用済みと十一年の毛の束を取り上げられ膠椀を伏せました。お宅の筆、秋の市で値がつきません
「お離しください」
毛の束は、椿の指のあいだから半ばまで抜けていた。引き戻せば、揃えた穂先が崩れる。椿は力をゆるめ、暁伍の手へ渡した。
店先には三人の買い手がいた。秋の市へ出す筆を見に来た者たちで、今しがたまで椿の手元を覗き込んでいた顔が、暁伍と椿のあいだを往復した。
「選りにかかる手間は、もう払わん」
暁伍は束を卓へ置かず、隣に立つ迅平へ渡した。迅平は両手で受け、買い手の目があるのを確かめてから胸の高さへ持ち上げた。
「余分な値はつけない。選りはもう用済みだ。迅平、今日からおまえが結え」
「はい。手順は覚えました」
迅平の返事は土間の奥まで届いた。買い手の一人が口の端だけを持ち上げ、残る二人もそれに合わせた。
「どれも同じ筆だ」
椿の指だけが宙に残った。やがて何もない掌へ畳まれ、爪の先が親指のつけ根へ触れた。
卓には、まだ選り終えていない別の束があった。椿はそちらへ手を伸ばし、指の腹で毛の腰を確かめた。湿りの残るものを左へ、根元の弱いものを右へ寄せる。
「そこまで分けるから、手間が増える」
暁伍が買い手へ向き直った。腰板には染みがあり、棚の取っ手には椿の指跡が残っていた。
椿は一本を抜き、穂先へ戻した。周りよりわずかに長く、穂の中心でまっすぐ立つ命毛一本。指先で馴染ませると、散っていた毛が静かに寄った。
「これは残します」
「迅平にも、そのくらいはできる」
迅平は渡された束を握り直した。毛の根元がひしゃげ、椿の指がそこへ動きかけたが、卓の縁で止まった。
「見ておけ、迅平」
筆など毛を束ねれば同じだ——。暁伍の顔には、買い手へ売る品より先に、その答えが出来上がっていた。
三人は仕上がった筆を一本ずつ手に取った。穂先を撫で、軸を転がし、椿の手元をもう一度見たが、誰も先ほどの笑いを続けなかった。
椿は卓へ向き直った。残された束から短い毛を抜き、長い毛を内へ伏せる。暁伍の手に渡った束へは、もう指を伸ばさなかった。
* * *
昼の湯気が消えるころ、暁伍は綴りを卓へ広げた。澄枝が人数分の湯呑みを置き、最後の一つを椿の前へ滑らせた。
「今月から、結い賃は一本につき十二文だ。椿も迅平も、この額で揃える」
迅平が顔を上げた。椿の前には十一年使った小刀があり、迅平の前には半年で刃を二度欠かした小刀があったが、綴りの線は二人を一つの欄へ収めていた。
「本数を結べば、それだけいただけるんですね」
「そういうことだ。余計な見立てに銭は出さん」
椿は湯呑みを持ち上げた。口はつけず、卓へ戻す。底が板へ触れてから、両手を膝へ置いた。
「承知しました」
暁伍は返事を待っていたらしい。綴りを閉じると、今度は大きな紙を柱へ貼り、四隅を指の背で押さえた。
紙には毛の重さ、膠の量、乾かす日数が並んでいた。暁伍は一行ずつ指で叩き、最後に紙の下へ太い線を引いた。
「見ろ。ここに全部ある。これで誰でも結える」
迅平がすぐ柱の前へ寄った。貼り出された割を上から指で追い、同じ重さに分けられた二つの束を抱えて卓へ戻った。
「まず、この通りに毛を揃えて」
声はそこで切れた。片方は指で押せばすぐ戻り、もう片方は沈んだまま形を残す。迅平は二つを並べ直し、今度は左右を入れ替えた。
「重さは合っているぞ」
暁伍に言われ、迅平は柱の紙を見た。毛の束を前にした手は、次の行へ進まなかった。
先ほどの買い手たちは、まだ店の隅で納め日の相談をしていた。椿は一人目の前へ進み、預かっていた古い筆を返した。
「次の穂は、一寸八分で。先を一分だけ細くなさると、いつもの紙に合います」
相手は筆を受け取り、椿の指先を見て頷いた。椿は二人目へ向き直り、箱の蓋を少し開けた。
「そちらは、前より腰を残します。墨を多く含ませても、腹が寝ないように」
「秋の分も頼む」
「はい」
