第22話 たとえ恐怖に震えても
すっかり日も暮れて蝉や蛙達の合唱だけが辺りに響く中、鶴来と鏡華は漸く海水浴場からもりびと荘の目の前にまで帰ってきていた。
だが今日はいつもと違い、ここに帰宅するのは鏡華一人だけだ。
「それじゃあ今日はここでお別れ……かな」
「ん……そうだな」
若干の寂寥感と鏡華への心配からいつもよりもトーンの落ちた口調で話しかけて来た鶴来に対して、鏡華はどこか気の抜けた様な短い返事を返した。
鶴来は、海水浴場での一件を受けて竜胆家に急いで戻ってきたらしいきららから『鏡華と二人きりにして欲しいから、悪いけど今日は自分の家に戻って欲しい』という旨の連絡を少し前に受けており、それ故の別れの言葉だったのだが彼の内心はどちらかと言うとその逆にあった。
今の鏡華からは正直、あまり目を離したくない。とは言えあんな事があった後だ。面識があれど他人である自分よりも、もっと身近な家族が一緒についてあげた方が良いだろうと考えて、鶴来は本音をぐっと飲み込んでいた。
だから鶴来は自身の内心を隠す為に、とりあえず他愛の無い話題を鏡華に振った。
「それにしてもここ最近はずっとここが帰る所だったせいか、別の所に帰るってのも何だか変な感じがするなぁ。ここもすっかり第二の我が家に……ってさすがに馴染みすぎか」
『第二の我が家』なんて言ったらいつもの鏡華なら怒るそぶりの一つでも見せそうなものだが、やはり今の鏡華はそんな様子など微塵も感じさせなかった。
「……たしか、既に3週間近く経っているんだったか。それならそういう感覚もしょうがないかもな」
「ああ、うん……」
(何ていうか、何だかなぁ……)
今の鏡華との会話に鶴来は打っても響かない、もしくは投げた球が誰にも受け止められず転がっていく様な、そんな行き場の無い虚しさを若干感じる。
「…………」
「…………」
会話が途切れてしまった上に新たな話題も思いつかず、なんだか微妙に気まずい感じの沈黙がしばらく続く。
しかしいつまでも黙ってるわけにもここで立ち往生するわけにもいかないと、鶴来は別れの言葉を切り出した。
「それじゃあ俺はもう帰るよ、きららさんによろしくな」
「ああ、分かった。それと……その、今日は……ありがとう。助けてくれて……」
若干のためらいの後に鏡華が発したそのお礼は、恐らく彼女を襲った少年から助けた時の事だろう。
鏡華が素直に礼を言ったという事実にどうにも釈然としない感覚を抱きながらも鶴来にはそれを無碍に出来ず、胸の内を吐露する代わりに頭髪をくしゃりと一掻きすると、出来る限り柔らかい笑みを浮かべる様努めながら返答した。
「……別に、当然の事をしただけだから気にするなよ。それじゃ」
言い終わると同時に踵を返して歩き出した鶴来。
なるべく心境を悟られない様に急いで鏡華から背を向けて表情を隠した彼だったが、その腕だけは感情を隠せず半ば無意識にがしがしと頭を掻いていた。
(あー、駄目だ。つい顔に出そうになる。鏡華だってあんな事があったのにそんな素振りすら見せてないんだ、俺がそういうの見せてる場合じゃないのに。それでも……やっぱ心配だよ、鏡華……)
鏡華からは見えないその顔は、不安と焦燥とで歪んでいだ。
鏡華は、鶴来が何故か頭をがしがしと掻きながら彼女に背を向けて帰っていくのをどこか名残惜しそうに見守っていた。その両手は胸の前で祈る様に固く握られている。
だが角を曲がり鶴来の姿が見えなくなった途端、吐息を短く吐きキュッと唇を閉じると一目散にもりびと荘へと走り出した。
カンカンと音を鳴らして鉄製の階段を駆け上がり、我が家である202号室の前に躍り出る。
軽く息を荒げながら慌てた素振りで鍵を取り出してドアを開錠すると、家の中へ逃げる様に飛び込んだ。
鏡華が襲われた。
その様な旨の連絡を鶴来から受け、その日のうちに出張からしばらくぶりの自宅へと慌ててすっ飛んで来た竜胆きららはそわそわと落ち着きなくソファーに座っては立ち、立っては座って。
そんな、傍から見れば奇行でしかない行為を帰宅してからリビングで延々と繰り返していた。
(襲われたってだけならまだしも……いや襲われたってだけでも良くないんだけど、その上せ、性的な意味で襲われかけたって……たしかに相手側が何らかのアクション起こしてくるんじゃないかと睨んでる節はあったけど、だからっていきなりこんな滅茶苦茶な事やってくるなんて……ていうかそもそも鏡ちゃんをフリーにしておくよう提案したのは私だしって事はこれって回りまわって私のせい?てかそれはそれとして大体なんで相手は鏡ちゃんをあんな風に襲うなんて事を――)
きららがそんな感じでごちゃごちゃと纏まらない思考に没頭していた時、突然玄関のドアが開く音がした。
その音に気づいたきららが思わず立ち上がるとほぼ同時、廊下を駆ける足音が響き、かと思えばすぐにリビングと廊下を隔てるドアが勢い良く開く。
足音が聞こえた時点でドアの方を向いていたきららの視界に映っていたのは、息を荒げた鏡華の姿だった。
「きょ、鏡ちゃん……?」
様子のおかしな鏡華に困惑したきららはとりあえず、恐る恐る名前を呼びかける。
「うっ……うぅ……」
すると鏡華は突然くしゃりと顔を崩して、ぽろぽろとその大きな両目から涙を零し始めた。
(えー!?)
