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第八話 地獄少年

 僕は職員室に入ると、背の低い初老の男性のいる机に向かって歩き、

「お仕事中失礼致します」

 と、笑顔で声をかける。すると、まず返ってきたのは舌打ち、次に僕を一瞥する冷たい眼差しであった。その後、彼――英語の大西先生は、机に顔を移し、

「なんだね?」

 と、一応、便宜上とばかりに僕に訊ねた。

 途端に痛む。胸が。暗い淵に落とされる。心を。

 しかしこれ以上、大西先生を不愉快にさせてはいけないと、僕は笑顔を保ち、

「大西先生、ラジカセをお忘れだったようなので。届けに参りました」

 と、用件を伝え、右手に提げたラジカセを差し出す。四時間目の授業終わり、大西先生は余程急いでいたようで、英語のリスニングに使う自前のラジカセを教室に置き忘れてしまったのだ。

「フン」

 大西先生は、鼻を鳴らすと僕の手から、ラジカセを物凄い力でひったくる。

 そして、『用が済んだら早く帰れ』と僕を睨む。

 感謝の言葉は、なかった。少し、期待していたのに、なかった。

 やはり、嫌われている。大西先生には。いや、大西先生にも。

 どうやら、僕に纏わる噂は先生方の耳にも届いているようで、それが原因で先生方からもあまり良い評価はされていなかった。一応、僕はこの純心高校には入学試験上位5位以内で入った特待生で、入学後も勉学に励み、中間テストでもしっかり成績は残しているのだが、それだけで評価するようなどうしようもない心根の持ち主ならば教師にはなっていないということだろう。社会に必要な素行の良さだとか、品性だとかそういうものもしっかり評価されるということだ。

 僕の場合、見た目と噂の時点で、その両方が駄目、ということなのだろう。きっと僕は先生方には『勉強だけでどうにでもなると思って好き放題している、社会に出たら絶対に失敗する奴』という風にも写っているのかもしれない。

 けれど、それは僕の所為だ。見た目なんて変えられる。この真っ黒い眼鏡はともかく、鉛色の髪を黒にするくらいならなんとかなる。それでいくらだって、先生の評価を変えることも、学校の人達の見る目も変えることは出来る。噂だって消えるかもしれない。

 しかし、そうしようとする度、思い浮かぶ、母さんの涙が。思い出される、ある日の寝言が。

 それが、引っかかって思い切れないのだ。そんなこと知らない人には――いや、知っている人にも甘えと捉えられるだろう。でも、僕は噂を立てられるより、人からどんな評価を受けるより、母さんの涙を見る方が、母さんにあの言葉を言わせる方が、辛いのだ。

 そして、そう思っている癖に、やっぱり噂も評価も辛く感じる、僕が悪い。

「邪魔だ。仕事に集中できん。用が済んだらさっさと消えろ」

 僕がいつまでも突っ立っていると、大西先生は苛立ち混じりにそう言い放った。

 僕は、はいと返事をして、さっさと職員室を出た。そして、僕はそのまま真っ直ぐ、教室へと帰る。

 ――ありがとう、聞きたかった。

 少し(よこし)まな性質(たち)だと、自覚はあるのだけれども、僕は『ありがとう』という言葉を、言うのも聞くのも大好きなのだ。『ありがとう』と言う時は、僕の為に誰かが何かをしてくれたということだから。『ありがとう』と言われる時は、僕が誰かの役に立てたということだから。

 だから、好き。

 けれど、現実というものは厳しいものだ。

 僕はそれを噛み締めながら、足元を見て歩き続ける。

 と、その時、僕のスラックスのポケットの中で、聞きなれた曲が鳴る。

 僕は慌てて携帯を取り出し、開くと、それをサイレントマナーモードに切り替え、辺りを見渡し、誰も気がついていないということを確認する。

 ふーと、僕は安堵の息を吐く。校則では、学校内での携帯の使用が先生に見つかった場合には没収ということになっている。ここは職員室前の廊下。かなり危ない場所である。

 僕はとりあえず場所を変えようと、廊下を駆け抜け、階段を駆け上がり、一つ上の階の男子トイレの和式トイレの一室に閉じこもり鍵をかけ、携帯を確認する。

 翔太郎からメールが来ていた。タイトルは『ゴメン』。

『ちょっと用事出来たから一人で食っててくれ』

 その内容を確認すると、携帯をすぐにポケットにしまい、さっさとトイレを出て、一階にある学食へと足を運ぶ。

 意図せず、嘆息が漏れてしまう。

 ……一緒に学食、楽しみにしていたのに。

 今日は木曜日。僕と翔太郎が定めた週に一度の学食の日なのである。尤も、定めたと言っても、木曜日に学食に行くという僕の中で元々存在していた習慣に、翔太郎が乗っかったというだけなのだが。

 けれど、そんな成り立ちでも、その日は僕にとっては特別な日なのだ。僕が、人から怖がられ、避けられ、『一緒にお昼食べよう』の一言すら言わせて貰えないこの僕が、学校で誰かと昼御飯を食べられる日だから。