三人目は帰り支度をしていた。椿は戸口まで追い、包みの紐へ触れない距離で足を止めた。
「次は穂を半分だけ短く。お使いの巻物なら、その長さで端まで持ちます」
「では、市のあとに取りに来よう」
椿は一度、頭を下げた。納め先は三軒。次の筆に要る長さだけが、店を出ていく三人の手へ渡った。
暁伍は柱の紙を買い手にも見えるよう撫でた。椿は紙を見上げず、小刀の刃を布で拭った。刃先に残っていた細い毛が一本、膝へ落ちた。
* * *
翌朝、椿の前にも毛の束が置かれていた。戸板の隙間から差した光が根元を照らし、揃いきらない影を卓へ落としていた。
いつもなら、座るより先に指が動いた。湿りを確かめ、腰を分け、穂先に残す一本を探す。今朝の手は膝の上にあった。
「何をしている。昨日の割で結え」
暁伍は柱を顎で示した。紙の端は夜の湿気を吸い、外側へ丸まっていた。
「昨日、承りました」
椿は小刀を取り上げた。砥粉を落とし、刃の腹を布で二度拭く。櫛から絡んだ毛を外し、歯の間へ布を通した。
「なら、早く始めろ。市まで日がない」
「では、わたしの分は結いません」
暁伍の手が綴りの上で止まった。迅平は自分の前の束を持ち上げたが、根元と先を取り違え、置き直した。
「何を勝手なことを。結った本数には払うと言っただろう」
「はい。選りに値はつけず、手順があれば誰でも結える、と」
椿は道具箱の底を拭いた。小刀を右、櫛を左、糸切りを奥へ置く。十一年、朝ごとに取り出した順とは逆に、棚へ戻す順だけが決まっていた。
膠を溶く椀も洗った。縁の欠けた側を壁へ向け、いつもの位置へ伏せる。水滴が一つ、棚板に残ったので、袖ではなく布の乾いた端で吸い取った。
「結わないなら、何をするつもりだ」
椿は答えず、卓の上を撫でた。細い毛が二本、板目へ沿って残っていた。摘み上げて迅平の束の脇へ置く。
棚の戸を閉める前に、椿の指が内側へ伸びた。使い込んだ小刀の柄まで、指二本ほど。そこで止まり、掌がゆっくり返った。
「ご主人」
暁伍が顔を上げた。柱の紙を背にして、返事だけを待った。
「わたしはこの一本を、十一年、わたしの筆だと思うて結うておりました」
椿の指は動かなかった。棚の中には道具が揃い、卓の上には毛も糸も残っていた。
暁伍は口を開き、柱の紙を見た。
「市が済むまではいろ。迅平一人では数が——」
迅平が顔を上げた。暁伍はその先を飲み込み、柱の紙の剥がれた角を押さえた。
椿は戸口で草履を履いた。踵を収め、一歩、土間から外へ出る。朝の光が背へ移り、店の暗がりには棚へ戻した道具だけが残った。
* * *
秋の筆市には、墨と新しい木箱の匂いが満ちていた。椿は通りの端で毛の束を見ていたが、向かいの列に暁伍の店があることは、積み上げた箱の高さで分かった。
暁伍は柱に貼ったものと同じ割を書き写し、箱の脇へ立てていた。迅平が蓋を開け、筆を一本ずつ白い布の上へ並べる。
三軒のうち、最初の書き手が来た。椿へ頼んでいた長さの箱を選び、その場で水と墨を借りる。
「含みは」
穂を墨へ沈め、余りを硯の縁で切った。紙へ置いた一画目は太く入り、半ばで二つに割れた。
書き手の手が止まった。紙から筆を上げ、穂先を指で寄せようとしたが、短い毛が外へ逃げた。
「命毛は、どれだ」
「長さも重さも、割の通りです」
迅平は貼り紙を指した。書き手はそちらを見ず、筆を布へ戻した。首が一度、横へ動いた。
次に来た者は、箱から一本を抜いて穂先だけを水へ浸した。指で腹を曲げて離すと、先端が丸く開き、中心へ戻らなかった。
「腰が違う」
それだけ言い、箱の蓋を閉じた。留め紐を元の結び目へ戻し、暁伍の前へ押した。
三人目は買い手の列の後ろから店内を覗いた。初めの日、暁伍の言葉へ愛想に口元を曲げた男だった。
「椿どのは」
「今は迅平が結っております。手順は変えていません」