唐突な鏡華の落涙に内心で慌てふためくきらら。
鶴来から聞いていた話では精神的にそこまでダメージを受けた様子は無かったそうだが、しかし今の鏡華は明らかに精神的ダメージを負っている様だった。
「どっ、どうしたの!?もしかしてやっぱり怖かったの――ってわっ!」
兎に角鏡華を落ち着かせる為に一度彼女の気持ちを問いただそうとしたきららだったが、その懐に鏡華が飛び込んできた。
きららとはあまり身長差が無い為に縋り付く形に近くなるが、それを気にする事無くきららの胸に顔を埋める鏡華。
「鏡ちゃん……」
声を出さずにただひたすら泣く彼女をきららはそっと抱きしめる。
「そんなに『怖かった』のね……鶴来君はああ言ってたけど……彼の前だから意地張ってたのかしら?それともうちに戻ってきたから気が抜けちゃったとか?」
子供をあやす様にぽんぽんと背中を軽く掌で叩きながらきららは問いかけるが、しかし鏡華の返答は彼女の予想に反して、否定の意を示す首の横振りだった。
そして鏡華がここに戻ってきてから、小さな声で初めて言葉を漏らした。
「……怖いんだ」
嗚咽に塗れたその言葉の意味にきららは内心で首を傾げた。
『怖かった』では無く『怖い』。
どこか微妙にひっかかりを感じる言葉のチョイスに、鏡華が泣き出したのは性的暴行を加えられそうになったせいだと考えていたきららはその考えがもしかしたら間違っているのかも知れないと、直感的に感じてしまった。
それを確かめる為にきららは問いかけた。
「……今でも、怖いの?それは、襲われた事が?」
「分からない……分からないんだ……!何が怖いのか分からないけど、兎に角いきなり怖くなって……!」
今まできゅっと引き締められていたその口はとめどなく流れ落ちる涙と共に、ダムが決壊したかの様な勢いで「怖い、怖い」とひたすらに恐怖を訴える。
きららは鏡華の言動とその様子に先程よりも強い、言語化出来ない違和感を感じたが今は彼女を落ち着かせる事が先だと、それを思考の外に追い出す。
「もしかしたら、やっぱり家に戻って来たから気が抜けちゃったのかもね……とりあえずはゆっくり休みなさい」
考えうる可能性の一つを口に出してはみたものの、しかしどうにもしっくり来ない。
釈然としない引っかかりを感じる中で、きららは泣き続ける鏡華の背中を抱き続けるのだった。
散々に泣いた後、鏡華は自分の部屋に戻ると備え付けてあった小さな電気スタンドの明かりだけを付けて、クッションを胸に抱き横になった。
「…………」
朱色の豆電球が放つ淡い光の中、不安げな表情で一言も口を開かず、ただ枕をぎゅっと抱きしめる鏡華。
(……静かだな)
部屋で一人きり、ふとそんな事を思った。
(……あの時、もし鶴来が助けに来てくれなかったら……)
「私は……」
ぽつりと呟かれた言葉と共に、クッションを抱く腕に力がこもった。
海水浴場で襲われ……有り体に言えば犯されそうになった瞬間に感じた心の底からの恐怖は、鶴来に助けられたあの時に彼の肌から伝わってきた熱に取って代わられた。
そして鶴来が傍に居た時は不思議とあの時の恐怖を感じる事は無かった。
しかし我が家の前で、鶴来が離れていったあの時から何故か再びその恐怖が蘇ってきたのだ。
きららの胸で泣いて幾らか収まった様に思えたが、それでもこうして一人きりになるとまたそれが鎌首をもだげてくる。
この恐怖感は何処から湧き上がってくるのだろうか。
あれを初めて感じたのは確かにあの海水浴場での一件だった。
男に犯されるというのは勿論ぞっとしない話だ。自分の心が男だから……というのもあるがそれ以前に性別関係無く犯されたい人間なんてそうはいないだろう。
とはいえ本当に犯されかけたあの瞬間は兎も角、今もそれに怯えているのかと聞かれたら、正直よく分からない。
胸の内に渦巻いているのは、無理矢理言語化するならばただただ得体の知れない『恐怖そのもの』だった。
「……寒い」
夏だと言うのに、クーラーをつけてもいないのに、背筋が泡立つ様な嫌な寒さを鏡華は自覚する。
それと共に鶴来が助けてくれた時の、彼の腕の熱さも彼女は思い出した。
「……鶴来……」