 この日以外は、翔太郎は他の人と御飯を食べる。特定の誰かというのは、決まっていないらしい。日ごとに最初に誘ってくれる人達と――男女は問わずに――食べているようだ。

 そして、木曜日については、誰かから声を掛けられる前に人知れず僕のいるA組までやって来るとのことだが、今日は誰かに捕まったのだろうか。

「残念だ」

 つい声に出てしまった。それほど残念だ。

 せめて、お気に入りのカレー蕎麦でも食えば、元気も少しは出るかなと、僕は学生食堂へと進む足を速めた。




 相も変わらず広い学食には、相も変わらず多くの人で賑わっていた。

 5つのメニュー毎に仕切られたカウンターの前には五つの長蛇の列があり、その横に置かれた購買部にも人がすし詰め状態である。

 あのすし詰めの中で誰か怪我人が出てもおかしくないなと、流し目しつつ、僕は食券の販売機の前に行く。

 と、二つ並んで置かれた食券の販売機の前を陣取る形で、5人の男子が談笑していた。顔に見覚えがないから、恐らく上級生。正直迷惑極まりない。実際、少し離れたところで、女子のグループが彼等を見ながら互いに耳打ちしている。

 ……マナーは、守らなければならない。

 意を決して僕は、その男子達のうちの一人の肩を掴み、

「オイ」

 と話しかける。その人が振り返って、瞬間、途轍もないミスを冒したことに気がついた。それは、上級生にタメ口で話しかけたこと。

 失礼にも程がある。しかも、『オイ』はない。それに、肩を掴むのも。謝らないといけない。けれど、謝って許してくれるだろうか。だが、しっかりと言葉にしないと此方の気持ちも……と、あれこれ()()()考えていると、その男子の顔がみるみるうちに青ざめていった。

「あ……が……」

 彼の口は顎間接が外れたかのように大開になったまま、喉の奥から声にすらなっていない音が鳴る。

 僕の手に凄まじい振動が伝わる。彼の、身震い。

 そして、彼は遂に、

「ッ!?」

 失禁してしまった。僕は不意に掴んでいた彼の肩を離し、両手を上げる。他の四人の仲間達もさっと、その場から少し身を引く。広がる黄色い水溜り。

 嗚呼、母さんから入学祝に買ってもらったビジネスブーツが台無しじゃあないか……。

 違う。

 自分の靴の心配などしている暇ではない。失禁してしまったのだ、彼は。保健室に連れて行かねばなるまい。

 早く保健室へ、と言おうとしたその時、

「あぐっ……ひぐっ……」

 彼は泣き出した。当たり前だ。こんな大衆の面前で、放尿してしまっては普通はこうなる。兎に角急いで保健室へ。僕はそう思って、

「あの」

 と、彼に声をかける。すると、

「ひぎぃ!」

 逃げ出した。一端、自分の出した尿に蹴躓きながら、けれども一目散で。彼の仲間の四人も、顔を見合わせ、その後を追いかける。

 僕は、ただただ呆然としていた。怖がられるにしても、よもやこれほどと思うまい。

 逃げていった、彼のことが気がかりだ。しかし、僕が行くときっとさらなるトラブルになるだろう。

 とりあえず、ここの後片付けだけはしよう。

 そう思い、僕は購買機の右隣に置かれた、掃除用具ロッカーから雑巾とバケツを取り出そうとするが、

「い、い、い、良いです」

「わ、私達がやりますから!」

 先ほど販売機のすぐ近くで迷惑そうにしていた女子達が凄まじい速さで、雑巾やらバケツやらの掃除用具を手に取り、床に張った尿を掃除し始める。

「いや、あの」

 女の子にこんなことをさせる訳にはいかないと言おうとした。

 だが、

「靴も拭きます!」

 それを遮る形で一人の女子がそう言うや否や汚れた僕の靴を拭き始めた。

 いつの間にか、学食に来ていた人達の殆どが、野次馬根性むき出しで、僕のことを囲むようにして集っていた。視線が、痛い。周りが、ざわつく。

 ――怖えー。あの灰髪、噂通りやばい奴だな。

 ――てか、漏らした奴、真島(ましま)だろ。サッカー部のエースの。

 ――サッカー頑張ってて、女子からモテモテだったのに……。人生終わったな、アイツ。

 ――あぁ、あの不良の所為で。

 ――カワイソウに。

 ――ホント酷ぇよな、()()。藤平清助。

 僕に聞かれないように話しているつもりなのだろうが、全部聞こえている。

 だから、傷付く。辛くなる。

 何もしてない。僕はやってない。ただ良かれと思って、行動しただけだ。

 ――てゆーか、あのグラサン、真島君に何する気だったんだろ?

 ――気に食わないから、喧嘩でも吹っかけるつもりだったんじゃない?

 ――うっわっ! 喧嘩とか。だっせー、マジ引くわー。

 ――あの子達も奴隷みたいにされて可哀想。

 ――私に力があれば、助けてやれんのに。

 ――力に飽かせて、女子を好き勝手とか、ホントサイテー。

 最早、無駄だった。何をしなくても、僕の所為だ。僕が悪いんだ。

 でも、どうしてだろう。今日は、いつも以上に、嫌なことが多い気がする。

 陰口や避けられることには慣れている筈なのに、いつも以上に辛く感じる。

 なんで? どうして?

