きそうな絵を描きたいんだけど、なかなか上手くいかなくて。今日先生が来てたら、色々聞いてみようと思ったんだけど、土日は来てないっていうし。本当に個展になんかできるのかな……」
千住先生の好きそうな絵を描きたい、この思いだけはまさしく本物であったし、純粋であると胸を張って断言することができる。瞼の裏に、あの優しげな落ち着いた大人の男性の横顔を思い浮かべながら、クリスはぎゅっと胸元のシャツを握った。だが、なぜ薫の期待に応えたいのかというと、顔を真正面に向けて答えるには、少々難しいところがあった。薫が個展を望んでくれたから、という理由は既にクリスの中では随分白々しくなっていた。薄々でもなく、クリスはもう感づいている。自分は、きっと……
「……大丈夫ですよ」
クリスの思考を遮るように、ノアが言った。
「大丈夫ですよ。クリス様なら、きっと最高のものが作り出せます。そんなに思い悩まないで、感性の導くままにやってみてください」
クリスはいつの間にか俯けていた顔を起こす。冬の日差しの中に見えたノアの微笑みは緩やかだった。
***
「あっ、颯だ」
「あっ……ナツ」
すぐさま袖にすがりついてくる菜月に颯がいまいち良い顔をしなかったのは、菜月に会いたくなかったからというよりは、自身の格好のせいだった。尼そぎにした颯の髪型は男にしてはかなり珍しいものであったが、今回はそれを上手く友人たちに利用されたのである。背が高すぎるだとか、裸眼では暗闇の中で身動きすらとれないだとか、合理的な理由を散々あげたにも関わらず、クラスメートたちはそのまま颯を座敷童子に指名してしまったという訳だ。3年A組とB組が合同で行うこのお化け屋敷には、座敷童子やらドラキュラやら狼男やら、思いつく限りの怖いものを好き勝手に詰め込んだため、まるで統一性のない、それでいて客を驚かそうとする点では抜かりのないものに仕上がっていた。
「座敷童子でもやるの?」
「まあ、そんなとこだけど」
浴衣だ、と言って、女物の紫の浴衣を興味津々に見つめる菜月に、颯は溜息をついた。
「どうせだったら、ナツがやった方が似合うのにね」
「……僕の背が低いって言いたいの?」
「ナツの方がかわいらしいって言いたいんだよ」
「別に嬉しくないもん。颯だってかわいいよ」
「かわ……」
その時慎に呼ばれて振り向いていなければ、颯は頬が赤く染まり行く様子を菜月に目撃されるところであった。何を自分は慌てているのだろう。自分より年下の者にかわいいと言われて(しかも自分は男であるのに)、思わず頬を染める奴がどこにいるだろう。いや、むしろこの感情は照れというよりは気恥ずかしさの方に近いのだろうが。慎の用事にも適当な生返事ばかりして、颯はようやく落ち着きを取り戻し、菜月の方を振り返った。
「あっ、ごめん、ナツ……」
菜月は颯が振り向いてもしばらくは誰もいない空を見つめていたが、ふと暗示から覚めたような眼で颯を見つめると、ふいに纏わり付いていた裾の手を取り、強い力でぎゅっと握った。
「ナツ、痛いんだけど……」
しかし、菜月は黙ったままで一向にその手を緩めようとせず、やがてひらりと軽やかに身を返して何も言わずに去って行った。
颯はしばらく唖然として彼の後姿を眺めていたが、はっと我に返ってから後を追うものか追わないものかと激しく葛藤した。慎が後ろで呼ぶ声がする。恐らく先ほど陽が提出して――というよりも、慎にむかって投げつけていった――書類に不満があるのだろう。菜月の汗で湿った手の感触がまだ指の合間合間に残っていた。
「おい、颯!」
「ごめん、慎、ちょっと!」
颯は素早く駆け出した。規律重視の彼からはとても想像できないスピードで。慎はいらいらと教卓の隅に叩きつけていた人差し指の動きを止め、「かわいい、か」と一言呟いたのであった。
