41 追分⑤「だからなの」
亜希の言う想定外とは、転校生のことにちがいない。
「二学期から、三琴ちゃんが転校してきた。」
やっぱり。
「私ね、三琴ちゃんがこの町に来て、すごく動揺したの。三琴ちゃんはほんとにいい子。可愛くて、頑張り屋で、素直で。」
亜希は少し俯いて前を向き、物語を語るように話し始めた。
「そんな子が、悠生のそばに現れた。普通だったら、強力な恋のライバル、って思うじゃない?でも不思議なんだけど、嫉妬という感情が全然湧いてこなかったのよ。悠生が、三琴ちゃんに取られたらどうしようって、そんな不安が湧いてこなかった。」
冬の冷たい風に、足元の枯れ葉がカサカサと鳴った。
「優琉がクラスマッチの練習のことを知らせてきた時も、なんとも思わなかった。だけど二人がどんな顔で一緒に練習するのかな、ってそれは見たくなったの。でもそうしたら、」
亜希はその時のことを思い出したのか、少し笑った。
「悠生ったら自分だけ休んで、三琴ちゃんが一人で走ってたのよ。もう、しっかりしなさいよ!って思ったわ。」
そういえばあの時、亜希は少し不機嫌そうだったな。
「だけど、その次に見に行った時は、悠生もちゃんと走ってたし、三琴ちゃんが悠生を周回遅れにしようと頑張ってて、すごく微笑ましかった。」
その話を三琴から聞いた時は驚いた。三琴の芯の強さに触れた気がした瞬間だった。
「ふふっ、三琴ちゃんにね、悠生のことをどう思うか、聞いたことがあるのよ。研修旅行の前だったかな。三琴ちゃんは『おかしな人』って言ってたわ。」
三琴に聞いていた話だ。亜希はその時「そう!その通り」と笑ったと言っていた。
「私、すごく安心した。ちゃんと悠生のことをわかってくれてる、うわべだけ見ないで向き合ってくれてる、って思った。そのことを嬉しいと思う自分にも気がついたの。」
それから少し黙って、天を仰ぐように一度顔を上に向けた。
「彼女のこと、好きよ、私。悠生にはこういう子が一番いい、って心から思える。私はどんどん三琴ちゃんに惹かれていく悠生を見てた。」
まるで他人事のように、客観的に自分を見ているように、亜希は語った。
「あなたへの気持ちは恋じゃなかったのかな、って悩んだわ。だって、悠生が大好きで、いつまでもずっと見ていたいのに、独占したいって思わないんだもの。」
裏道に入ってきた車が、ヘッドライトで一瞬だけ亜希の横顔を照らして、走り去る。
亜希の頬には、細い光の筋がつたっていた。
それから、亜希は自分の気持ちに嘘がないことを確かめるように、二回、三回と頷いた。
「亜希、俺さ、この前優琉に聞かれたんだよ、お前はこの町を出ないのか、ってさ。」
「うん。」
「俺は、怖いからいやだって言った。この町を出ることが、じゃなくてさ、この町を出て、もしもそれを平気な俺がいたら、それを見るのが怖いんだ。」
亜希はゆっくりと俺のほうに顔を向けた。驚いているような表情だ。
俺の発言に驚いているわけでなく、「言っちゃっていいの?」という表情に見えた。
「俺はもう、寂しい悲しいと思わない自分を見たくない。感じたくない。」
「うん、わかってる。…だからなの。」
「ん?だから?」
「私はね、この町を守りたい。あなたと過ごしたあの町を守りたいのよ。」
「それで国の公務員になるのか?」
「ええ、そう。そうしたら、自分がどこにいても、何をしていても、あなたと生きているって思えるじゃない?」
亜希は自分のその決断に、なんの迷いも持っていないようだった。
「なあ、亜希…聞いていいか?」
「なあに?」
「人をものすごく大切に思う気持ちっていうのはさ、好きって言葉でいいのか?」
「そうなのよね、私も実はわかってない。」
「そうか…亜希にわからないことが、俺にわかるわけないか。」
この気持ちはなんと表現すればいいのだろう。この想いを言い表す言葉ってあるのだろうか。
亜希は俺を好きだと言った。その「好き」はどんな想いを表しているのだろう。
亜希はまっすぐに俺を見ていた。
「好き」といった自分の言葉の真意を探っているのかのようだ。
やがて、亜希は二回瞬きをした。
これは亜希が何か真面目な話をする前にする癖だ。
「ねえ、悠生…」
「うん?」
「キスして…」
瞳を濡らした亜希の、柔らかそうな唇が、目の前にあった。
