第二十二話 三宿学園七不思議?・後編
「ジャクソン先生、あの何度もすみませんけど……」
「まあ、里見せんせっ。もう、貴方もせっかちねぇ。まっ、頼んでおいた服なら仕上げておきましたけどね。そこに置いてあるから、勝手に持っていって頂戴」
「あっ、ありがとうございます!今度チョコパフェおごりますね」
「じゃあこの間いったところの特大サイズでお願いね!」
「ところで、里見先生、それ誰かへのプレゼントですか?」
「えぇ、ちょっと友達に」
「ジャクソン!私の教科書見なかった?」
「あら、みちる。あんたの教科書なんて見てないわよ」
「げっ、あんたまだ服作ってたの?テストの採点は?」
「もう終わったわよ」
「信じられない……あっ、そうだ、桜木先生、林原先生が探してましたよ。音楽室の鍵を知らないかって」
「さあ、分からないわねぇ。私、今日の授業はずっと和室で行ったのだけど」
「ジャクソン先生、今度は誰がモデルなの?」
「ふふ、よく聞いてくれました、野瀬先生。今度のモデルはねぇ、慎君よ」
「……絶対断られるわよ」
「大丈夫。まあ、見ててくださいよ」
「ねぇ、ジャクソン、私の教科書は?」
「知りませんっ!」
もう何十回サインをしただろうか。文化祭前は仕事が多いので好きではない。いい加減手も疲れてきた。慎は一時間ぶりに書類から顔を上げ、疲れた右手を宙で振った。コーヒーはとっくに冷めている。新しいのを淹れ直したいが、湯を沸かすだけでまた時間がかかるし、今日は秘書役の颯もいない。冷え切ったコーヒーカップを持ち上げて一口すすり、思わず顔をしかめる。苦味がやたら舌についた。
扉の開く音に、慎はふと入り口に目を遣った。どうせ陽か茘枝だろう。それか、早々と調査を終わらせた明音か――しかし、入ってきたのは、実の兄、薫であった。慎の表情が一瞬揺らいだ。
「一人か?」
「兄貴……」
薫はくすりと微笑を零した。
「せっかく顔を見にきたのに、そんなに嫌そうな顔をするなよ」
「生憎今は手が空かない。歓迎を期待してたんだったら悪いな」
「……歓迎なら今だって期待しているさ」
扉の閉まる音、そしてそれに続いた小さなかちゃりという音に、慎は警戒心を起こさずにはいられなかった。嫌な胸騒ぎがする。しかし、まさか……唇に兄の指が触れた。慎は思わず青い目を細める。薫の親指が唇を解していく一方で、残りの指が慎の顎を撫で上げた。思わず肩が跳ねる。首の辺りに触れたのは、冷たい舌先の感覚。
「……兄貴っ!」
「ずいぶん頑張ってるようじゃないか。だが、たまには力を抜くことも必要だ」
「何を……っ」
「あの子に仕事を依頼したそうじゃないか。それでいい。兄弟というものは本来そうやって助け合っていくべきだ」
「あいつは兄弟なんかじゃない!バカ、やめろっ……!」
ふと首の付け根に走った鋭い痛みに、慎は強く目を瞑る。喉を抜けかけた悲鳴を潰したのは、せめてものプライドのためだった。分かっている。どうせ自分は兄に適わないことなど。だからこそ抗いたくなる。例え、実らなくとも、自分が完全に服従などしていない証として。
「やめろ!」
口元の指を強く噛むと、薫は諦めたように慎から離れていった。慎は途端に弾かれた立ち上がり、テーブルの横を過ぎて出入り口の傍に駆け寄った。兄との距離をしっかり確認しながらも、見えない視界で閉められた鍵に触れる。薫は指輪でも眺め遣るように、指の噛み跡を見つめた後、慎にむかってまた笑いかけた。
「ひどいな。ほんの少しからかっただけじゃないか」
何も他意なく見えるその笑みが、慎の恐怖を一層煽り立てる。
「まあ、傷口から言えばお互い様というところだな。邪魔をしたな、慎。俺は仕事に戻ることにするよ。教職員らしく、ね」
慎が散々手間取った鍵をいとも簡単に開け、その隣をすり抜けていくとき、薫はそっと自分が歯をたてた場所にキスを落としていった。兄の足音が遠くに去った後で、慎は制服の袖でその痕を拭った。白い襟に赤いかすれた液体が付着した。目を背けるようにしてブレザーの中に袖をしまいこみ、慎は少し息を切らして席に戻る。仕事を続ける気はとっくに失せていた。
