春です、1
新学期が始まって、そろそろ一ヶ月になる。カレンダーは昨日、四月のページから次を捲ったばかりだ。
一年生も順応の早い人はもう高校生活に慣れてきたようで、休み時間になると賑やかに談笑する声が教室や廊下のあちらこちらから聞こえてくる。
ちなみに悠綺は校舎が広く移動に時間がかかることを考慮してか、休み時間がいちいち長めに設定されている。四十五分間の授業のあと、次の授業までは十五分も間が空くのだ。移動のない時はそのまま教室で短いティータイムを過ごす生徒もよく見られ、それがまた、平和的な風景に拍車をかけていた。
◇
さて、春らしく爽やかに空が晴れ渡ったある午後、北校舎のあの部屋には、七つの人影があった。
「いー天気ですねぇ……」
穏やかな表情で雲を眺める真琴。生徒会室の中心に置かれた長机の窓側の端、見上げれば空が眺められる席がすでに彼の定位置になっていた。
その向かいで、恋宵が箱菓子のパッケージを開封している。
「あ、これおいしいにょろ。はい、直ちゃんもどーぞ?」
『春の新作チョコレート試食会』と題して、大量に購入したチョコ菓子を、机の上に広げているのだ。机を占領していることを紅が注意しないのは、特に進めるべき作業もないためと、彼女自身が現在、応接スペースのふかふかのソファーにすわって、かくんと舟を漕いでいるところだからだろう。
「いえ、甘いもの苦手なので」
「ええー……じゃあまこちゃん食べる?」
「はい、いただきます!」
直姫がすっぱりと断ると、恋宵は手にした箱を真琴へと差し出した。彼も先ほどからずっと、全く変わらないペースとテンションでチョコ菓子を消化している気がする。
「恋宵ちゃあん、俺にも一個」
聖はストロベリーとチョコレートの組み合わせがお気に入りなのか、恋宵の隣で楽しそうに手を差し出した。なんだかきゃぴきゃぴしているが、いつもなら「女子か、お前は」とクールに言い放つ紅が、春の陽気と眠気に挟まれて抗えなくなっているのだ。
そんなソファーには、准乃介までが長い脚を組んで腰掛け、紅の寝顔を眺めている。さっき写真も撮っていたが、バレたらきっと相当怒られるに違いない。
「准せんぱーい、食べますにょろ?」
「んーん、俺はいいよ」
なんなんだこのふわふわしたかんじ、と、直姫はげんなりした視線を明るいほうへと向けた。
上座に置かれた、大きく重く丈夫な、だが繊細な装飾の施された机。そしてそんなところに金をかける意味の全くわからない牛革の椅子は、今は無人だ。
それらの主である生徒会長は、隣の給湯室――とは思えない広さの、なぜかピアノが置かれた、休憩室兼物置と化している部屋――で、誰かがわざわざ持ち込んだらしい大きなソファーベッドに、アイマスク着用で横たわっている。
夏生はこの生徒会室にいる時は大抵、革張りの椅子に気だるげに座っているか、隣の休憩室で寝ているかのどちらかだ。それがこの部屋を一歩でも出れば、いや、扉を少しでも開ければ、爽やかで優しい優等生の東雲夏生になるのだから、人柄なんてそう信用できるものではない気がしてくる。
「ねえねえ、」
不意に、恋宵が声を上げる。
顔を向けると、彼女は斜め向かいの直姫がどこかを見ているのにつられたのか、窓の方を見ていた。立ち上がって、開け放してある窓のサッシに手をかける。そして振り返って、聖や真琴ににっこりと笑い掛けた。
「今年お花見行ったー?」
「俺行けてなーい。忙しくって……ここから見てるだけだなー」
「先週のはじめぐらいが綺麗でしたよね。僕それで満足しちゃって……」
生徒会室の窓からは、裏庭がちょうど視界いっぱいに見える。そこには立派なソメイヨシノがずらりと植えられていて、春になると満開の桜がそれはもう見事に咲き誇るのだ。
だがそれも先日までのことで、五月にはいった今は、傷みかけの花びらが、芝生に濃いピンクブラウンの絨毯を作っていた。きっと下から見上げても、そこまでの迫力はもう感じられないだろう。
「紅ちゃんはー?」
「、えっ?」
恋宵に呼ばれて目を覚ました紅が、ぱちりと瞬きをする。話半分にしか聞こえていなかったようだ。准乃介に言われて、まだ眠そうな口を開く。
「お花見だって」
「ああ、お花見……うちの庭の八重桜が、ちょうど見頃だ」
「いいにゃあ……あたしなんか先週いっぱい、PV撮影で沖縄行ってたにょろよう」
