第44話 紫奇猿の襲撃
大人の男性三人分はあろうかという体躯には、隆起した筋肉がまるで岩のように盛り上がっていて、兵士に向けて一振りした腕は、勢いのまま木を薙ぎ倒した。
背中にはまるでぼろ布のような所々破れた翼がある。見開いた大きな両目は禍々しいほど真っ赤で、始終辺りをぎょろぎょろと見回している。
そのあまりの恐ろしさと兵士たちのパニックを見て、ルカの頭は真っ白になってしまった。
「な、なんだ!? あの魔物は!! ま、魔法騎士は!? なんでこっちにいないんだ!!」
怯えた声を上げたギルバートは剣を抜きもせず、ただただ戦う兵士たちと魔物を見ている。
その情けない姿を見て、ルカの恐怖が少しだけ遠退いた。
「ギルバート! お願い! この縄を解いて!! 私も魔法が使えるから!!」
「え!? え!? で、でも、解いては僕が怒られてしまうし……」
「今、そんなこと言っている場合じゃないから!!」
次々と地面に倒れていく兵士たちを見てルカは怒鳴った。この状況でギルバートは何を言っているんだと、怒りが沸き上がってくる。
そんな中、またも大きな悲鳴が遠くから近付いてきた。木々を掻き分けて逃げてくる兵士たちを追って、最初の魔物よりも一回り小さな魔物が三匹、凄まじい勢いで走ってきた。
「まだいるの!?」
一匹だけでも兵士たちの手に負えないのにとルカは愕然とする。
逃げ惑っていた兵士たちは四匹となった魔物に囲まれ、一人また一人と倒されていく。ある者は鋭い爪に引き裂かれ、ある者は剥き出しの牙の餌食になった。
そのあまりの光景にギルバートがその場で腰を抜かした。
「ギルバート!! 早く縄を解いて!!」
木に括られていては何もできない。ルカは声が枯れるほど大きな声で叫んだが、ギルバートは怯えた目で魔物を見るばかりで、こちらを見ようともしない。
そうこうしている内に、周囲の兵士たちはあっという間に倒されてしまう。そして、魔物の一匹がこちらに目を向けた。
「あ……、た、助けて……」
「ギルバート!! お願いよ!! ギルバート!!」
ゆっくりとこちらに歩いてくる魔物を見て、ギルバートが震える足でどうにか立ち上がる。やっとルカと視線が合って、これで縄を解いてもらえると安堵したのも束の間、ギルバートはそのまま走り出してしまった。
「え!? ギルバート!?」
叫び声を上げながら、森の中へ走って行くギルバートを首を捻って見たルカは、ゆっくりと首を戻した。
まっすぐに向かってくる魔物の口からは、今まで食い殺した兵士たちの血が滴り落ちている。それを見て全身が震えた。
(どうにか……どうにかしなくちゃ……)
でももう魔物との距離は数歩もない。
「し、思羅様! 鈴!! 助けて!!」
もうこれしかないと聞こえるかは分からなかったけれど、声の限りに叫ぶと、その途端、凄まじい音と共に雷が落ちた。
ルカを取り巻くように何本もの雷が落ち続ける。魔物がその直撃を受けて、ギャンと低い声を上げた。
「助けに来たよ!」
呆然としていると、耳のそばで声がした。振り返ると、鈴が人の姿で縄を解いてくれている。
「鈴!!」
「こっちに!」
耳がよく聞こえず鈴の言葉がよく分からなかったが、手を引かれてその場から少し遠ざかる。
さきほどまでいた場所ではさらに大きな雷の音が鳴り響いている。
「あっちにもこっちにも紫奇猿がいるの!」
「あれが紫奇猿なのね!?」
「そう! あんなにいたら手に負えないわ!」
低木の陰に隠れるように座ると、思羅の戦う姿が見えた。白銀の黒雷尾の大きく膨らんだ尻尾から、雷が発生しているように見える。
小さな体の紫奇猿たちは一緒に来た他の黒雷尾たちと戦っている。一際大きな紫奇猿は、思羅と対峙しているが、尻尾から放たれる雷を上手く避けている。
そうして思羅との間合いを詰めると、素早く腕を振るった。その腕の一撃を思羅はかわしたが、追撃の手はやまない。思羅がそれを嫌がってか、翼を広げて空へ逃げようとしたその時、紫奇猿もまたぼろぼろの翼を広げて飛び上がると、思羅の上を取った。
大振りの一撃をまともにくらい思羅が地面に叩きつけられる。
「思羅様!!」
思わずルカが叫ぶと、紫奇猿がこちらを見た。
目が合ったルカは、一瞬で冷や汗が溢れる。
だがそこで状況が一変した。
ことさら大きな雷が落ちると、黒い大きな黒雷尾がひらりと思羅の前に降り立った。
「櫂様!?」
驚くルカの肩を誰かが抱いて、振り返ると険しい表情の嵐が立っていた。
「華露! 鋼を助けてやれ! 櫂は思羅を! 他の者は離脱だけを考えよ!!」
「嵐!?」
ルカを抱きしめた嵐は、大きな声で指示を飛ばしている。気付けば周囲には晶国の兵士たちが十数人いて、剣を振るっている。
四匹だけかと思った紫奇猿だったが、周囲にもまだいるようで、そこここで戦う音が聞こえている。
「嵐はルカを連れて上空へ!」
「分かった!」
櫂の声に嵐は頷くと、そばにいた翅馬に飛び乗る。嵐に腕を引っ張られるとルカの身体はふわりと浮き上がり、嵐の前に座った。
「ら、嵐!」
「掴まって!」
そう言うやいなや嵐は翅馬の腹を蹴り、急上昇する。木々の隙間を抜けて空へ舞い上がり、下を見ると、かなりの広範囲で戦いが起きているようだった。
森の中で、雷以外にも炎や水の魔法が見える。エクールの兵士も戦っているのか、それとも晶国の兵士かは分からなかったが、とにかく戦いは続いており、木々の隙間から暴れる紫奇猿が見えた。
「陛下! ルカ様を見つけられたならお引き下さい! 後は私にお任せを!!」
「鋼! 深追いは絶対にするなよ!!」
「御意!!」
嵐を追い掛けるように翅馬に乗って空に舞い上がったのは、女性だった。女丈夫という感じで、微動だにせず槍を持つ姿は武人然としていて、強さと美しさを兼ね備えたような人だ。
鋼という人物はてっきり男性だと思い込んでいたルカは、ついその顔を凝視してしまう。その視線に気付いた鋼はルカと目を合わせるとにこりと笑った。
「良い度胸のある方のようだ。私と気が合いそうだ」
鋼はそう言うと、こちらの返事を待たずに下降していく。その姿を追ってルカが首を巡らせると、その口元に嵐が布を押し当てた。
「なに?」
「毒避けだ。口を覆って。さ、行くよ」
嵐の言葉に驚いたルカは慌てて布を口に押し当てる。
そうして戦乱の喧騒を背後に、翅馬は上空を走り出した。
「エクールの人たちは……」
「全員助けてやりたいが、こちらも余裕がない。一旦引いて態勢を整える。このままじゃこちらも危ないからな」
真剣な目でそう答えた嵐は真っ直ぐ前を見据えている。ルカはその目を見つめた後、そっと背後を見やった。
いつの間にか護衛だろう兵士たちが数名、翅馬に乗り周囲を飛んでいる。頭や腕から血を流しているその姿を見て、自分の浅はかな行動によってこんな酷いことになってしまったのだと、取り返しのつかないことをしてしまったと後悔に心が沈んだ。