男の目は迅平を越え、店の奥を探した。棚の前、卓の横、箱の陰。白い布の上に椿の指がないと分かると、差し出された筆へ手を伸ばさなかった。
「次の穂の話をしてある」
男は誰にともなく言った。先の二人が振り返り、閉じられた箱を見た。
夕方になっても、積まれた箱の段は減らなかった。暁伍が一つを下ろして開け、穂先を舐めるように見てから、また蓋をした。
椿は市の端を離れた。背後で箱を荷へ戻す音が続き、木と木が触れる乾いた音だけが、店じまいの人声より長く残った。
* * *
次の月、椿が古い店の前を通るたび、戸口の箱が増えた。納めたはずの紐が掛かり、送り先の紙を剥がした跡が蓋に残っていた。
朝に開いていた戸は昼近くまで閉じるようになった。開いた日にも、暁伍は外へ貼った紙のしわを伸ばし、迅平は腰の違う束を左右へ移していた。
椿は講の女衆に頼まれ、玄朔のところで毛を見ることになった。自分の道具はまだなかったが、届いた束へ指を通し、使えるものと戻すものを分けるだけならできた。
玄朔は椿が選った二つを秤の脇へ置いた。そこへ暁伍が空の籠を持って現れ、以前と同じ場所へ腰を下ろした。
「市の分を急いでくれ。去年と同じ匁でいい」
玄朔は籠へ手を伸ばさなかった。椿が分けた束の紐を締め、札を裏返す。
「あいにく、今年の毛は向きませんので」
「そこにあるだろう」
「向きませんので」
玄朔の声は上がらなかった。暁伍は椿を見たが、椿の指は束から離れ、膝の上に揃っていた。
「店の注文だ。これまで断ったことはなかったはずだ」
玄朔は空の籠を戸口へ寄せた。籠の底が敷居へ当たり、暁伍は持ってきたときより浅く取っ手を握った。
その帰り、椿は古い店の前で澄枝を見た。澄枝は返された箱を三つ抱え、戸へ肩を当てて中へ入ろうとしていた。
一番上の箱が傾いた。椿の手がわずかに上がったが、澄枝は膝で支え直し、自分で土間へ運び込んだ。
「また戻ったのか」
奥から暁伍の声がした。澄枝は箱を一つずつ卓へ置き、蓋についた送り先の跡を暁伍へ向けた。
「朝から三軒、回りました。先月の分も、まだ二軒残っています」
「迅平に結い直させろ」
「その筆を抱えて詫びるのは、迅平ではありません」
澄枝は胸元から鍵を外した。銭箱と店の奥の鍵を輪ごと卓へ置き、暁伍が取る前に、その上へ掌を載せた。
「もう、わたし一人では詫びきれません」
暁伍の指が鍵の輪へ触れた。澄枝は掌をどけず、綴りを自分の側へ引いた。
「今日から差配を外れてください。返す先と、返ってきた先は、わたしが決めます」
迅平は柱の紙を見た。端のめくれた手順は残り、卓の上から暁伍の綴りだけが消えた。
ほどなくして、講の寄り合いに掲げられた札から古い店の名が外れた。椿は女衆の後ろで席を詰め、外された札が伏せて運ばれるのを見送った。
* * *
寄り合いのあと、玄朔が包みを一つ抱えて入ってきた。古い店へ向かうはずだった毛より細く、根元まで揃った束が、椿の前へ置かれた。
「姐さん。おれたちはあの店に売ってたんじゃない。あんたの指に売ってたんだ」
椿の右手が動いた。紐を解く前に束の腹へ触れ、押して、離す。毛はすぐ元へ戻った。
「けれど、わたしには店がありません」
「なら、持てばいいさ」
答えたのは講の女だった。隣の女がすぐ膝を寄せ、空いていた椀一つ分の場所を椿の前へ作った。
「奥の空き間なら、朝から使える。戸も卓もある」
「代を払えるまでは、お借りできません」
「代なら注文で置いていくよ。うちの帳付けに、細いのを二本。椿さんに結ってもらう」
向かいの女も指を二本立てた。別の女は三本目を足し、用向きを短く告げた。
「わたしは太いのを一本。名を書くんじゃない、糊を引くんだ。腰は落とさないでおくれ」
その日のうちに、奥の空き間へ卓が運ばれた。椿は窓から一番遠い壁へ小さな棚を置き、借りた道具を布の上へ並べた。
