春です、2
犯人のあまりに無謀な行動の意味を、推し測ろうとして、測りかねて、その日は結局そのまま解散となってしまった。
だが翌日、再び悠スポの号外が発行された。新聞部は、いったいどこから情報を得ているのか。そこには、前日の放課後、北校舎一階の更衣室で、またカメラのシャッター音を聞いた生徒がいた、と書かれていたのだ。
「西林寺くん、生徒会が盗撮犯を捕まえてくれるんでしょう?」
掲示板の前で、一人の女子生徒が不安げな顔で直姫に話しかける。ショートボブの幼い顔立ち。確か、昨日の朝に自分はテニス部だ、と言っていた、隣のクラスの子だ。なにかの参考になるかと見ておいた女子テニス部員のリストにも顔写真が載っていたはずだが、案の定直姫は、名前までは覚えていなかった。
「もう、怖くて怖くて……」
「え、と……うん、自分にできることは、あまりないかもしれないけど」
「東雲先輩や石蕗先輩ならきっと大丈夫よね?」
彼女の目は、まっすぐを直姫を見つめる。
その瞳に少しの揺らぎもないことに気づいて、直姫は言葉に迷った。そして目を逸らせずに、ぽつりと呟く。
「うん……きっと。」
これが、生徒会への信頼の高さなのだ。
少女は短い髪を揺らして、口許に手を添えた。直姫がその意図に気付いて耳を寄せると、小さな囁き声で、言う。
「あのね、実は、内緒のお話があるのですけど」
◇
その日の放課後。一階、東側の階段の横、北第二女子更衣室。
四時半を少し過ぎた頃、その小窓から、ぱっと灯りが漏れ出した。換気用の窓はずっと開けられたままで、そこからきゃいきゃいと女子生徒の声が漏れている。部活動の終わった生徒たちが、着替えをしに戻ってきたのだ。
裏庭で、なにかが動いた。
◇
揺れる桜の枝を、直姫は遠くから見ていた。
目の前の木は、一昨日根元にござを広げた、あの一番大きなソメイヨシノだ。緩やかな風にさえ耐えきれずに、時期の過ぎた花びらが千切れて舞い落ちていく。その様を眺めてから、直姫は隣に目をやった。
高い鼻と細い顎。
長い睫毛が時々震える。
夏生先輩はほんとに女の人みたいだ、と直姫は思ったが、口にしないほうがいいことは、さすがに学習していた。直姫にだって、これ以上出して困るぼろはたくさんある。地雷は踏まないにこしたことはない。
薄く開けた扉の隙間から、桜並木がどんどん影を濃くしていくのが見えた。
「五時過ぎましたね。暗くなるのが早いな……」
「山の麓だからね。直姫、向こう見えてんの?」
「端の桜ですか? なら、見えてますよ。人が登ればさすがにわかると思います」
「へえ……ほんとに目いいんだ」
悠スポによって、昨日の朝には全校に盗撮犯の存在が知れわたったはずだ。
だが、それを承知で、犯人は昨日もう一度ここへ来た。明らかに、見つからないようにやろうという考えは捨てている。
ならば、今日も来たっておかしくない。だったら裏庭で見張っていればいいのではないか、という安易な考えで、生徒会役員全員で盗撮犯を待ち伏せすることに決まったのだ。
夏生と直姫は今、例の木から一番遠い、校舎中央あたりに位置する裏口で待機している。
「ホントに来るんですかね……」
「さあね。」
呆れたような疲れたような、ため息混じりの声を出した直姫に、夏生は答えた。答えになってはいないが、生徒会室にいる時の夏生は、いつもこんなものだ。
気のない返答に焦れて、直姫が例の木へ投げやりな視線を戻した、その時だった。
風は止んだはずなのに、桜の枝が、揺れていた。
◇
薄暗闇の中でぼうっと浮かび上がった淡い桃色が、かさかさと枝葉の擦れ合う音を立てている。
二人は、細く開いた扉の隙間に張り付いた。更衣室からの声は、まだ漏れ聞こえている。
夏生が、押し殺した、だが冷静な声で言った。
「……誰かいる」
「見えてます」
「聖たちは」
「見えません」
端的な会話。
直姫がそう言った時、更衣室から漏れる灯りにぼんやりと照らされた桜の根元に、不自然に動く人影を見た。
それは幹に足をかけて、手を上に伸ばしている。木に登ろうとしているのだ。
そして次の瞬間には、校舎の影や木の影から飛び出す、いくつかの人影。
「来ましたっ!!」
真琴の声が響いた。
夏生が扉を開けて飛び出す。直姫も後に続いた。
更衣室の声がぴたりと止んでいる。