決して拒みきれた訳ではないことを、慎は知っていた。歪み、うねり、絡まりきった兄弟の絆は、もう決して元には戻れない。兄にとって自分は必要な存在であったし、自分にとっても兄は不可欠となってしまった。例えこの醜い関係から逃れようとしても、兄が手繰り寄せれば、自分は引きずられていくしかない。今日は本当に慎をからかうつもりで来たのだろう。全て兄の予想通りに事は進んだのだ。こうして、いつまでも自分は踊らされていく。自分だけはなく、この学園の人間全てが。兄の手の上で。水晶の眩さの内に。
***
三宿学園七不思議
3、夜中十二時に南校舎二階のトイレの真ん中の鏡をのぞくと、死ぬ間際の自分の顔が見られる。
4、美術室の「農民の結婚式」の絵からは時々声がする。
3番目の話については、夜中十二時の話のため、目撃談はゼロ。ノアの報告でぐらついていた「幽霊はいない」の信条を、照れ隠しのためか早くも取り戻した来夏により、自分の死ぬ間際の顔がそれと判別できるはずがない、との指摘をいただき、一同は無視を決め込んだ。明音は今更依頼されたものとしての自覚がでてきたのか、それとも来夏の思想に触発されたのか、十二時まで学校に残って確認したいと粘ったが、森先生の目を潜り抜けて学校に居残ることはとても無理だとの結論が、落合によってすぐに出された。秋の日はつるべ落としとは言うが、冬が日をも冷たく凍てつかせる今、斜陽はとうに地平線の向こうに消え、不気味とも言える薄暗さが校舎を覆っている。一同は四つ目の謎を解明すべく、美術室へと足を急かした。
「失礼します」
万が一、花木先生がいた場合、顔が利くようにとクリスが先頭に立った。部屋のスライド式の扉をノックした後、開けた部屋から漏れ出してきたのは、蛍光灯がところどころ消えかけた廊下となんら変わりのない夕闇の色であった。もちろん、こんな中に花木先生は見出せるはずはない。クリスはためらいつつも、見慣れた部屋を進んでいった。
「うわぁっ!」
鈍い音がしたのは、明音がどこかの机の角に腰をぶつけたせいだった。
「暗いですね。電気つけましょうか?」
「電気なんかつけたら、出るものも出ないと思うけど」
ノアの提案も菜月に却下され、壁にかけられた絵の判別もまともにできぬまま、クリスたちは噂の絵を求めて散らばった。しかし、正直に言えば、ブリューゲルの「農民の結婚式」を知っているのか正直怪しいものもあり、そうした者は、ゴヤの不気味な「我が子を食らうサトゥルヌス」を突然目前に見て飛び上がったり、マルガリータ王女の愛らしさに思わず感嘆したりするのだった。クリスは半ば呆れながら壁の前を巡った。一体どこに「農民の結婚式」はあるのだろうか。
「クリス様」
ノアに突然耳元で囁きかけられ、クリスは飛び上がりそうになった。だが、ノアはそれに対しての弁明は特にしないで、押し殺した興奮を以ってクリスの手首をぎゅっと掴むと、やや強引にクリスを黒板の右脇へと連れてきた。クリスは思わず小さな声をあげた。気がつかなかった。こんな狭いスペースに、探していた絵があったなんて。「クリス様、耳をあててみてください」
クリスはノアにならって絵の表面の横顔をあてた。そしてどきりとした。声が聞こえた云々ではなく、ただ単に、ノアの唇が触れそうなほど間近にあったために。
「どうした?」
来夏が気付いて尋ねると、ノアは「しっ」と言って人差し指を口元まで持ち上げた。一体何があったのかと絵を探していた友人たちが集まってくる。確かに聞こえる。人の声。野太い男性の声が。声色が変わる。話者が変わったのだ。クリスは耳をすませたが、美術室の沈黙に乗せられて、次第にその眉の根は近づいていった。そう、確かに「結婚」という単語は聞き取れたのだが……
「おい、聞こえるのか?」
待ちきれずに落合が聞くと、クリスは気のない頷き方をして絵から頬を離した。
「まじかよ?」
「うん。だけど、なんか……違うみたい」
「はっ?」
「多分これって、こういうこと……」
ノアを片手で引き寄せると、クリスは耳を充てていた場所に今度は手のひらを押し当てた。金属が軋るような不吉な音が、静かな教室に響き渡る。最初に見えたのは、蝋燭でもともしたような小さな灯りだった。木屑のまじった薄茶色のほこりが立つ。ごほごほと咳き込む一同全ての耳に、その話し声というのは明らかにされた。ついでに、話し声の主たちも。
「おや、見つかってしまいましたか」