翌朝、玄朔が三軒へ場所を知らせてから、毛を届けた。椿の指は束から束へ移り、湿りの残るものを休ませ、腰の強いものを手前へ寄せた。
戸口へ最初の書き手が立った。秋の市で一画目を止めた男で、店へ入る前に椿の顔と卓を順に確かめた。
「こちらは、椿どのの店か」
「はい。まだ看板はございませんが」
「看板はあとでいい。先の一寸八分を、椿どのに頼む」
二人目は閉じたまま持ち帰った箱を抱えてきた。箱は卓へ置かず、足元へ伏せ、新しい紙包みだけを差し出した。
「前に言った腰で。名は椿と入れてくれ」
「店の名ではなく、ですか」
「筆を頼む先の名だ」
三人目は巻物を小脇に抱えていた。椿が伝えた長さを指で示し、その幅に合わせた紙を卓へ置いた。
「これで端まで持つものを。受け取りには、ここへ来ればいいな」
「はい。こちらでお渡しします」
三軒の用向きが卓に並んだ。椿は一本目の毛を取り、根元を揃え、穂の内へ細い毛を伏せていった。
最後に残した一本を、指の腹で中心へ送る。周りの毛が寄り、命毛が穂先からわずかに立った。
女衆が注文の束を抱えて入ってきた。用向きを告げる者、仕上がりを受け取る者、代を卓の隅へ置く者。誰も柱へ手順を貼らず、椿の指が止まるまで次の束を開かなかった。
「休みな。朝から座り通しだよ」
湯気の立つ甘酒が運ばれた。女が椀を数え、卓の端へ一つ余分に置いた。
「これは椿さんの分。店の主が飲まないで、誰が飲むんだい」
椿は結いかけの穂を台へ置いた。両手を一度布で拭き、余分に置かれた椀を自分の前へ引いた。
* * *
冬の朝、戸の外で足音が止まった。椿は毛を選る手を休めず、束の根元を揃えてから顔を上げた。
暁伍が立っていた。羽織の袖を重ね、敷居の内側へ入る言葉を探すように、椿の後ろの棚を見ていた。
「ご用向きは」
「話がある」
椿は椅子を勧めなかった。卓の向こうでは講の女衆が仕上がった筆を包み、甘酒の鍋を火から下ろしていた。
「店へ戻ってくれ」
暁伍は戸口から動かなかった。椿は手元の束へ紐を掛け、結び目を下へ回した。
「迅平では注文に追いつかん。いや、数の話ではない。前のように、おまえが選って、おまえが結えばいい」
「前のように」
「賃なら決め直す。選りの分も出す。道具も、棚に残してある」
椿は棚を見た。新しい小刀と櫛が、手を伸ばせば届く場所にある。古い店へ戻したものを取りに行く理由は、どこにも置かれていなかった。
「秋から返された分がまだある。あれを結い直せば、客も戻る。おまえが三軒へ話した穂も——」
「その三軒の筆は、こちらでお渡ししました」
暁伍の口が閉じた。卓の端には三つの空箱が重なり、それぞれ椿の名を書いた札が結ばれていた。
「なら、新しい注文だけでもいい。店の名で受けて、おまえがここで結う形でも——」
椿は布を畳んだ。四隅を揃え、使い終えた櫛の下へ敷く。
「ご主人」
暁伍が顔を上げた。椿の指は自分の道具の上にあり、毛へ戻る向きを失っていなかった。
「どれも同じ筆だ」
暁伍は何かを言おうとした。唇が一度だけ動き、貼り紙も綴りもない店先で、その先は形にならなかった。
椿は新しい束を手前へ寄せた。暁伍の足元へ道具も毛も差し出さず、戸口まで送るために立つこともしなかった。
「次の方がお待ちですので」
暁伍の手が戸の桟へ触れた。開け直した箱を閉じるときのように指が二度動き、そのまま外へ下りた。
戸が閉まる前に、冬の日が細く差した。光は暁伍の背を追わず、卓の上で選り分けられた毛を端から照らした。
「椿さん、冷めるよ」
女衆がまた席を詰めた。空いたところには椿の椀があり、白い湯気がまだ細く立っていた。
椿は櫛を置き、両手を布で拭いた。椀を両手で包むと、指の節へ温かさが移った。
朝の光の中、自分の名をつけた筆の先で、命毛が一本、まっすぐ立っていた。
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