慌てて木から離れたその人の背中に、上背のある人影が飛び付く。たまらず倒れ込めば、もう逃げ場なんてあるはずもなかった。
夏生の後ろ姿が、少しずつスピードを落として、ついに立ち止まる。
直姫が追い付くと、軽い深呼吸を数回していた。息も切れてないなんて嫌味な、と思いながら、自分の呼吸を整える。
「は……、離せっ」
「はいはい離すわけないでしょー」
「お縄じゃー! なーんつって」
准乃介が、聞き慣れない声をあしらいながら、背中に膝を乗せている。聖と真琴は手を押さえつけているが、じたばたともがくその動きに、逃げる気などさらさらないのは一目瞭然だ。
もうすっかり日の落ちた裏庭で、捕獲劇はあっさりと幕を下ろしていた。
◇
「ほう……お前か、盗撮犯は」
紅が目を細めると、彼は肩を揺らして顔を背けた。
家は剣道家元、自身も全国大会で負けなしの記録を五年間更新し続けている彼女だ。竹刀を持っていなくても、恐ろしいものは恐ろしいのだろう。
そんな紅は夏生と直姫から遅れることわずか、裏口から飛び出してきていた。
更衣室で灯りをつけ、まるでテニス部員が数人入ってきたかのようにずっと声をあげていたのは、実は紅と恋宵だったのだ。女言葉なんて話したことのない紅は戸惑っていたが、恋宵が一人で五役分の声色を使い分けていたので、相槌だけでなんとかなった。本物のテニス部員を使ってもよかったのだが、彼女らが盗撮犯確保の囮なんて怖がったのもあるし、なにより、女子テニス部は秘密裏に活動を自粛している。情報の早い新聞部さえまだ知らないその話を、部員の一人にこっそり教えられたのは、直姫だった。
北校舎はすでに、とっくに人払いを済ませてある。そうでなければ、夏生がにこりともしないやる気なさげな表情と、柔らかさのかけらもない無愛想でシンプルな口調を、晒すはずもない。
生徒会室に場所を移してから、捕まった男子生徒はすっかり縮こまって、俯きっぱなしになってしまっている。
それも当然だろう。
この生徒会室は、彼らのテリトリーなのだ。座り心地最高のふかふかのソファーまでもがそれを物語っていて、彼はいっそう居心地が悪そうに身を固くした。
不要と言っていい応接スペースにコの字に三つ置かれたソファーの、一番扉から遠い一人掛けで小さくなっているのが、盗撮犯だ。その向かいには夏生が座り、間の三人掛けのソファーには、紅と准乃介が並んでいる。直姫や聖たちは長机のほうに、傍観という名の避難をしていた。
「……で? なんで盗撮なんてしたんです」
夏生はため息を吐いて、足を組み替えた。いつも通りの仕草だが、相手の態度が態度なので、やけに高圧的に感じられる。
「いや、あの、僕は……なにも知らな」
「なにも? なにも知らないと言ったか、今」
「ひっ!? あの、ちが、違うんです」
腕を組んで睨みを効かせる紅は、どこか言い得ぬ迫力のようなものがある。隣では准乃介がいつもの微笑みを浮かべているから、なおさらだ。
「事実だけ言ってください、言い訳が聞きたいわけじゃないですから」
心底興味のなさそうな声で、夏生が言う。
自分はただ与えられた役目に従って行動しているだけであるという、その整然とした行動理念が、かえって厳しい。あまりに静かな声色に、直姫たち四人は、生徒会室の隅のほうで囁いていた。
「いやこわいこわいこわい」
「なんですかあれ、魔王じゃないですか、二人いるとか反則」
「てゆうか准乃介先輩なんであそこに入ってられてるんですか……!?」
「インテリヤクザさんみたいだにゃー。ヤクザさん、見たことないけろ」
部屋の隅になぜか立て掛けてある竹刀に、聖がちらちらと視線を送る。まさか、まさかな、まさかいくら紅先輩でもあれに手を伸ばしたりはしないよな、という、そんな内心は四人共通だ。
「あっ、あの……!」
紅が焦れてそろそろ最高級のオークのテーブルでちゃぶ台返しでもやるのではないかと思いはじめた時、盗撮犯が、口を開いた。ぎゅっと握りしめた拳が、膝の上で震えている。
口を閉ざしたままなんてことは絶対にないはず、とぼそりと呟いていた夏生の言葉は、正解だった。
「と、盗撮は……確かに、僕がしましたっ……」
夏生も紅も、なにも言わずにじっと男子生徒を見ている。無言の促しに、彼は俯いたままで言った。
「で、でも、実は……頼まれた、というか」
「頼まれた?」