なんてことはなかった。ブリューゲルの絵は美術準備室に続く扉を隠すようにかけられていたのだ。準備室で話をすれば、まるで絵から声が聞こえるように思われる。たったそれだけのことで、恐らく四番目の七不思議に関しては、勘違いからきた噂話というよりは、このことに気がついた者が作り上げた話であったのだろう。ただ、この初歩的なトリックに気がついたクリスにも、小さな円卓におかれたランプの周りに計三名の男性教諭が集い、ラーメンをすすりながら談笑している光景など、とても想像できなかったが。
「校長先生、何してるんですか?」
「いや、ここは僕たち男性教師の溜り場でしてね。僕などは、妻と喧嘩して家に帰っても夕食が用意されていない日に使わせていただくのですよ」
「僕はほら、帰っても一人でさびしいからね……」
慌てる様子も恥じ入る様子もなく、悠長に答えた校長に、皆開いた口が塞がらない。橋爪先生も照れたように付け足すと、一同はますます混乱してくるのであった。準備室の管理人、花木先生は、来客を見るなり立ち上がって胸像やらパネルやらが立て込む方へ消えていったが、戻ってきた彼の手には、きっかり人数分のお椀が抱えられているのであった。
「お前らも、どうだ?」
「い、いや……遠慮しときます」
クリスは代表で答えると、全てをなかったことにするために静かに素早く扉を閉めた。疲れたような溜息が、皆の口を割って出た。だが、再び扉は開かれ、顔を出した花木先生はしっかりと鍋つかみまで装着していた。
「大丈夫だ。人数分あるぞ」
「は、はあ……」
最早、七不思議なんてどうでもよくなっていた。
***
「今日は変な一日だったね」
「はい」
「結局あそこでラーメン食べた後は流れ解散になっちゃったし。しかし、一体なんだったんだろうな」
「さあ……不思議ですよね」
ノアが電気のスイッチを押すと、今や新居とは思えなくなった家の寝室から灯りが消えた。代わって映えるのは、結露した窓の向こうに輝く町のネオンと反射する波の線。そして遠くの灯台と船にともった小さな光たちであった。クリスは顎を枕にしたまま、そんなぼやけた景色を眺めている。手についたままの絵の具をシーツに擦り付けてなんとか拭いとろうとしながら。ほんの申し訳程度の距離をあけた二つのベッドのもう片方では、ノアが灰色の眼でまっさらな天井を仰いでいた。
「クリス様」
「何?」
「クリス様は七不思議を信じますか?」
「……分からないな。俺は今までずっとないと思ってたけど。でも現に君が足音を聞いたって言うし。それでも七不思議のうちのほとんどはやっぱり確認できなかったし。俺はまだ幽霊を信じる気にはなれないな。理事長には悪いけど」
「なぜ父に悪いんです?」
「いや、どうやら信じてるらしいからさ、そういうの。あと、君もか」
クリスは折りたたんだ腕を頭の下にしまいこんだ。ノアはきょとんとしたようにクリスの顔を見ていたが、目が合うと口元に微笑をひろげた。ノアがこちらに向かって腕を伸ばす。握ろうと返したクリスの手は無視され、ノアの手はクリスの頬の辺りに触れる。
「クリス様は……優しいですね」
「何だよ、急に」
互いのシーツは冷たい。
「だって、貴方は僕を信じてくれるから」
「当たり前じゃないか。君を信じてるのは俺だけじゃないよ。関本も、酒本も、落合も、みんな君のことを信用してるんだよ」
「いいえ、僕は貴方が信じてくれるだけで十分ですから」
「何言って……」
子供のように胸元に顔を埋めてきたノアに、クリスは思わず言葉をなくした。「有瀬?」そっと呼びかけてみても、ノアは返事を寄越さない。ノアの頭に触れないよう慎重に顎を落として覗いてみても、親友の表情はうかがえなかった。彼が眠りに落ちたことを知る唯一の方法は、抱きしめるように背中に手を回してみることだった。クリスの唇は切なさに微かに開いた。
「君はずるいよね……」
思いついた言葉をそのまま紡いだ。柔らかなワインレッドの髪を指先で梳きながら、クリスは続ける。
「十分なんて言葉を使って、いつも求めることから逃げてばかりで。叱ろうとした途端にそんな風に甘え始めて。そんな手に引っかかってしまう、俺もきっとどうかしてるんだろうけど……」
暖房を止めたせいだろうか。水滴が零れ落ちて、窓の外の光たちが先ほどよりやや鮮やかに見える気がした。そういえば、最近のノアは何だか変なところがある。文化祭のことをプレッシャーに思っているのかもしれない。だとしたら、自分がしっかり支えていかなくては。
