39 追分③「ま、直接聞いてみっか」
その夜、俺は海野宿のイラストを2枚仕上げ、上田城のイラストも少しだけ手直しした。
30枚になったイラストのデータを亜希にメールする。
先方に送る前に、一応亜希に見てもらおうと思ったからだ。
ふぅ。これで一段落だな。
そう思っていたら、美悠が事務所のドアを開けて、
「お兄ちゃん、優兄が来たよ?」
と言った。そうか、来てくれたのか。
「おう、今行く。いや、ここに連れてきてくれるか?」
「はーい。」
美悠が戻っていき、しばらくして優琉が事務所にやってきた。
「よう。こっち。」
事務所の奥の打合せスペースに向かい合って座った。
優琉は気まずそう、というか、神妙な面持ちだ。
「昼間は悪かったな、悠生。」
「いや。翔太に聞いたよ。研修旅行の後からだって?」
「ああ。その前はクラスマッチ委員で一緒だったんだ。」
「そうなのか、藤宮は、D組だっけ?」
「ああ。」
「あれ、でもあの子、運動部じゃないよな?」
「まあ、運動部じゃなきゃいけないってこともないんだけどな、体よく押しつけられたみたいだな。」
「そうか。」
「慣れないことでかなり苦労してたから、ときどきお節介焼いたりしてたんだよな。」
「ああ、そういうことか、優琉らしいな。」
「でまあ、クラスマッチの後に告白というか、彼女はいるのか、って聞かれてさ。」
「なるほど、彼女はいないけど好きな子がいると。」
「ああ、そう答えたんだよな。それで、綾乃は他の子に、俺には好きな人がいるらしい、ってことを話したらしいんだけど。」
「ああ。」
「それが変な噂に発展しちまったわけだよ。」
「下田ハーレムか…。」
「そう。でな、研修旅行の二日目にさ、ひがし茶屋街でばったり会ったんだけど、すげえ謝られちゃって。ともかくその時はなんとか宥めて、長野に帰ったらちゃんと話そう、ってことにしたんだ。」
だが、優琉が話したいのはそんなことじゃないはずだ。
どう切り出せばいいか迷っているのだろう。それは、俺も同じだった。
それから、優琉は黙って、俺も言葉を出せずにいて、数分間の沈黙があった。
俺は、余計な言葉を全部省いて口を開いた。
「優琉、俺、亜希に好きだって言われた。」
「ああ。そうだと思ってた。」
「黙っててごめん。言えなかった。」
「そうだと思ってた。」
同じ言葉を繰り返して、優琉は笑った。
「悠生、いいんだ、それはお前の責任じゃない。」
「ああ。それで、ここからは俺の責任の話なんだけどさ。」
「そうだな、どうするんだ?」
「俺も、優琉と同じだよ。亜希の幸せを祈ってる。あいつは、長野にずっといるような人じゃない。」
「それはそうだけど、お前は、お前なら、長野じゃなくたってやっていけるだろう?」
「それは考えてないよ。俺はここで生きていく。」
「家のことがあるからか?」
「もちろん、それはあるよ。だけど、それだけじゃない。怖いんだよ。」
「ここを出ることが?」
「いや、違う。ここを出て、平気でいられるような自分だったら、って思うと、怖くて仕方がないんだよ。」
優琉は少し首を傾けて、しばらく黙った。俺の言葉を解釈しようとしているようだった。
「ごめん、わかりにくくて。」
俺はかろうじて、そう言った。だけど自分の口から解説することはできなかった。
泣き出すことがわかっていたからだ。
やがて、優琉は静かに聞いた。
「違ってたらごめんな、悠生。それって、お母さんのことがあるからなのか?」
涙が出てきて、俺は黙ったまま、頷いた。
「そうか…。この前、軽井沢で話した時にさ、悠生は『孤独や寂しさを感じない』って言ったよな。それは俺たちがいるからだって。それを言った時、お前、なんかすごく辛そうだったんだよ。そのことが悪いことみたいに言ってた。」
そうだったのか、自分では気がつかなかった。
「なぜかなあ、って、なんとなく思っただけだったんだけど、あの後も気になってさ。」
俺は叱られている子どものように、顔を上げることができずに黙っていた。
「今、聞いて、やっとわかったよ。亜希には話したのか?」
「亜希には、自分の心のうちの深いところを覗くのが怖い、ってことは話した。」
「そうか。」
優琉はまた何かを考え込むように、しばらく黙った。それから、少しおどけたように言った。
「ま、直接聞いてみっか。」
そう言って、スマホを取り出す。何をする気だろう。
「よう、亜希。」
聞いてみるって、亜希にか?