今頃の沖縄といえば、こちらの初夏の気温とそう変わらないだろう。ちょうど桜のピークを見られずに、しかも一人だけ夏まで先取りして、春を満喫できていない気がするのが不満らしい。
「全部散っちゃう前にみんなでお花見しようよー、ね、夏生!」
「は?」
ちょうど休憩室から出てきた夏生に振り向いて、恋宵は唇を尖らせる。夏生は怪訝な顔をしたが、恋宵が裏庭を眺めていたことに気付いて、言った。
「いってらっしゃい」
「にゃんで!?」
「忙しい」
「嘘言わにゃいのー」
放課後生徒会室に集まってやったことといえば、夏生はすぐさま仮眠、紅も居眠り、あとは春の新作チョコレート各種の試食大会だ。これ以上に暇な午後があるだろうか、という感じである。それも、入学式が終わってから、ずっとこうなのだ。
「裏庭でいいからお花見しようよ、ね、ひじりん」
「お、いいね!」
「そんなのここから眺めてればいいでしょ」
「だめ、下降りてみんなでお弁当食べるにょろ」
准乃介と紅のほうに目を移すと、二人はやれやれ、というふうに苦笑いを浮かべていた。どうやら、恋宵のこんな我が儘はいつものことらしい。裏庭に下りて花見をしたいなんてかわいい我が儘だが、食い下がる恋宵に夏生が少し困ったように眉を動かす姿は、見ていて面白い。
結局却下はしきれなかったようで、数分後には、恋宵がにこにこと笑顔でいる横で、夏生は眠気覚ましにコーヒーカップを傾けていた。
「じゃあ、明日の放課後!」
「ずいぶん急だねえ」
「だって早くしないと葉桜になっちゃいますにょろ。紅ちゃんもお弁当作ってくれる?」
「構わないが……」
「放課後じゃあ、そんなに長いこといられませんね」
それでもいいと、恋宵はご機嫌で笑っていた。
◇◇◇
そして、翌日の放課後。
悠綺高等学校北校舎のさらに北、裏庭には、明るい恋宵の声が響き渡っていた。
「じゃあん、お弁当はあたしと紅ちゃん担当にょろよー」
花びらが落ちて薄紅色がまぶされた芝生に広げられたのは、レジャーシートではなく、大きなござだ。聖が茶道部から借りてきたらしく、「なんか風流ってかんじでしょー」なんて笑っていた。確かに、若草色の芝生に色の濃くなった桜の花びら、その上に模様の織り込まれたござを敷いて花見というのは、なかなか乙なものだ。
そして、七人が広々と足を伸ばせるござの中心には、大きなタッパーと重箱が、一つずつ置かれている。“弁当担当”の恋宵と紅が、家から持ってきたものだ。
まず蓋が開けられたのは、紅の重箱だ。自宅の台所で使用人らに手伝ってもらいながら作ったというそれは、彩りもバランスも量も、良い意味で至って普通のものだ(そう直姫が呟くと、准乃介がぼそりと「材料にどんだけ金かけてるかは、聞かない方がいーかもね」と言った。彼の金銭感覚は、意外と庶民派寄りなようだ)。
一方、恋宵が持ってきたピンク色の大きなタッパーの中身を見た時、彼らは唖然とした。
「えっと、……す、すごいですね」
「うん……スゴイよ、スゴイけどさ……」
目を泳がせながら言葉を濁す聖に代わって言ったのは、夏生だった。
「卵焼きとウインナーしか入ってない」
夏生の批判ともとれる(おそらく本人はそのつもりだろう)言葉に、恋宵は当然のように答える。
「だって卵焼きとタコさんウインナー好きなんだもん。いーじゃにゃい、嫌いじゃないでしょ?」
聖はとても何か言いたげに恋宵を見たが、満面の笑顔でそう言う彼女に水を差すようなことはできず、結局はただ「うん……卵焼き、大好き」と言うことしかできなかった。
「た、タコさん、群れてます」
「しかもちゃんと顔まであるし……」
「ある意味すごい器用じゃない?」
「これ一人で黙々と作る恋宵先輩って想像したくないんですけど」
「みんなどしたの? どんどこめしあがれー」
上機嫌に笑う恋宵の脳内では一体なにがどのように展開されているのか、知ってみたいような絶対に知りたくないような複雑な気持ちで、なにも食べないうちから胸が一杯な直姫であった。
「真琴、まだ食べるの」
「え? 僕まだまだ食べられますよ?」
けろりとして言う後輩に、夏生や准乃介が信じられないという目を向けた。
花見を開始して、すでに小一時間。皆、胃袋も思考も恋宵渾身のタコさんウインナーの物憂げな表情で埋め尽くされ、同時に卵焼きの食べ過ぎで胸焼けしかけてきている。