***
無言で背を向け合い、片や丁寧に楽器を磨き、片や一仕事終えてイヤホンから流れる音楽に聴き入っている彼らは、そうしているだけで言いようのない充足感を覚えるようであった。冷たい冬の風も、唇を乾かす温風も流れぬ音楽室であったが、不思議と快適で居心地がよく、二人はついつい一つしかないピアノの椅子に長いこと腰を落ち着けたままでいた。しかし、身を預けあう安寧だけはいくら過ごしやすい部屋とて到底演出しきれるはずがない。かつては自分のものであった楽器が、白い布の下に滑らかな琥珀色の肢体を晒していくのをピアノの黒光りする皮膚の上に見つめながら、陽は口元を緩めた。
「どうかしたか?」
唇を漏れる微かな音でも聞いたのか、茘枝がすかさず尋ねた。
「何も」
そっけなく、しかし笑いは相変わらず留めたままで答える。
「どうせよからぬことでも企んでるんだろう?」
「へぇ。例えばどんな?」
「私が考え付くようなことなら君はしないさ」
「まっ、オレの思考回路も温室育ちのお坊ちゃまが追いつくほどには出来ちゃいねぇもんな」
茘枝は密かな呟きを諦めたような笑いに紛らわせた――そうは言ったって、結局大差ないくせに。陽は自分や颯、時には慎のことも(慎と一緒にされるのは茘枝にとって相当不服であるのであったが)、世間知らずな御曹司のように思っている節があり、特に恋人である自分に対してはそれが顕著になるのであったが、茘枝が少しも気にしない様子で受け入れているのは、例え世間のことについては多少陽の方が詳しかったとしても、雨にも風にも当てられないように育てられたという点では、ほぼ同等だと知っていたからだ。しかし、本人一人そのことに気が付かず、自分を甘やかしたり、からかったりする陽が微笑ましくて、とても指摘するような気にはなれないのだ。陽はいつも、茘枝の方が一枚上手なことに気がついていない。そういえば、あの時も……
「何考えてる?」
「さあ」
今度は陽が尋ねたが、茘枝は楽器を拭く手を止めないまま、少し首をかしげて肩をすくめた。
「仕返しのつもりか?」
「まさか」
「だったら言えよ」
「口に出して言うほどのことでもないさ。とりとめのないことだ。それ以外話題がなくなったら話す事にする」
「……おまえって嫌味な性格してるよな」
「そんな風に思われるなんて心外だな」
「ああ、そうかよ」
茘枝はケースに楽器を収めて、二人で共有していたスペースから優雅に立ち上がった。陽に横顔をじっと見つめられたときのくせが出て、右手は勝手に艶やかな黒髪を梳く。時刻は午後一時三十分。腕時計も音楽室にかかった壁の時計も、その点に対しては異存がないらしく、二組の時計の針はぴったりと同じ角度を作っている。あと三十分ほどで弦楽部の練習が始まる。その前にコンサートマスターと話しておきたいことがある。陽がしつこく自分の顔を見続けているので、茘枝は鞄を拾い上げながら右手の癖を二度も三度も繰り返した。ふと目を合わせたその時、茘枝は初めて、前髪に隠れた陽の視線の中に批判的な光があることに気が付いた。
「どうかしたか?」
先ほどの言葉を、茘枝は無意識のうちに再度繰り返した。陽は無言だった。
「言いたいことくらいはっきり言ったらどうだ?」
茘枝は上げかけた右手を方向転換して、陽の頭上へ持っていったが、茘枝の忠告を素直に受け入れることにしたらしい陽によって、素早く掴まれてしまった。困惑したような茘枝は、一瞬の間をおいてたちまち元の席に引き戻され、そして陽の腕の中に収まった。茘枝は頬が一気に熱を帯びたのを感じたが、それは決して、陽の高すぎる体温から奪った温度ではなかった。
「陽……?」
一時しのぎであれ、すぐに冷静さを取り戻した茘枝は、陽の肩の辺りで呟いた。
「突然どうした?」
「てめぇ、さっき絶対自分の方が一枚上手とか考えてただろ」
「はっ?」
「惚けんな。分かってんだよ、てめぇのことは全部」
「……脅しのつもりか?」
「お前も少しは立場をわきまえろってこった」