「ちょっと報告と、聞きたいことがあって電話した…ああ、俺、彼女ができた。…あはは、D組の藤宮…ああ…ああ、ありがとな。それで実は今、悠生と一緒なんだけどさ…ん?目の前で沈んでる…まあ少しな…それで聞きたいんだけど、亜希、進路調査に何書いた?……そうか…ああ…そうなのか。…わかった。ありがとな。」
電話を切って、優琉は小さくため息をついた。そして――。
「東京大学だってさ。国家公務員をめざすらしい。」
そうでなくてはいけない。
さすが亜希だ。それでこそ、俺たちの亜希だ。
「な、優琉、わかっただろ?あいつは、俺たちの亜希なんだよ。俺の亜希じゃない。」
「そういうことか…。」
俺たちは顔を見合わせて、二人で力なく笑った。
「あ、それと、お前にメールしたって言ってたぞ?」
「ああ、さっきイラストのデータ送ったからな。」
俺はのろのろと立ち上がって、パソコンの前に戻った。
メールを開くと、亜希から返信が入っていた。
「完璧です。ありがとう!」
と、二言だけ書かれていた。
そこには万感の思いがこめられている、かどうかは知らないが、満足してくれたようだ。
それからの二週間は、まさに怒涛の日々だった。
優琉が毎日のように、同級生たちから金沢の情報をもらってきたし、試験も迫って来た。
やがて優琉は、毎晩のように俺の家に来て、一緒に作業をしたり、試験勉強をしたりして過ごすようになった。ときどき、綾乃も連れてきた。
「会えない日が続くとかわいそうだろ。」
と言っていたが、綾乃のほうはうちに来るなり、俺に頭を下げて、
「ごめんなさい、下田君。私のせいで…変な噂が…」
と、語尾が消え入るような話し方で謝っていた。
それを聞いた美悠が、
「噂?なに、お兄ちゃん、どんな噂?」
と聞きたがるから、例の「下田ハーレム」の話をしてやったら、
「きゃははは」
と笑い転げて、綾乃お嬢様を驚かせていた。
朝はいつも通り、三バカと三琴、亜希の五人で登校していた。
三琴はときどき挙動不審で、俺をチラチラ見る日もあれば、じっと上目遣いで見ている日もあったが、特別な相談はなかった。
ただ、俺がだんだん憔悴していく様子は気になったようで、「大丈夫?」と心配してくれた。
四日間に及ぶ定期試験をなんとか乗り切り、それから二日間でホームページのデータを完成させて、生徒会に納品すると、もう12月も半ばを過ぎていた。
その途中のどこかで、例の進路調査票も提出したのだが、いつだったかはよく覚えていない。
これまでの人生の中でたぶん最も多忙な二週間を終え、家に帰った俺は、さすがに今日ばかりは何もする気が起きなかった。
親父にそれを伝えるのに、事務所で言うわけにもいかないから、家の中から電話をかけた。
「んー、どうした?」
「ごめん、親父、今日は何もする気にならないわ。」
「ははは、そうか、頑張ってたもんなあ、わかった、ジャムの発送はなんとかする。」
「あ、いや、それは後でやるけど、夕飯は作れない。」
「なんだ、そっちか。じゃあ、外食にするか。美悠を駅でピックアップしてそのまま行こう。」
「助かる。」
「何が食いたい?」
「んー、肉。」
「わかった。」
それから1時間あまり、ソファで毛布をかぶって仮眠していたら、親父に揺り起こされた。
「悠生、時間だぞ、行けるか?」
「おう、起きる。」
制服のままだったけどまあいいか、美悠も制服で帰ってくるから。
寝ぐせだけ少し直して、俺は親父の車に乗りこんだ。
駅前で美悠と合流して、国道沿いの焼き肉店に入った。
美悠は久しぶりの焼き肉に大はしゃぎだ。
俺も食事をしているうちに、少し元気を取り戻した。
「ねえ、お兄ちゃん、24日ってヒマ?」
ちょうどよく焼き色のついた上カルビを取り上げて、タレにつけていると、美悠が聞いてきた。
「何曜だ?」
肉を口に入れる。歯で噛み切るまでもなく、口には上質な脂が広がり、肉は舌の上で溶けるようにほぐれた。
「木曜日!」
ああ、たしか翌日の金曜日が終業式だったな。その前の日は別に予定もないはずだ。
「学校の後は暇だけど、なんかあるのか?」
次の肉を取って焼き網の上に乗せる。
「行きたいところがあるんだ!」
「ふーん、で、お前に行きたいところがあることと、俺が暇なことにどんな関係があるんだ?」
「もう、わかってるくせに、一緒に行ってほしいの!」
「えー、どこに行きたいんだよ。」
焼肉は一回しかひっくり返してはいけないらしいから、焼き網の上の肉色に注意を払う。
美悠はスポーツバッグから一枚の紙を取り出した。何かのチラシのようだ。
「これなんだ。」
「ああ、それか。」
と言ったのは親父だった。




