始ノ章 いとしご
さて、いよいよ最終部となりました。
ここまで、いろいろな視点で繰り広げて参りましたが、今回からすべて三人称に統一したいと思います。
ちょっとこの部は他と比べると独立しちゃっているかもしれませんが、ずっと書きたいと思っていたお話たちだし、なによりわたしも納得できるまで書きたいので、もうしばしお付き合いくだされば幸いです。
とりあえずは序章です。
お楽しみいただければうれしいです!
~カラスノマツエイ~
からす、からす、からすのこ
なくな、なくな、なかないで
からすのこどもは
からすのまつえい
からす、カラス、なかないで
そばにいる手をにぎってごらん
みえない涙もきっとひかる
そして笑えば
からす、からす、
闇のこども
からす、からす、
孤独のこ
色とりどりの
季節のはざま
からすのこ
最後の最期の
からすのこ
鴉の末裔
【始ノ章 いとしご】
* * *
鴉の屋敷には、ひとりの青年が住んでいた。
山の奥深くに、ひっそりと身をひそめるように、彼はたったひとりで住んでいた。
――いや、それには少々語弊があるかもしれない。
彼の屋敷には、たくさんの黒い鳥……鴉が住みついていたのだ。
ときどき山をさ迷う人間がいて、そんなときは青年が助けてくれるらしい。
ただ、もし――
もし、彼が鴉と話している姿を見たのなら。
『そうすりゃアンタも仲間入り』
鴉に喰われて、闇に虜。
青年は悲しく、笑うんだって。
* * *
*
「大事なのは刺激さ」
初夏。
きらきらとした太陽の光を一面に受けてはじける湖のほとりに、ふたつの影がある。
ひとりはニカッと八重歯を出して笑い、愛嬌のある顔でさらに口をひらく。
「このまま皇位を継ぐには、刺激が足りないだろう?なにが楽しくて老いぼれジジィどもと顔を並べなきゃいけないんだ」
彼は肩をすくめ、笑みを深めた。
那都――それがこの男の名であった。
少年から青年へ移り変わる歳ころであろう。
黒い瞳に漆黒の髪は肩にかからない程度にほどよく伸び、目鼻立ちはややはっきりとした端正な顔立ちだ。
すらりと伸びた肢体は均衡がとれ、無駄なく引き締まっている。
挑戦的な笑みもあいまって、武術には優れているのが見て取れるが、かといって宮中男特有の柔らかさも持ち合わせていた。
那都は傍らに控える少年を見やる。
「なあ!いつまでも臍を曲げるなよ、深水」
深水と呼ばれた彼は、那都より若干幼い顔立ちをしている。
やはり那都より背も低いが、知的で落ち着き払った顔は精神的におとなびて見えた。
深水はやや眉をひそめる。
「どうせ俺の言うことなんか聞かないおつもりでしょう?もう勝手にしてくださいよ。俺はあなたについていくしかないんだから」
ハッと息をはいて言う少年に、那都は満足そうに頷く。
「わかってるじゃないか。やはり、おまえは俺の最高の従者だ」
調子がいい主の言葉に、少年はやれやれとため息をもらす。
この人はいつも気まぐれで、平穏とか物静かとか、そういう穏やかなことが大の苦手なのだ。
落ち着きがないのとはまた別で、彼はただ黙って待つことが嫌ならしい。
それよりも自ら危険とわかっていることに飛び込んでいったり、騒動を起こすのが常なのである。
今回も例外ではない。
ただ守られてのんびり皇子になるのはいやだと駄々をこね、こっそり――とは言い難い手段で――抜け出し、ふたりは国境付近まで足を運んだわけである。
深水は生まれたころより那都の従者であったといっても過言ではない。
なにしろ、彼の父が那都の父親の従者であったのだ。
「はぁ。あなたがあの方の息子とは思えない……」
つい口癖のようになりつつある言葉を落とせば、那都はむっと顔をしかめた。
「おまえはそればっかりだな。冗談になんないぜ」
「まあ、どうでもいいですけど……それより」
深水はいったん言葉を切り、今度はまじまじと主を見つめた。
那都は合点とばかりに大きく頷き、背後に広がる鬱蒼とした林に目を向ける。
「俺は、自分の運命は自分で切り開くのさ」
言ってすぐ、那都はカカカッと笑った。
――瞳が、かすかに赤い色を帯びて。
*
春の陽射しがあたたかだ。
羽瑠は今しがた頬をふくらませていたことも忘れ、そのぬくもりにのんびりと目を細める。
(うーん……平和だ)
兄不在の今現在、彼女の周りは平穏だった。
いつもそうだ。
兄は平和が大嫌いなのではないかと思えるほど騒がしく、決まって面倒事を運んでくる。
そんな兄をもった羽瑠だからこそ、こんなに長閑な時間はたまらなく貴重に思えたのだ。
(ああ、けれど……)
予感に羽瑠は眉をひそめる。
きっと、兄はまた面倒事を抱えているにちがいない。