准乃介が、あくまで穏やかな口調で聞き返した。彼は二人の視線のせいで緊張がピークに達していたようだが、その声でいくらか強張りが解かれたのか、少しだけ顔を上げる。
「お、……いや、頼まれてやったんです、その、断れなくて」
「断れなくて、ねえ……つまり脅迫ってこと?」
「いえ、あの、それは……」
彼の泳いだ視線は、肯定を示していた。盗撮の実行犯は彼だが、彼を脅迫してやらせた人物が他にいるのだ。
部屋の隅の四人は、顔を見合わせる。
「盗撮って他人にやらせますかね」
「うーん……撮った写真を売る、とかなら?」
「でも、悠綺(ここ)で撮った写真ってすぐにバレちゃうじゃないですか。世間に出回ってから特定されたら……リスクが高すぎますよ」
「それに、お互い弱味握り合うことにもなっちゃうにょろ?」
「じゃあなんでわざわざ……」
紅は眉をしかめて、盗撮犯の目をじっと見ていた。
「いったい誰にやらされたんだ?」
「それは……それは、言えません……」
「どうして!」
「言えないんです、すみません……許してください」
彼を脅迫して盗撮を強要しせたというその人物から、口止めされているのだろう。そうなってくると、男子生徒がわざと連日同じ場所に現れた意味も、わかってくるような気がした。
彼なりのメッセージだったのだ。自分を捕まえてくれ、そして自分にこんなことをさせている奴を突き止めてくれ、という。
それがわかったからだろう。紅の表情からはすっきり毒気と怒気が抜けて、困惑したような顔をしていた。
「僕からは言えないんです、わかってください」
「いや、けど……」
「言ってしまったらなにをされるか……! 僕はなにも言ってないですよね!? おねがいします、僕の様子を見て、あなたたちは裏があると思った、そういうことにしてください!」
よほど切羽詰まっているのだ。目には怯えが浮かんでいた。必死だが異様なSOSに、紅は准乃介と、夏生に視線を流した。いったいどうすればいい、と。
夏生は紅に一瞥を返してから、ゆっくりと口を開いた。
「……三年B組、丸井芳樹。写真部員」
「……は?」
「東中出身だけど二年になるまでは桜ヶ丘中でしたね。成績は学年三十八位。ああ、これは一月にあった期末テストの結果です」
「あ、え、何を」
「両親と五歳下の妹、父方の祖父母と六人暮らし、電車で片道一時間半かけて通学してる。父親は小さな印刷会社を経営してますね。けど最近は経営難で」
「ちょっ、ちょっと待ってください! どうしてそんなことまで」
滔々と語る夏生の言葉を、盗撮犯――丸井は、慌てて遮る。焦った様子を見ると、夏生が今言ったことは、全て事実のようだ。顔色をなくした丸井に、夏生はにんまりと目を細めた。
「俺の情報網、なめないでね? アンタのこと全部調べさせてもらったよ。生年月日に産まれた病院、趣味、好きなアイドルから初恋の相手まで、ぜーんぶ。」
「な……、な」
丸井の開きっぱなしになった口から、意味のない音が漏れる。
夏生は、目を細めたまま、小首を傾げた。故意犯的なその仕草が、余計に気味の悪さを助長している。
「ねえ、知ってること、ぜんぶ話しなよ。会社どうなってもいいの?」
あまりにストレートな脅し文句だ。夏生と丸井の間で紅は苦い表情を浮かべ、准乃介は困ったように笑った。
一介の高校生がなにを馬鹿なことを――では、ない。彼ならばそれができる。そんな印刷会社一つ潰すのに、わざわざ別の人間を使うまでもない、一介の高校生の権力でもどうにかできる。そう言っているのだ。
差を見せつけるには、下品なほど効果的な言葉だった。
真っ青な顔で俯いた丸井が、顔を上げる。だがその目には、怯えや絶望ではなく、はっきりとした決意が浮かんでいた。
「……僕に……盗撮を、させたのは」
◇◇◇
翌日、直姫は、テニスコートにいた。直姫だけではなく、真琴と聖、そして夏生も一緒だ。
悠綺高校の敷地は大まかにいって、中庭を四角く囲む東西南北の校舎、そしてその外側をさらに大きな四角に囲む各施設、という形だ。
各校舎の裏庭には目隠しを兼ねて、北校舎の桜のように、春夏秋冬の木が植えられている。その中でも、エンジュの根本にアジサイの植えられた東校舎の裏庭の外に、テニスコートはあった。
「……で? どれですか、丸井さんの言ってた人」