 ……嗚呼、そうか。

 昨日の森さんの所為か。

 あの子とたまたま出会ったから。僕の目を綺麗だと言ってくれたから。笑顔を向けてくれたから。

 嬉しくなった。幸せな気持ちになれた。

 だから、だ。今日がこんなに辛いのは。いつもよりも苦痛を感じるのは。

 人は生きていく中で、幸せな時間と、辛い時間の二つを代わる代わるに味わう。人によって、その一度に味わう幸せが長いか短いか、辛さが長いか短いかの違いがあるだけで、一生幸せな人間、逆に一生不幸な人間などあり得はしない。母さんの持論だ。

 それに照らし合わせてみれば分かる。僕は、昨日確かに幸せだった。幸せ過ぎた。だから、いつか何処かで辛い目に遭うのは当たり前のことだし、そもそも味わった幸せが大き過ぎるのだから、すぐにそれが襲ってきてもおかしくはなかった。そして実際にすぐに襲ってきた。極々自然、至極当然な道理である。

 だのに、どうしてだろう? こんなにも耐え難いのは。どうしてだろう? つい昨日のことが、もう何年も前の出来事に感じられるのは。

 ――涙が、溢れそうになっているのは。

 それをぐっと堪えようとした、まさにその時、

「かーにたーま、かーにたーま」

 聞き覚えのあるボーイソプラノのようにも聞こえる女性の声――というか、歌声が耳に入った。

「今日のごはんは?」

 合いの手の、到底人間の喉から出てるとは思えない程高いけれど可愛らしい声も、聞き覚えがある。

「かにたーま定食だーい」

 次に、最初の歌声が聞こえて、僕はその方向を見た。

 それは、確かに見知った顔であった。

「For what reason?」

「I just love you.」

 珍妙な歌と合いの手、そして何故か英語のセリフパートと共に、矢沢愛沙と知花海羽が、事件にざわめく学食に、何も知らずにやってきた。

 謎の歌にも、大衆がいるところで堂々と歌える矢沢の神経にも、そんな彼女を乗せる知花にも、呆れるばかりである。

 でも、ありがたかった。少しだけ、笑うことが出来た。おかげで、泣かずにすんだ。

「うっす! キヨ!」

 僕の姿を見かけるなり、矢沢は敬礼っぽい手振りと共に、僕に声をかける。

「ご機嫌麗しゅう、キヨちん」

 知花もそれに続いて、彼女なりのユーモアを含んだ挨拶をする。僕はその二人に対して、なんとか、浮かべることの出来た、薄い微笑みで返す。

 二人共、笑って僕に近づこうとするが、途端に表情が凍りつき、その場に立ち止まる。この、現在の学食で起こっている有様を見て。

「なんちゅーの、この状況。全く意味が分かんねぇんだが……」

 矢沢は面倒くさそうに頭をぼりぼりと掻くと、床を掃除している女子の一人に、

「ねぇ、崎本ちゃん」

 と声をかける。

「な、何? 矢沢さん」

 崎本という名前の女子は、やや落ち着かない挙動で矢沢に言葉を返す。

「あのさー、馬鹿な(アタシ)にも120%(パー)理解出来るよーに、この状況、簡潔に説明してくんない?」

 矢沢は、元々女性としては低い声をさらに低くし、ドスを効かせて、崎本さんに頼みごとという名の、命令をする。

「えーと……」

 崎本さんは、僕の顔色を伺いながら、()()()()()()現在の状況を説明する。

「あぁん!? キヨが先輩を脅して失禁させただぁ!?」

 声を荒げ、驚きを表す矢沢。

「ひぃ! ごめんなさい!」

 その迫力が凄まじかった所為か、崎本さんは何も悪いことをしていないのに、頭を伏せて謝る。

「なるほどな。そういうことか……」

 矢沢はそう呟くと、喉が裂けたのではないかと錯覚するほどの唸り声を上げ、くすんだ金の髪が何本か抜け落ちる程、頭を掻き毟る。それを、知花は無言で見つめていた。憂いを感じさせる、眼差しで。

 僕は不安になる。この話を二人が信じてしまってはいないかと、二人に軽蔑されはしないかと。

「あの、違うから。誤解だから」

 思うより先に、僕は二人に向かってそう言っていた。

 僕の言葉は、届いていないのか。知花は黙ったまま。矢沢は、何の反応も見せず、食券の販売機に札を投入する。

 ――信じて貰えてないのかなぁ。

 僕はついうつむく。そんな僕に、

「キヨ、何食べたい?」

 と、背中を向けたまま矢沢が訊ねてきた。

「え?」

「おごってやるから、何でも好きなモン頼め」

 彼女はそう言うと、

「飯でも食いながらさ。詳しく話聞かせてよ」

 と、輝かしいばかりの笑顔を、僕に向けた。知花も、目も、柔らかな微笑みを伝えた。

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