「うーん、それは…、できないな、ごめん。」
キスなんてしたら、俺はもう俺ではいられないだろう。
どろどろに溶けて、何か違うものになってしまう。
「ふふっ」
亜希は微笑んでから、
「そう言うと思った。」
と言った。
「からかったのか。」
「ううん、違う。あなたと唇を重ねたら、きっと私はどろどろに溶けて、違う私に生まれ変わるような気がしたの。でも、そんなこと、きっとあなたは望まない。」
俺は亜希が、俺と同じことを思っていたことに驚いた。
「あはは、俺も今、まったく同じことを思ってた。どろどろに溶けて、自分じゃなくなる。」
ずっと一緒に育つうちに、似たような感性を持つようになったのだろうか。
「あはは、そうなんだ。…ねえ、悠生、最後に一つ聞いていい?」
「うん?最後?」
「うん。悠生は、私と生きていきたい?」
「…亜希は、どう答えてほしいんだ?」
「質問に質問を返さないでよ。そうね…、どっちでもいいかな。」
「どっちでもいい?」
「そう、あなたがイエスと言ったら、私は全部捨てる。夢も未来も、一度全部捨てて、別の未来に向かって歩き出す。あなたがノーと言ったら、私は私の夢に向かって全力で進む。」
「亜希と生きる、というのが、交際とか結婚とか、そういうことだったら、俺はそれより、亜希には自分の夢のために進んでほしい。だけど、自分の夢に向かって進む亜希と、同じ時を生きていきたいか、と言われたのなら答えはイエスだ。」
「うん、ありがとう、悠生。たぶん私はそう答えてほしかったんだわ。」
「それより亜希、最後ってどういうことだよ。」
「ああ、時間なのよ。私の持ち時間は終わり。」
亜希はすっと立ち上がった。とても清々しい気分、といわんばかりだ。
決めたことをやりきって、それで終わり。
「持ち時間?」
俺は座ったまま、亜希を見上げた。
「うん、そう。悠生は次の電車であなたの町に帰りなさい。駅であの子が待っているわ。」
「え、まさか…、あっ、まさか…」
「あははは、そう、その『まさか』とその『まさか』よ。待っているのは三琴ちゃん。仕組んだのは美悠ちゃん。」
余計なことをするなってあれだけ言ったのに、美悠のやつ。
「怒らないでね。三琴ちゃんと私と、ちゃんと話して決めたんだから。」
「えっ、三人で?」
「そうよ。いけなかった?」
「いや、いけないというか…」
「言っておくけど、悠生と二人きりで真剣に話す時間を作る、それだけよ、決めたのは。」
「真剣に…」
「そう、悠生はすぐに逃げる。だからよ。」
そうかい。
でも、逃げていたのはたしかだ。
答えを見つけることができなくて、忙しい毎日に逃げこんでいた。
俺は立ち上がった。
「わかった、じゃあ、行くよ。」
中軽井沢駅まで、さほど距離もない。
俺は亜希に背を向けて、駅に向かって歩き始めた。
(本当にいいのか、これで。俺は…)
俺は歩みを遅めて、振り返った。
さっき座っていたベンチの前に立って、亜希は俺を見ていた。
俺は立ち止まった。
その瞬間、亜希は俺に向かって走り出した。
あっという間に距離を詰めると、両腕を広げ、体をぶつけるようにして俺に抱きついた。
「悠生っ…!」
強く抱きしめられ、亜希の体温が、柔らかな体の感触が伝わってきた。
「亜希、どうした?」
「クラスマッチの時、私が三琴ちゃんを抱きしめたら、悠生が羨ましそうにしてたから、特別サービス。」
亜希はそう言って、俺を抱く手に力をこめた。
「悠生…」
亜希は俺の胸に顔をうずめるようにして小さく呟いて、それからゆっくりと腕の力を抜いて、その手を下ろした。
「うん、いってらっしゃい、悠生。」
そうだな。
今は、これが俺たちの決意だ。
俺はここに残る。亜希はここを旅立つ。
それができなかった時は、また考えればいい。
その時、二人の立つ位置が今と違っていたとしても、その場所からの道を探っていけばいいのだ。
「ああ。」
俺は一度頷いて、亜希に背を向け、今度は振り返ることなく歩き出した。
中軽井沢駅前の国道の渋滞はまだ続いていた。
駅前にもまだ大勢の人がいて、駅に向かう人も、たむろして話している集団もいた。
駅の構内アナウンスがかすかに聞こえてきた。
俺は階段を一段飛ばしで駆け上がっていった。