明日からまた忙しい日々が始まる。描きかけた絵も明日のうちの仕上げなくてはならない。
***
明音はその後一人で七不思議について調査を進め、かなり充実したレポートを慎に提出したらしい。おかげで七不思議の噂は消え、慎からも一応お褒めの言葉を預かったらしいが、写真を取らせてくれとの頼みは見事に断られたそうだ。クリスにしてみれば、一人でできるなら最初から一人でやってくれという気持ちだった。
買出しのリストを手に、一時は全く人気のなくなっていた北階段を下っていたクリスは、ふと背後に足音を聞いて立ち止まった。クリスが止まっても、足音は代わらず一定のリズムを刻んで追ってくる。まさか、七不思議なんてあるはずがない。現に明音が全て嘘だと証明したのだから。いや、だが、二つの怪談に限っては正直相当苦しい言い訳をしたと、後日明音が語ってくれた気がする。その階段というのが確か、音楽室の女性と、ここの足音の話と……はっとして振り返ろうとしたその時、クリスの真横を人影が通り過ぎていった。
「あっ……」
思わず目でその背中を追う。ふと彼が振り返る。
「千住先生……」
「おや、君か」
薫は足を止めると、クリスは緊張が解けた反動もあって、いつもよりずっとにこやかな笑顔を浮かべてみせた。薫も一層柔らかな微笑で返す。
「こんな所でどうかしたのかい?」
「い、いえ、何でもありません!ただ、足音が聞こえたから、誰かなぁって思っただけで、別に……」
「例の七不思議ですか?」
隠しきろうとして隠しきれてないクリスの右肩に、薫は手をまわして進みだす。クリスは指摘された途端、ぱっと頬を染めた。
「えっ、えっと、あの……!」
「恥ずかしがることないよ。僕も実は信じてるんだ、七不思議の噂」
「先生が?」
「何かおかしいかい?」
「だって、先生は化学の先生じゃないですか。非科学的なものは信じてないんだとばっかり思ってました」
薫は笑声をたてて、空いた手でクリスの頭を撫でてから言う。
「それは偏見というものだよ。確かに幽霊とかその手の話は科学では証明できない。でも、だからといってむやみに否定するものじゃない。ただ我々の科学が証明できる段階に追いつかないだけ、そういう考え方だって十分できるはずだろう?」
「えっと、俺は……」
それでも信じられない、そんな言葉をのみこんで、まるで今初めて会った人を見るように薫を見遣る。薫はクリスの返事を待っている様子もなく、ただ微笑んでいるだけだった。
「そういえば、石崎君はどこへ向かってるんだい?」
「あっ、町に買出しに行くんです。先生は?」
「僕は音楽室に少し用事が」
肩に置かれていた手が離れ、クリスは思わず顔を上げた。階段脇の表示には確かに2Fの文字がある。音楽室はちょうどこの階にあるから、ここで薫とはお別れだ。短い散歩だったな、とクリスは一人名残惜しく思う。
「じゃあ、車に気をつけて。帰りはなるべく遅くならないようにね」
「わ、分かってますよ。子供じゃないんですから……」
それでも遠のいていく薫を消えるまで見守り続けていた自分は、やはり子供とした言いようがなくて。彼が閉めた後の音楽室の戸のノブを掴んだ手も、自分の目には妙に頼りなく幼く見えて。昨夜寄りそってきたノアの心が、何だかいやに分かるような気がした。
「千住先生……」
「またいらしたのね。困った方」
「貴方こそ困った人だ。貴方が一人でピアノなんて弾いているから、生徒たちが幽霊だと怖がって噂をたてているんですよ」
「えぇ、マオに聞きましたわ。でも、仕方ないじゃありませんか。あの子の発表のためなんですもの」
グランドピアノ前に腰掛けていたアニエスは、立ち上がって両手を組むと、薫が歩み寄るのをはにかんだ様に、でも余裕と凛々しさを以って待っていた。里見先生に選んだもらった例の帽子は、もう大分季節はずれとなりつつあるが、それでもピアノの上にちょこんと乗せてある。薫にバレッタを奪われ、豊かな黄褐色の髪が自由になると、アニエスはほんの一瞬だけ、縋るような目で帽子を見た。だが、斜陽に投げかけられた二つの影が重なった後は、アニエスも不安を映した目を瞼の下に押し込んで、体温の求め合いに応じた。それは背徳でも過ちでもない、大人の男女の宿命と言うべきか。