アジサイの影に屈み込んだ四人は、小声でぼそぼそと囁き合っていた。テニスコートのほうから見つからないためであるが、東校舎のほうからではむしろ目立っていることは、この際仕方がないと割り切っている。
二面しかないコートの広さのわりに、テニス部員の数は多いようだ。一見してそう思ったのだが、どうやらそれは勘違いであることに、すぐに気付いた。男子テニス部の部活動中なのに、コートを囲む半分以上が、制服のままの女子生徒なのだ。誰かがプレイをするたびに一部が歓声を上げたり、手にタオルやドリンクが握られたりしているが、まさか彼女ら全員がテニス部のマネージャーであるなんてことはないだろう。ただ見に来ているのだ。芸能人と同じ感覚で生徒会役員たちに憧れるように、他の目立つ生徒にもまた、いわゆる“ファン”がいる、ということだ。
「んーと……あれ」
一人の部員がコートを離れると、一際大勢の女子生徒たちが、ぞろぞろとその周りを囲んだ。どうやら一番人気のその人が、直姫たちが探している人物らしい。
「2Dの吉村圭一、テニス部主将。確か、家は出版社だったかな?」
聖が呟いたのは、同じ学年なら知っていてもまあそれほどおかしくはないかな、という程度の、当たり障りのないものだった。
だが昨日夏生が丸井に白状させるために使った情報は、そんな浅いものではない。普通にしていればまず知るはずのないものも、中には混じっていた。全校生徒の顔と名前を記憶しているとは言っていたが、まさか全校生徒の個人情報まで頭に叩き込んでいるわけではあるまい。つまり、調べたのだ。実に正確な情報を、実に迅速に。
どうやって調べたのかは、聞かないほうが身のためな気がしている。
◇
生徒会室に呼び出された吉村圭一は、なぜ自分が呼ばれたのか、わかっている様子だった。
紅の固い表情を見れば、心当たりのある人間は平静ではいられないだろう。今にも真剣で斬られそうな雰囲気の中、吉村は開口一番、大きな声を出した。
「すいませんでしたあっ!!」
その声と同時にぱたりと閉まった扉を一瞥して、夏生は呆れ顔で言った。
「そーゆうのいらないから。大きな声出さないでくれる」
「で、でも」
「丸井から話は聞いた。彼に指示を出して盗撮をさせたのは君なんだな?」
吉村は、深く下げていた頭をゆっくりと上げる。
その表情を見て、尋ねた紅は眉をひそめた。その顔はまるで、なにを言っているのかさっぱりわからない、とでも言いたげだったのだ。
「僕は……テニス部の後輩の女子のことを、調べてほしいって頼んだだけです」
「は? なにを言っているんだ」
「まさか、丸井くんがあんなことするとは思わなくて……。好きなものとか、ちょっと聞き出してくれるだけでよかったのに」
「盗撮は丸井が勝手にやったっていうのか?」
「そうですよ! 写真が趣味だからって、盗撮なんてするとは思ってなかったんです」
吉村は、必死に訴える。小綺麗な顔立ちに浮かべる痛切な表情は、誠実そうに見えた。
だが夏生は、長い睫毛を伏せて、溜め息を吐く。
「……そんな言い訳が通用すると思ってるの」
「え、いや、僕は本当に」
「甘く見すぎ」
普段の愛想のカケラも残っていない話し方と、どこか気だるげな表情に、吉村は狼狽えた様子を見せた。探るように夏生をちらちらと伺っているが、真正面から目を見る度胸はないようだ。
夏生はゆるりと瞼を上げて、吉村をちらりと見た。
「その、後輩の女子部員。恩田聖菜ちゃん?」
「え?」
「中等部の頃に告白して、とっくにフラれてるんでしょ」
吉村は目を大きく見開いた。口も開けたままで、夏生に視線を返している。
「『好きなもの聞き出してくれるだけでよかった』? テディベア蒐集が趣味だって調べ上げて誕生日にプレゼント押し付けたの、誰だっけ?」
「な、んで、そんなこと」
「休みの日に偶然装って遊園地で待ち伏せてたのは?」
「それ、……あ、」
吉村はもう言葉も出せずに、それでもなにか言おうとして、ただぱくぱくと口を動かしていた。その表情は、このあとどんなに否定しようと無駄なほど、夏生の言葉が真実であることを裏付けている。
「丸井を使ったのは、彼の両親の印刷所が、あなたの父親の出版社と契約していたから。父親に口利きして契約解消されたくなかったら自分の言うことに従え、とでも言ったんでしょ」
知ってしまえば単純な筋書きだった。