だがずっとはじめと変わらないペースで箸を進める真琴のおかげで、タッパーも重箱も空になりかけていた。
昼食を共にしたりする直姫は薄々勘付いていたことだが、どうやら草食系な見た目とは裏腹に、彼の胃袋はずいぶんワイルドらしい。ピンク色のタッパーの中身は半分以上が真琴の腹に収まっているが、そのうえでさらに紅の重箱に残った唐揚げをにこにこしながら頬張っている。
「余るかもしれないと思っていたが……そんなに食べてくれると、作り甲斐があるな」
「紅先輩のお弁当すごく美味しいですよ! 今日はお花見が楽しみで、昼ご飯ちょっと少なめにしてたんです」
「そーなの?」
「え? 学食のご飯おかわりしてたじゃん……」
「一回だけだよ?」
当然のように言って小首すら傾げる真琴に、はは、と乾いた笑いをもらす。
その傍ではすっかりテンションの上がってしまった恋宵と聖によって、即興ライブが開かれていた。恋宵がいつも抱えているギターは生徒会室に置いてきているので、膝打ちのドラムと手拍子でリズムを取ったアカペラだ。直姫の入学式からの短い記憶では、恋宵は大抵いつもなにか楽器を演奏しているか、歌っているかのどちらかである。
(テンションたっか……)
歌の上手さは申し分ないのだが、胃もたれでもやもやした気分では、ついていくのに疲れる騒ぎっぷりだ。
夏生や紅や准乃介は慣れているのかほったらかしで各々好き勝手にしているが、直姫はもはや、なぜ自分がここに居るのかさえ疑問に思えてきている。断り切れなかったのはきっと、真琴があまりにも楽しみにしていたからだ、と思うことにした。付き合いが悪いと思われることなど少しも気にしたりはしないが、わざわざ自分の都合を優先させて人を気落ちさせるほどは我が儘ではないつもりである。
心の中で人のせいにすることくらいは許してくれ、と思いながら、辺りに視界を移動させる。
今直姫たち七人がいるのは、裏庭のほぼ真ん中、ソメイヨシノの一番の巨木の下だ。桜並木はこのソメイヨシノを中心に、端にいくにつれだんだんと木が低くなっている。もともとこの木だけはよそから譲り受けたもので、他の低い木は学校創立当時に植えたらしい。
直姫は東西に伸びた並木の西側から、自分たちのいる木を見上げ、そして東側へと視線を滑らせていった。そして一番端の、とりわけどっしりと背の低い木の辺りを見た時だった。
(あれ……? 今なんか、光ったような)
若葉が混じる中、これが最後とばかりに存分に咲き誇る桜の花の中で、何か瞬間的な小さな光が見えた気がしたのだ。
(……まさかな、)
光の加減か、北校舎の窓からの反射か、それともただの気のせいか。
直姫は特になにも考えずに、立ち上がった。革靴を履いて、ござの上から芝生へと踏み出す。細い葉が揃った上に桜の絨毯まで敷かれていて、それはそれは歩き心地が良い。
一人ふらりと立ち上がった直姫を、夏生がちらりと一瞥した。真琴が声をかける。
「直姫?」
「ちょっと……散歩?」
「散歩?」
「うん」
いってらっしゃい、と最後のタコウインナーを口に放り込みながら、真琴は手を振った。
北校舎と東校舎を繋ぐ渡り廊下の窓の下、桜並木の端まで来ると、木の幹に板がかけられているのが見えた。近付いてみると、木の種類や植えられた年やらが書かれている。直姫は、真ん中のソメイヨシノにも同じようなものがかけられていたことを思い出した。
だが、あちらの方がもっとずっと古そうなのに、こちらの板の方がずいぶん傷んでいる。日付は十五年ほど前だが文字は擦れたようになって消えかけているし、板を結びつけている縄はぼろぼろになって、今にも切れそうになってしまっていた。
木そのものは、高さはないが枝も太くて立派な木だ。鳥でも住み着いて板をつついているのか、と考えて、直姫は地面を見下ろした。
(さっきの、なんだったんだろ)
ここは他と比べて、散った花びらが少ないように思える。咲いた時期が他よりも遅かったのか、黄緑色の芝生を埋め尽くすような花びらの絨毯はまだなかった。
そのままぐるりと太い木の周りを一周してみるが、さっききらりと光ったものの正体や不自然なものは、なにも見つからない。
やはり気のせいだったのだ。そう思って、恋宵の歌声がする方へ戻ろうとした、その時だった。直姫の耳に、はっきりと聞こえた音があったのだ。
────かしゃ、
(……っ、?)