だいたい、この兄の不在だって、前もって宣言されていたことだ。
羽瑠は回想に耽る。
その日も、長閑だった羽瑠のもとへ騒がしい原因がやってきそうだと予感したのだ。
「はーるちゃーん!」
そしてそれは、当たっていた。
「なあに、お兄さま」
ふっと息をこぼし、羽瑠は黒い瞳をふせて、現れた兄に目をとめる。
彼はその真っ黒な目をしばたかせ、すこし拗ねたような表情で羽瑠の肩に回していた腕をほどいた。
「つれないな。羽瑠は俺がきらいなのか。というか、本当におまえは俺の妹か」
肩をすくめ、羽瑠は軽く笑った。
「こんなにそっくりなのに?」
「まあなぁ。けど、表情は全然ちがうだろ」
たしかに、と羽瑠は思う。
兄はよくころころと、それはもう大袈裟なくらい表情を変えるが、羽瑠自身はそれほど表情に豊かなほうではなかった。
だが、父はそんな羽瑠にほほえみ、「おまえは母さん似かもな」と言うので、それほど気にしてはいない。
「なぁ、羽瑠」
唐突に、兄の声音が変わった。
ぴりりと空気を一掃するそれに、羽瑠はすくなからず姿勢を正す。
「……俺、来年の夏になったら家を出る」
「えっ」
「心配ない。ちゃんと戻る。だが、時間がほしいんだ」
そう言った兄の顔はどこか思いつめていて、思わず頷いてしまった。
いつも、そうだ。
いつも兄は突拍子のないことを言う。
そして、自分はいつもほんのすこしだけ嫉妬してしまうのだ。
長い髪に指を絡ませ、羽瑠はつい、思う……。
(わたしも、一度城を出てみようかしら)
そのまま耳に髪をかけ、空を仰ぐ。
(行ってみたいところなんて、特にないのに……)
やや自嘲的な笑みを浮かべた彼女の耳に太陽の光が当たり、その紫のピアスがきらりと反射した。
*
冬の静けさに包まれて。
つんと冷えた鼻先をあたためようと手でおおう。
かじかむ指先は思うように動いてくれず、じれったい。
少女はひとりになると、いつも記憶にはない男を思い浮かべる。
彼は幼いころより少女の夢に出てきては様々に彼女を打ちのめすのだ。
悲しみ、苦しみ、恨み、それから……。
言いようのない感情の渦に飲み込まれていく男を見て、少女は胸が押し潰されそうだった。
彼の笑った顔が見たい。
穏やかな声を聞きたい。
――抱きしめてほしい。
けれどそれは叶わぬことだ。
よく知っている。
母親から聞いた彼の話に胸を踊らせ、夢でみた彼に笑ってほしいと願う。
叶わぬことだ。
彼に会える可能性は皆無だ。
だからうちひしがれるしかない。
それでも、彼女はやはり彼を忘れることができなかった。
もし、もしも夢で彼が笑ってくれたなら……自分はいつか、呼んでみたいと思うのだ。
お父さん、と。
*
秋のぬくもりに抱かれて。
うつくしい漆黒の髪を流し、女は空を見上げた。
そこには丸い月が朧げに浮かんでいる。
そよそよと心地よい風が頬をかすめ、つられたように女は自身の顔をひとなでし、ふと指にはめられた指輪に目をとめた。
銀色にきらりと光るそれは、彼女の宝物だった。
「ここにいたのか」
ふいに愛しい者の声がして顔をあげる。
穏やかな彼は、やはりきれいな黒い瞳をしていた。
出会ったころよりも歳をとり、そのまなざしには秘めた強さも加わっている。
純粋だった少年はいつしか、立派な男となって彼女の隣を支えていた。
「あのこたちは」
「いつもどおり。自由に空を飛んでいるわ」
「そうか。そろそろ動き出すと思っていたが……」
「やんちゃさは、あなた譲りね?」
「昔はいつも、仲良くふたりで眠っていたのになぁ」
にっと口の端を引き上げて彼は笑う。
彼女もふたりの寝顔を想像し笑みをもらした。
*
「またか」
呆れたような声を出しつつも、男の声はどこかうれしそうだ。
「ほら」
黒い瞳をふっと細め、彼は肩にとまる黒い鳥に自身の食べかけていた握り飯を半分に割って与える。
烏はひとつカァと満足げに鳴くと、ぱくりとそれを嘴にくわえて飲み込んでいく。
青年はしばらくそれをながめていたが、やがて残った飯に目を戻し、自分もそれを口に運ぶ。
「ああ……空は、碧いな」
ぐんと仰ぐそこには、濃くどこまでも広がる碧空。
白い雲も溶かすように、すべてを飲み込んでいる。
あの空は、どこまでつづくのか。
そして自分は、どこまでつづいていくのか。
……わからない。
「おまえは、好きか?」
――此が、好きか?
青年は言葉を飲み込む。
そのまま、自身を叱責するように無理にほほえんで、漆黒の翼を撫でた。
青年が鴉の屋敷の主となってから、十七年が経っていた。
*
いとしごは 今も 闇のなか
やさしい やさしい あたたかい 暗闇のなか
からすの まっくろな たなごころの なか。