丸井は吉村が脅迫を実行することを恐れて、無茶な指示に従い続けていた。実際に吉村に、父の会社経営に口出しする権力があるのかどうかは怪しいものだ。
だが丸井は、乗らずにはいられなかった。それが明らかな犯罪行為にまで発展しようと、自分のせいで印刷所が倒産しては、困るのは両親だ、と思っていたからだ。こんなことはしたくないと思いながらも、吉村に何をされるかと考えれば、やめることはできなかった。たからこそ、あえてわざと捕まりやすいような行動をして、生徒会に助けを求めたのだ。
吉村は想いを寄せる後輩にすげなくされ、ストーカーと化していた。だがストーカー行為を行うのでさえ、自分の手を汚すことは嫌がったのだ。彼の見た目がそれなりでも、後輩の恩田聖菜嬢が気持ちに応えなかった理由が、なんとなくわかるというものだ。
「最低だな」
紅が低い声で呟く。軽蔑の視線でも人は殺せるかもしれないと直姫が感じるほどには、その目付きは険しい。
だが吉村は、その言葉に、胡乱げな顔を上げた。口は噤んだままで、ただ紅を恨ましそうに見つめている。
その視線に気付いた准乃介が、紅と吉村の間に割って入ろうとした時、真琴が言った。
「ひどいです……そんな卑怯なことしてまで、人を自分の思い通りにしたかったんですか。できると思ったんですか」
生真面目な彼らしい発言だった。悲しげな声で、眉を歪めて、心の底から被害者と丸井に同情しているような、そんな表情を浮かべて。
だが、まるで聖者のようなその態度が、吉村の心を逆撫でした。単純に、気に食わなかったのだ。
「ひどい? なにが? 綺麗事言ってんじゃねえよ」
忌々しげに顔を歪めて、吉村は口を開いた。真琴が目を丸くする。
「自分が一番だろ、そうに決まってんだろ! だったら利用できるものは全部利用するだろうが! 世の中金と権力なんだよ! お前らだって、」
もはや、テニスコートで颯爽とラケットを操っていた爽やかな青年と、目の前にいるこの男が同一人物だとは、信じられなかった。一旦言葉を切って、ごくりと唾を飲んで、続ける。
「お前らだってそうだろ!? いや、人より利用できるものが多いんだからいいよなあ、お前らは。顔もいい、家もいい、頭もいい、なんでもできる、金も権力もコネもある!!」
真琴は、吉村の気迫に身を縮めていた。誰もが呆気に取られていたが、我に返った聖が「おい、」と吉村の肩に手をかける。だがすっかり激昂した吉村は、その手を乱暴に振り払った。
「るせえ!! お前らみたいに、なんでも揃ってる奴にはなあ、わかんねえんだろ!! 俺や丸井みたいな奴が、どんな想いで、どうやって」
怒鳴り声が、途切れた。
真琴は怯えたように、顔を真っ青にしてしまっている。本気の怒りに、憎悪に触れることに、慣れていないのか。それとも、吉村の言葉が堪えたのか。
吉村の言葉を遮ったのは、夏生だった。
「いい加減にしなよ。なに調子に乗ってんの?」
あまりに唐突にぴたりと吉村の怒声が止んだので、直姫は、夏生が彼の顎でも掴み上げたのかと思ったくらいだ。
だが夏生は、吉村と真琴の間に立って、彼の肩に手を置いているだけだった。それまで、ずっとどこかに流していた夏生の視線が、吉村をじっと捉えている。
黒目がちの目に見据えられて、吉村は、喘ぐように呼吸をしていた。
「金と権力、ね。アンタがそう言ったんだから、ちゃんと覚えときなよ」
整った顔が、薄く笑う。
「な、」とも「あ、」ともつかない声を、吉村は上げた。
潰される。彼の歪んだ顔には、明らかに、恐怖の色が浮かんでいた。
夏生が言っているのは、そういうことだ。自分で言った言葉に、自分の首を絞められることになる、という、予告。そこまで言うなら、その金と権力でもって潰しにかかってやるから、覚悟しておけ、ということだった。
吉村は、ふと表情を消した。はは、と意味なく上げた笑いは、やけにからからに乾いていた。
◇◇◇
悠スポ号外に盗撮魔の話題が掲載されてから、ちょうど十日が経った頃だった。悠綺高校を駆け巡る様々な噂話の中に、こんなものが現れたのは。
「ねぇ、聞きまして? 二年生の吉村先輩、しばらく休んでいたと思ったら、転校したそうなんですの」
「あら、本当に? テニス部のエースじゃない。私、一度彼とお話してみたいと思ってましたのに」
「でも、どうしてこんな時期に転校なんでしょうね?」