まるで子どもみたいだ。少しバカにされたぐらいで怒って。こっちはきちんと掌の上で転がってやったのに。だが、陽の背中に腕を回したその時には、全身に痺れるような酔いと熱が回っており、最早どちらが上手なのか、どちらがどちらを操っているのか、茘枝には判断がつかなくなっていた。
***
「おい、大河内!」
声をかけるべきかどうかは迷わなかった。大河内孝則の後姿を視界に認めたとき、落合はすぐさまその肩に向かって駆け出した。大河内は全て分かりきったように振り返り、体を完全に落合に向けて微笑んだ。
「落合か……」
「何だよ、その『落合か……』っつーのは?」
「別に不服だった訳じゃない。文化祭の準備か何かか?」
「ああ。大の親友が実行委員なんざやってると、どうしてもさぼりにくくなって嫌なもんだぜ。それも二人もだもんなぁ」
大河内は和やかに笑い、落合と肩を並べ、傾きかけた日にきらめく中庭を、共に歩み始めた。落合はふと大河内を三宿海岸まで誘いだしたことを思い出し、覚え始めたばかりの戸惑いを持って大河内の記憶を呼び起こそうとしたが、大河内は分かっているとでも言いたげに、こくりと大きく頷いた。あの日のことをよく覚えているのは、拾い上げた浜辺の白い砂の中に、何か輝くものを見た気がして。
「それで、失恋は癒えたのか?」
「さあな……」
大河内は素直に答えた。
「そっちはどうなんだ?」
「んー、俺の方もよく分かんねぇや。でも、まっ、どうせ引きずってたってどうにもならならねぇし、ポジティブにいくことに決めたけどな」
「要は諦めどころだ。今でも時々、自分の手の届くところにあの子がいる気がする。そうすると、また未練がましく追いかけたくなる気持ちが出てきてつい引きずり込まれそうになって……散々苦しみぬいた後で、ようやく理性が思いを抑えつける」
「だったら、そんな苦しさがないだけ、俺は楽なのかもな」
何気ない顔で呟いた落合の、その悲しく自嘲的な声は、嫌でも大河内の耳についた。大河内はどこか憐れむような目で落合をじっと見つめたが、何の感情との関わりもなく泣きそうになる落合には、その視線が痛かった。確か彼も足を止める時が分からなくなったといった。深い愛情は百万人の先人が述べたとおりに彼を癒すどころか、彼を引き返せぬ場所まで追い込んでしまったのだ。いや、追い込んだのは自分なのか。まとまりのつかない話を、こんなところで蒸し返したくはなくて、落合は目をこするふりをして浮かんできた涙を拭った。いつの間に自分はここまで女々しくなれたのだろう。一生分の涙なら、流さなくてもいいように彼が唇で受け止めてくれたではないか。大河内は小枝でさえずる雀たちに突然興味を抱いたようだった。落合の前を歩いて、後ろはまるで振り返ろうとしなかった。
「……男が失恋の話ばかりしていては、みっともないな」
落合の自重を分かち合うように、大河内が前を見たままでそう言った。落合はメガネをかけなおし、呆れたように頷いた。
「全くだ」
***
普段以上にいらつかされることが多いにも関わらず、慎は文化祭という行事は決して嫌いではなかった。もちろん、神経を逆撫でしてくる輩に報いるために、楽しんでいる様子などはおくびにも出さなかったが。たまにはクラスにも顔を出してくれと懇願され、午後からであった休日出勤ならぬ休日登校を早めた慎であったが、七不思議事件以降、お化け屋敷の準備は着々と進んでおり、慎はさほど教室内の自分の存在に意義を見出せず、疲労しきった神経と凝り固まった肩をどうにかしたい気持ちもあり、今ではすっかり見飽きつつも足の運ぶままに生徒会室へと向かった。慎が教室の中にいないことに気が付けば、颯もじきに来るだろう。熱いコーヒーでも淹れてもらうとしよう。
と、慎は悪寒のようなものを感じて立ち止まった。いくら疲労が重なっていたとて、こうした大きな行事を前に風邪なんぞ引く訳がない。気が付けば、慎は鞄の中で一番重量のありそうな本を選び出し、背後へ投げつけていた。蛙が潰れるときに出すような悲鳴が聞こえた。