その無意識の呟きを最後に、鏡華の意識はいつの間にか闇の中へと落ちていった。
鏡華が立っていたのは、視界の全てが黒一色に覆われている闇の世界だった。
「ここは……」
目を閉じているのか開いているのかすら分からなくなりそうな程の暗闇の中で、鏡華はとりあえず周りを見渡す。
すると暗闇の中にぽつんと一人暗闇の中に佇む人間の背中が見えた。
鏡華は何故かその背中に既視感を覚えたが、その理由は分からなかった。
「……お前は、誰だ?」
妙な既視感の正体を掴むため、鏡華は彼に問いかける。
「……へぇ、分からないのか?本当に?」
背中を向けたまま答えたのは男の声だ。それもまだ若い。
だが性別がはっきりとしても鏡華にその正体は未だ掴めず、男の侮る様な口調にも苛立ちを感じた鏡華は若干怒りのこもった口調で問い詰める。
「分からないから聞いているんだ」
「仕方ないな……ま、でも流石に顔を見れば分かるだろう?」
そう言いながら振り返った男。
まだ高校生ないし中学生くらいだろうか、少年特有の幼さはまだ残っているが凛々しく整った目鼻立ちをした少年だった。
その顔を見た瞬間、鏡華の心臓が大きく跳ねた。
驚愕から、つい口が意味も無く開いて驚愕の様相を示した。
(何だ、この顔。こいつを、私は知っている……?)
だが分からない。喉まで出かかっているのに、どうしても彼の正体が分からない。
「ん?なんだ、もしかしてこれでも分からないのか。おいおい随分馴染んだものだなぁ」
「な、何を言っている……いい加減に正体を白状しろ!」
男のからかう様な口調と未だ掴めなぬ既視感の理由。そして何故か湧き上がって来た謎の焦燥感と不安感のせいか、鏡華の声は最早怒声となっていた。
「そうカリカリするなって、俺が誰かなんてちょっと考えればすぐ分かることだってのにさ……ま、鈍い鏡華ちゃんにはそろそろ正解を教えてあげるとするか。答えはーーお前だよ、竜胆鏡華」
「えっ……一体、何……をーー」
鏡華はこの瞬間、目の前の男の正体を理解ーーいや、思い出した。
(そうだ、何で今の今まで忘れていた!?あれは私、竜胆鏡華ーーいや、正確に言うならばあれはーー)
「ああ微妙に違ったな。俺は竜胆鏡夜だ。鏡華じゃない」
「ち……違う、鏡夜は私だ!お前なんかじゃない!」
鏡華にしてみてはわけのわからない男の言葉。
鏡華は激昂してそれを否定するが、しかしその声は何処か虚勢じみていた。
だからだろうか、男は余裕を崩す事無くむしろ薄らと笑みすら浮かべながら、鏡華の言葉に対してかぶりをふった。
「それこそ違うな、お前は鏡夜じゃなくて鏡華だろう?自分の体を見てみろよ」
「ぁ……!」
男が突きつけたのは、紛れも無い一つの事実だった。
それは鏡華の肉体が竜胆鏡夜のそれとは似て非なる物だという、単純明快な事。
それを自覚すると、不意に鏡華は胸の奥底から『恐怖そのもの』が湧き上がってくるのを感じた。
「竜胆鏡夜はそんな何も掴めない様な小さい手をしていたか?何も守れない、細く小さな体だったか?」
鏡華は何も言わない。
「ただ、蹂躙される為だけに在る、そんな悲しい存在だったか?」
「私は……私は……」
鏡華は何も、言い返せない。
非力で、無力で、ただ得体の知れない恐怖に震えているだけの自分の事を竜胆鏡夜だと、胸を張って言えるわけが無かった。
自分という存在が足元から崩れていく様な感覚に陥る鏡華の目の前の、鏡夜の姿をした男は容赦無く追い打ちをかける。
「それにセイバーだって……ほら」
「あっ……」
目の前の男がその手に握ったのはクリアブルーのボディカラーを持つ長銃型のセイバー、竜胆鏡夜だけが持っているはずのセイバーだった。
所有者によって姿形を変える、自分だけのアイデンティティとも言えるそれをよりにもよって自分の姿をした人間が出してみせたというその事実は、鏡華を絶句させるのに十分過ぎた。
固まった鏡華の胸を男は手に持ったセイバーの銃口の先端でとん、と軽く押す。
たったそれだけのワンアクションに対してでさえ、鏡華は碌な抵抗すら出来ずその場にへたりこんでしまった。
「これで分かっただろう?どっちが本物か」
「わ……私は……」
(私は……何?)