テニス部部長、二年D組の吉村圭一の、唐突な転校の噂は、ぽっと沸いて、そして、すぐに消えていった。家庭の事情による転校ということになっているのだ、表向きは。学校に出てきていなかった理由も、怪我だとか体調不良だとかで、うやむやにされている。
なにが真実なのかは、誰にもわからないままだ。一部の生徒を除いては。
「転校ねえ……夏生先輩、どんな手回ししたんだろ」
「ちょっと直姫、あんまり大きな声で言っちゃ駄目だよ」
どこか冷めた表情で教室を見渡す直姫とは対照的に、真琴は周囲を気にして小声で言う。真面目だなあ、と思いながら、直姫はなおも言った。
「あれだけ脅かしちゃったんだから、そりゃ学校には置いておけないよね。本性バラされたら困るもん」
「え? でも、丸井先輩はいるよ?」
「だってあの人は、夏生先輩たちのおかげで助かったようなもんでしょう? あんな脅迫に屈してたぐらいだし、もともと義理堅い人なんじゃない?」
だからきっと、彼は口を閉ざしたままだ。
そう、直姫はあえて続けはしなかった。
丸井は数日前、生徒会室を訪ねて来た。吉村出版と丸井印刷のビジネス上の関係は結局以前と何ら変わらず、それどころか親たちは、今回の騒動も息子同士の関係も、なにも知らないままらしい。
それでいい、このままで、と、丸井は言っていた。吉村が登校拒否になった理由を、父親が知っているのかどうかはわからない。夏生がなにか手を回しているとしたらその辺なのだろうが、それとなく尋ねた彼はなにも言わず、ただにこりと口元で笑っただけだった。
盗撮のターゲットになっていた恩田聖菜には、丸井が直接謝罪をしたようだ。中等部の頃から吉村に付きまとわれていた彼女は、丸井が使いっ走りのような扱いを受けていたことも知っていたようで、むしろ彼に同情的なくらいだった。カメラの存在をアピールしただけで実際に盗撮はしていないこと、吉村に脅されて断りきれなかったこと、吉村がきっともう悠綺高校にはいられないことを話し、理解を得たようだ。
それでも自分が行ったのは犯罪行為なのだから学校を去って警察に出頭しなければいけないと言った丸井を、そんな必要はないと止めたのは、意外なことに、紅だった。
丸井が盗撮犯だという証拠は、どこにもない。そもそも盗撮をしていないのだから、写真もなにも残っていないのだ。犯罪として立証することはできないのだから、せめてここに残って、きちんと誠意を見せるべきだ。
そう言った紅は、はじめこそ盗撮犯に対する嫌悪をあらわにしていたというのに、吉村の卑劣な行動のほうが許せなかったらしい。
良い人なのだろう。
良い人だが、簡単で、単純だ。
真琴や聖や恋宵までもがすっかりその気になって丸井を激励している中、やけに冷めたことを思っていた自分に、直姫は気付いていた。そして似たように冷ややかな表情を浮かべる人物が、他にいたことにも。
「でもそれなら、吉村先輩もなにも転校することなかったのにね?」
「本当かどうかわかんない噂でも、広がっちゃったら収拾つかないし……それが一番よかったんじゃない」
「そうかなあ……他になにか方法なかったのかな」
眉尻を下げる真琴に、直姫は小さな溜め息を吐いた。
この人といい紅といい、どこまで人が良ければ気が済むんだか。あれだけ怒鳴られて、謂われのない罵倒まで受けて、それでもまだ吉村の心配までする真琴の神経が、直姫には到底理解できない。
──「なんでも揃っている奴にはわからない」。
あの時吉村が言った言葉に、真琴は過剰なほどの反応を示した。あの時浮かんでいた表情は、明らかに、怯えと深い悲哀だったはずだ。
なにかあるのだろう、とは思ったが、直姫はなにも聞かずにいた。なにか言いたげにしている直姫を見て、真琴は困ったように笑って、言ったのだ。
「僕、小学校の頃、苛められっ子だったから……ちょっと、思い出して怖くなっちゃって」
ごめんね、と言った真琴に、直姫はなにも言わなかった。どうして謝るの、と言ったところで、彼にとってはなんにもならないことは、わかっていたからだ。
よくある話だ。
自分自身の過去も、思い出さないでもない。今、わざわざこうして、性別を偽ってここに通っている理由も。
だが、それからの真琴の様子を見る限り、特に気にして気落ちしているふうでもなかった。もう吹っ切れているのか、それとも若手一の演技派俳優の名は、伊達ではないということなのか。この短い付き合いの中で、どちらか判断する材料は、まだ揃っていない。