「……やっぱり、てめぇか」
「わ、分かってくださったなんて、光栄っす……!」
慎は振り返ってわざわざ被害を見遣るようなこともせずに、これで数時間ほどは静かな時間が過ごせるだろうとの確信の下、再び歩を進めた。ところが、生徒会室にたどり着いたとき、慎は、後ろから全身を引きずりつつもこちらに忍び寄ってくる不吉な音を聞いたのであった。
「てめぇ……警察に引きずり出されたいか?」
「ま、ちょっ、まっ、待ってください、慎様!わ、忘れ物です……教室に……!生徒会室の鍵……!」
鍵ならここにある、とブレザーのポケットに手を入れた慎であったが、おかしなことに手になじんだ金属の感触がない。慎は引きつった笑みをますます尖らせた。そういえば、先ほど何かの拍子に教室の机に上に取り出した記憶がある。ということは、明音が持っているその鍵は本物ということか……慎は決して感謝してはいないことを示しすぎたほど示した表情で振り返り、今にも天に召されそうな自身のストーカーから探し物を受け取ったのだった。案の定明音は泡を吹いて倒れたが、気絶の手前に慎の顔をアップで撮影しておくことを忘れなかった。慎は握り締めた拳に青筋を浮かべた。
「いい度胸だ……!」
それからふと、慎は強く固めた掌を広げる。赤くなった皮膚には、鍵の形が白くくっきりと残っていた。その痕から、慎は水泡の重みに沈んだ銅の鍵を連想した。そして、今では学園の誰もに忘れられた、波の彼方の少年のことも。
彼を思えば、鍵を渡してくれる人物がいるだけで幸せなことなのかもしれない――
自分の胸に起こった考えに、慎は忌々しげに鼻を鳴らしただけだった。足元で痙攣している奇妙な生物はそのままに、慎は鍵を開けて生徒会室の中に入り込んだ。その後、明音の「慎様……」との呟きが彼に聞こえたかは明らかではないが、慎は、空の花瓶の底に落とした部屋の鍵と、生徒会室の窓から望んだ風景に何を思ったのか、明音の身を引きずって生徒会室の中に入れてやった。途端に明音は目をぱちぱちさせて起き上がった。
「し、慎様……!」
明音は胸の前で熱烈に手を組み、今にも慎に飛びつかんばかりの勢いだ。親犬を前にした子犬のようなその様子に、慎は危惧さえ感じて急いで冷たい言葉を見つけて言い捨てた。
「勘違いするな。鍵を持ってきてもらった礼だ。三分経ったら出てけ」
「はい!もうなんでもいいっす!」
とりあえず慎の傍にいられるだけで幸福な明音は、慎の手からコーヒーカップをさっさと取り上げると、実に手際よくコーヒーの準備を始めた。明音の料理の腕を知っている人ならば、明音がコーヒー豆の瓶を開けた時点で逃げ出しただろうが、幸いにも慎はそれを知らなかったので、ただ少し感心したような素振りを見せてからいつもの指定席に腰をおろした。だが、明音がコーヒーを淹れている間はとてもゆっくりとくつろぐことなどできず、つい今片付ける必要のない書類を手元に取り寄せてしまうのだった。
「どうぞ、慎様」
ちゃっかり自分の分まで淹れた明音は、慎にコーヒーカップを手渡した後、角砂糖を砂糖入れにあった文だけ黒い液体の中にぶちまけた。慎の口元がぴくりと動いたが、慎は何も言わずにコーヒーを含んだ。それは奇跡的要因がいくつも積み重なった結果であることを、彼は知らなかったが、慎はなかなかよく出来ていると明音を褒めた。
「ありがとうございます!あの、ついでに写真撮っていいっすか?」
「早死にしたいのか?」
「すみません、何でもないっす」