言えない、どうしたって言い返せない。
最早自分が何者なのかすら、鏡華には分からなくなっていた。
「偽者は偽者らしくさっさと消えるんだな」
「ひっ……!」
鏡夜がセイバーを突きつける。
鏡華はただ怯えて震えることしか出来なかった。
「じゃあな、鏡華ちゃん」
しかし、引き金は引かれなかった。
代わりに声がーー既視感などでは無く、本当に聞き覚えのある、とても身近な少年の声が鏡華の耳に、まるで脳裏に直接伝えられたかの様にはっきりと届いていた。
『しっかりしろよ、それでも俺のライバルか?鏡夜』
気づけば横に鶴来が立っていた。
目の前の男に対する恐怖も、胸の中にずっと渦巻いていた得体の知れない恐怖すらも、すっと消えていくのを鏡華は感じた。
立ち上がって鶴来の横に並んだ鏡華は今までの怯えが嘘の様に背筋を伸ばして胸を張り、今度はしっかりと意志のこもった、いつも通りの強気な視線を持って鏡夜をーー鏡夜の姿をした何者かを見つめた。
今ならはっきりと言える。
鏡華は確固たる意志を乗せて男に言い放った。
「そうだ。例え体がどんなになっても、どんなに怖くても、それでも私は……俺は――!」
最後の言葉は声にならず、代わりに光と共に闇が晴れていく。
眩い光と心地よい暖かさに包まれて意識が遠のいていく中、鏡華は一瞬、かすかに男の舌打ちを聞いた気がした。
「ん……」
目を開けるとそこは小さな電気スタンドの朱色の明かりだけに照らされた、自分の部屋だった。
「夢……か……」
よく分からない夢だった。
男の自分が現れて自分の事を否定し出したかと思えば、急に鶴来も出てきて。
恐怖心のせいで見た物か、それともまさかとは思うか何かの暗示なのか。
「……」
今、部屋には自分しかいない。
その事を再び自覚すると、また胸の内からあのわけの分からない恐怖心が何処からか湧いて来た。
「っ……!」
息が詰まりそうになる恐怖に耐える様ギュッと両手を握り合わせながら、鏡華は先ほど見た夢を思い出した。
「あの時、何で立ち上がれたんだろう……」
夢の終わり。立ち上がり正面を見据えたあの一瞬だけはこの恐怖心を感じることは無かった。
それが何故かは分からないが、それでもきっかけはあの言葉だったと思う。
『しっかりしろよ、それでも俺のライバルか?鏡夜』
あの言葉のおかげでただ屈しているだけでは駄目だと、立ち上がらなければいけないのだと思った、思うことが出来たのだ。
(立ち上がる……怖くても前を、向く……)
そうだ、まずは前を向いて立ち上がらなければ。そうしなければ前には進めない。
少なくとも竜胆鏡夜ならそれが出来ていたはずだ。
だから鏡華は何かに対する決意では無く、とりあえず立ち上がる為に、歩き出す為に一つだけ、心に決めた。
そしてそれはか細い声だったが、確かにはっきりと鏡華の口から呟かれた。
「――頑張ろう」
【今日の戯言コーナー】
実は今回の話、構成とか盛り上がりとかの要因から、ほぼ書きあがっていた1話を丸々書き直しする羽目になった難産回です。
そのせいで本来上げるはずだった22話と真逆の話になっていたりする、そんな裏話があったりするのですが、それはそれとしてもし楽しんでいただければ幸いです。
ちなみにその元22話ですがどんな話だったのかと言うと、夢のくだりが丸々無くて鏡華のメンタルがアレなまま話が進んでいくと言う物で、さすがにこれは何というか、あいつらしくねぇなぁみたいな事を考えていたらいつの間にか書き直していたというそんな感じで。プロットとは一体何だったのか。