「……直姫?」
呼び掛けに顔を上げた。この一年B組の教室の中で、西林寺直姫の名前を呼び捨てにするのは、たった一人しかいない。
「……え? なに」
「ケータイ、鳴ってるよ?」
机の隅に置いてあったスマートフォンが、ガタガタと耳障りな音を立てていた。
『学業に関係のないものを持ち込むことを禁ずる』という校則を真琴は律儀に守っているようだが、直姫をはじめとしたほとんどの生徒は、はっきりと書いていないのだからと、携帯電話を持ち込んでいる。取り上げて確認すると、メールのアイコンが現れていた。
「あ……恋宵先輩?」
「ん、どうしたの?」
「……これ」
小さく首を傾げてから、直姫は画面を真琴のほうへ向けた。
真琴は机の上の眼鏡をかけると、文字を覗き込む。そして、同じように、小首を傾げた。
「……え? 放送じゃないんだね」
「うん。紅先輩の放送だと騒いじゃって聞き取れなくなるから、やめたのかも」
「あ、そっか。この間もすごかったもんね」
恋宵からのメールは、件名に『事務連絡!』と書かれていた。そして本文には、普段のテンションとは真逆の落ち着いた文章で、こう書かれていたのだ。
『今日の放課後、生徒会役員は必ず集まってください、だって。すぐ終わるから、よろしくね。』
◇◇◇
てっきりまた生徒会室でなにか話し合いがあるものだと思っていたのだが、生徒会室前に全員が揃ってから向かったのは、理事長室だった。
直姫と真琴はちょっと不思議そうな顔をする程度だったが、上級生の五人は、大袈裟ともいえる反応を示していた。夏生と紅が、真剣な顔つきで目配せをしあう。聖はそわそわと落ちつかなげにしては、恋宵にちらちらと視線を投げかけていた。
やけに緊張しているのだ。ついに異質な空気に耐えかねて、真琴が言う。
「あの、どうしちゃったんですか?」
「え?」
「なんだかみんな落ち着かないですし……紀村理事長になにかあるんですか?」
真琴の不安そうな表情に、准乃介がいつもの笑みを浮かべた。
「うーん……今までさ、理事長に会ったことないんだよねえ」
「そうなんですか?」
「そう、俺だけじゃなくて、夏生たちも」
「えっ?」
声を上げたのは、直姫もだった。
准乃介の言った夏生“たち”というのは、夏生と紅と聖、高校からの外部入学ではない三人、という意味だろう。彼らは幼等部からずっと悠綺に通っているはずである。それなのにこれまで十三、四年ほど、自分の通う学校の理事長に一度も会っていないなんていう話は、にわかには信じられない。
「でも悠子さん、何度か日本に来てますよね」
「直ちゃん、理事長に会ってるにゃ?」
「はい。えっと、前に会ったのは……確か、八歳の時です」
「学校には時々いるんだよね。でも生徒の前には出てこようとしない、あくまで謎の人でいようとしてるんだと思ってたんだ」
聖の言葉にはきっと、「けど」と続くのだろう。今になって突然、悠綺高校の生徒会に会う理由が、よくわからないからだ。だが、理由なんて特にないのだろうと、誰もが直感していた。
日本に戻ってきたから学校に寄ってみた、そしたらなんとなく生徒に会ってみたくなった。きっと、それだけのことなのだ。
彼らは今、南校舎三階、中央の扉の前に立っていた。
理事長室のドアノブは、きっとあまり触られることもないのだろう、ぴかぴかのままの状態を保っている。ライオンの彫刻がくわえたノッカーを打つと、中から「どうぞ、入って」という声。
「失礼します」
夏生が、小さく息を吐いた。
金色のノブを捻って、重厚な扉を開く。生徒会室の扉も重く大きく豪奢だが、理事長室の扉は、それよりもさらに上質だった。
「いらっしゃい。生徒会長の、東雲夏生くんね? それから……石蕗紅さん、沖谷准乃介くん、柏木聖くん、伊王恋宵さん、佐野真琴くん……西林寺直姫、くん」
はじめて彼らの前に姿を現した紀村悠子は、真っ赤な口紅の乗った唇を、艶やかに微笑ませていた。少し古めかしいが上品なダークブルーのスーツに、長いブロンドの髪を揺らして、屋内だというのに大振りのサングラスをかけている。
謎めいた雰囲気に、誰もが呑まれていた。幼い頃は何度も会ったことがあるという直姫でさえ、言葉をなくしていたのだ。