ミルクと砂糖を大量に入れられて既にコーヒーと呼べなくなっている代物を、明音は喉を鳴らして、ジュースでも飲みように摂取していた。慎はカップの縁越しにその輝きに満ちたサファイアブルーの目を眺めやった。まるで鏡を見ているような気さえした――自分の目と同じ色だ。しかし、明音の持つ無垢な心は、千住家の色を自分などよりはるかに鮮やかに煌かせている。だから、きっと自分は、ヤマアラシが寄り添い合うような恐怖を知らずにこの少年に向かい合えるのだろう。それは果たしてよいことなのだろうか。
慎は砂時計をひっくり返していた。三分間きっちり計ってやろうと思って、勝手に茘枝から拝借したものだった。砂はとうの昔に落ちきっていたが、兄と弟が無知ゆえの安らぎに浸っている三分間は、まだ当分終わりそうにない。
***
来夏は重い左腕を持ち上げた。そろそろクラスメートに下校を促してもよい頃だった。会議室で実行委員の仕事に勤しんでいた来夏であったが、ここから教室まで階段をのぼらなくてはならないと思うと、何だか足を一歩進めることだけでもうんざりしてきて、この座り心地の悪いパイプ椅子にずっと腰掛けていたい気にすらなるのだった。それでもクリスが個展の絵の仕上げのために不在な今は、自分が行かなければならない。突然立ち上がったせいで足元がふらつき、細かい数字ばかり相手にしていた目と頭とが、空中で二度も三度も回った気がした。上から漂ってくるチーズケーキの匂いだけで胃がむかつく。調理班はついにケーキ作りに成功したようだ。
不思議な調べを聴いたのは、そんな頭で廊下を突っ切っている時だっただろう。来夏は思わず足を止め、音が零れ出てくる方に顔を向けた。麻痺しきった脳を内側からほぐしていくような柔らかな歌声、包み込むように優しいピアノの音、あの従姉弟を除いて、はたしてこんな音楽を作り出せるものがいるだろうか。来夏は声をかける気はなく、ただ音楽室の防音扉が少し開いていたのをいいことに、そっと顔をのぞかせた。途端にピアノの音がやんだ。
「マオ、20小節目のリズム、少し違うわ。楽譜、見て」
上達した日本語でアニエスが歌うように言った。真央は催眠術にでもかかったような顔でこくんと頷き、指摘された箇所からまた声を出した。ミュージカルの主役に選ばれたということで、人一倍練習に励んでいるのだろう。来夏は顔を引っ込めた。邪魔はしたくなかったからだ。扉の前に立ち、来夏は何か次第に理解しつつある気持ちを胸に、真央の歌を聞いていた。自然に頬が緩んだ。愛おしい、真央が――澄み渡った歌声は波のように後からも後からも追いかけてくる。
「守ってね、真央を。お願いよ……」
いつしかアニエスが涙ながらに自分に頼んだ。戸惑いながらも受け入れてしまったその頼み。彼女が守ってと頼んだものはなんだったのか。真央自身であったのか。それともこの美しい歌声であったのか。そうだ、忘れがちになっていたが、真央の声は今この瞬間にも、残酷な病魔に蝕まれつつあるのだ。しかし、来夏は医者ではないし、将来そちらの方面に進む予定もない。もちろん、病魔と闘うような術は持っていない。来夏にどうやって真央の声を守れというのか。やはりアニエスは、真央自身を守ってくれと来夏に頼んだのか?なぜ?真央を襲いくるものが、病魔のほかに何があるのか。そして、例えそのようなものがあり、自分がそれを見つけたとして、自分に戦い抗う術があるのだろうか。いや、自分はなんとしても見つけなければならない。何があっても、必ず……待て。
「マオ、最初から通すわよ」
真央の稚拙な英語の発音を聞いていた来夏は、ある考えに思い至ると、ぞっとして思わずその場を離れた。美しい調べ、人を癒し歓喜に導く音楽――来夏も今、全ての疲労を現れたような気がしていたのに、恐ろしい考えがその効果を追い立ててしまった。真央への愛情さえ、恐怖にすっかり踏みにじられていた。もしや、アニエスは、声の出なくなった後の真央を自分に任せようとしているのではないだろうか。名声と栄誉を失った後の真央を世間から守る役として、自分を選んだのではないか。
胸の奥では、虚ろな目をした真央が、声もたてずに笑いながら来夏を見上げていた。