だが例外が一人、笑みを返して口を開く。
「はじめまして。お会いできて嬉しいです」
「私もよ……あなたたちのことはいつも聞いてます。なかなかうまくやってくれているそうじゃない?」
「いえ、そんな……至らないことばかりです」
「あら、謙遜が似合わないわね」
ふふ、と笑う。少し皺の寄った口許を見ても、一体何歳なのかさっぱりわからないし、それどころか、本当に日本人なのかさえ不明だ。直姫は父から、彼が三十代の頃に彼女と知り合ったと聞いているが、当時からこんな雰囲気は少しも変わっていないようだ。
夏生はさっきまで見たこともない表情を浮かべていたというのに、いざ紀村理事長を前にすると、余裕のある笑みさえ見せていた。紀村悠子とは全く種類の違う、食えなさだ。
それから彼女は、あとの五人とも少し言葉を交わした。いつも世界中飛び回っていて、しかも学校はこの悠綺高校だけでなく、幼等部から大学まである。生徒に深く接する機会なんてほとんどないだろうに、その言葉には、驚くほど一人一人をよく見ていることが表れていた。
そして紀村悠子は、直姫のほうへ顔を向けた。サングラスのせいで、表情は読めない。赤い唇が、三日月を描く。
「……直姫、ちゃん。大きくなったわねえ」
「お久しぶりです、悠子さん」
「お父様はお元気かしら……まあ、聞くまでもないわね」
「元気、だと思います。しばらく会ってませんけど……時々手紙が来ます」
「まあ、手紙? そう……変な人ね」
くすくすと笑う。そして壁にかけられた時計をちらりと見て、言った。
「どう、高校生活は。大変?」
「楽しそうですね……」
「あら。だって、こんなこと、この学校でしかできないじゃない? あなたたちも知ってるのよね?」
少し眉を寄せた直姫を笑ってから尋ねたのは、直姫の本当の性別が女であることを知っているのか、ということだろう。夏生たちが頷くと、彼女はいっそう楽しげに笑った。
「そう、じゃあ、困った時は助けてあげてね」
「この人たちには頼りませんよ。なんかぶっとんでるし」
「ふふ、かわいくない後輩ねえ。……もっと話を聞きたいところだけど、私これから台湾なのよ。ごめんなさいね」
小さく首を傾げる。
その仕草は、うら若い少女のようにも、成熟した大人のようにも、あらゆる人間を見てきた老婦人のようにも、見えた。
◇◇◇
「なんっか……不思議な人だなー」
「やっぱり正体不明にょろねえ……」
「サングラス外したところ、直姫は見たことあんの?」
「ないですね、そういえば……」
「まじで?」
理事長室の扉が閉じられて、南校舎を出るまでは、誰もが口を閉ざしたままだった。なにを話していいかも、よくわからなかったのだ。あんなに謎に包まれた人物だった紀村悠子は、直接会って言葉を交わしてなお、謎に包まれていた。聖が言った、「不思議な人」というのが、彼女を表現するのにもっとも適切だろう。
門の横の階段から外に出て、アーチ型の南校舎を潜り抜けて、ようやく日常が戻ってきたような気がした。
「直姫の父さん、理事長と知り合いって……なんの仕事してる人?」
誰もが少なからず気になっていたことを、聖が尋ねる。
子供がどうこうよりも、親や周りの大人が“入れる”、ということが普通なこの学校では、親の職業や社会的地位は、意外なほど重要視される。一部の生徒などの間では、親のステータスが自分のステータス、という考え方があるくらいだ。今回の盗撮の件でいうならば、吉村がそのいい例である。
だが、聖が聞いたのはそういう理由からではなく、単純な好奇心だろう。
「え? 父は……なんというか。元政治家、ですかね」
「そうなんにょろー、すごいねえ」
「すごくなんてないですよ」
そう言ってから、直姫は小首を傾げる准乃介を見た。西林寺という名前から思い出そうとしているのだ、と気付いて、言う。
「父は婿養子なんで……そっちの活動は旧姓でやってました」
「あ、そうなんだ」
准乃介はへらりと笑みを返しながらも、やはり、首を捻った。
父親が政治家であることと、直姫が男のふりをしてここに通っていること。その二つはなにか関係があるのだろうか、という当然の疑問を、口にしてもいいものかどうか迷っているのだろう。
結局なんとなく尋ねるのは憚られ、彼女も理事長並みに不思議な人物であるのだと六人には感じられた、麗らかな春の午後だった。