乾いた音が頭上から聞こえた気がして、桜の枝を見上げようとする。
だがそれは、向こうから直姫を呼ぶ真琴の声で、遮られた。
「直姫ー! そろそろお開きだって!」
「あ、うん……今行く!」
そして小走りで戻って行った直姫は、裏庭で聞こえた音やちかっと光ったなにかのことなど忘れ、思い出さないままで、帰路に着いたのだった。
◇◇◇
翌日のことだ。
一年の教室がある西校舎の一階は、なぜか朝から賑わっていた。いや、恐らく西校舎だけでなく、校内全域がそうだったのだろう。
直姫が校舎に入ると、玄関のそばにある掲示板の前に人だかりができていた。なにが起きているのか気になった直姫は、近くに立つ適当な生徒に話しかける。
「おはよう」
「あら、おはようございます、西林寺くん!」
振り返ったツインテールの少女の顔を見ると、同じクラスの女子生徒だった。同じクラスだということはわかるのだが、人の顔と名前を覚えるのがとことん苦手な直姫には、彼女の名前はわからない。
(夏生先輩、全校生徒どころか用務員さんから庭師さんまで全部覚えてるって言ってたっけ……)
彼の驚異的な記憶力に驚くべきか、それがカリスマ性の所以の一つなのだと感心するべきか。でもいまいち尊敬しきれないんだよな、なんて失礼なことを考えながら、直姫は尋ねた。
「なにかあったの?」
「それが……あれをご覧になって」
春日さんだか増田さんだか定かでない彼女の指差す方を見ると、掲示板に、昨日はなかった張り紙が見える。
人混みを掻き分けて前に出ると(直姫は160センチあるかないかというちびなので、それだけでも一苦労だ)、それはどうやら新聞部が毎週発行しているという校内新聞、通称『悠スポ』だった。見出しを飾っている大きな太文字を見て、直姫は傍目にはわからないくらいに目を丸くする。
【盗撮魔出没!?
女子更衣室覗かれる】
「と、盗撮……?」
呆気にとられている直姫に、背後から聞き慣れた声が掛けられる。入学して最初に顔と名前を記憶した人物だ。
「直姫おはよ! 聞いてよ、昨日恋宵先輩のタコさん食べ過ぎちゃって夕飯のおかわり一回しかしなかったから、お母さんに心配されちゃって」
「真琴……ちょっと、そんなこといいからこれ見てよ」
眉尻を下げて笑う真琴の言葉を遮って、先ほどのツインテールの女子生徒と同じように、視線を誘導する。紙面にでかでかと書かれた文字を認識すると、真琴ははっきりと目を瞠った。
「盗撮魔……って……!?」
「誰がそんなこと……」
「北校舎の更衣室ですって」
「やだ、私テニス部だからあの更衣室使ってるのに……」
二人の周囲からは、不安がる女子生徒の声がちらほらと上がっていた。動揺しても崩れないお嬢様口調のそれらを耳に入れながら、眉を寄せた真琴は、口を開く。
「ねぇ、直姫……」
「うん?」
「このこと、夏生先輩たちは知ってるのかな」
「へ、なんで夏生先輩?」
二年生の教室は東校舎だし、彼らは日常的に更衣室を使うような部活動にも入っていないと聞いている。なにより夏生は男なんだから、全くとはいえないが、あまり関係はないのでは。
直姫がそう考えていることを読み取ったのか、真琴はきょとんとした表情を浮かべた。
「あれ? 直姫は知らないんだ……」
なんとも意味深長かつ意味不明なことを言う。
真琴も少し驚いているような様子に、直姫は戸惑った。
「……どーゆうこと?」
「えっと、僕から説明していいのかな、あとで分かることなんだけど……」
「なんの話?」
「うーん……とりあえずほら、教室行こうよ」
人目を気にしてなのか、説明が難しいのか。理由はわからないが、今ここで話してくれる気はないようだ。
直姫はすっきりしないものを抱えながら、階段を上る真琴のあとに従った。
◇
ぽんぽんぽんぽん、と一つずつ上がっていく独特の音が聞こえて、直姫が顔を上げたのは、二時間目のあとの休み時間のことだった。
西林寺、佐野、と出席番号が続いている直姫と真琴は、教室での席も前後で並んでいる。直姫はちょうど、横を向いて椅子に腰かけて、真琴と言葉を交わしていたところだった。
思わずスピーカーを見てしまっている真琴を一瞥してから、直姫もスピーカーの方を見る。
『放課後、生徒会役員は必ず生徒会室に集まるように。用事のある者は数分でも構わない。以上』
聞こえてきたのは、二人にとってはもうだいぶ聞きなれてきた、凛々しくよく通る声だった。実に簡潔な放送だったが、一年B組の教室は、憧れの彼女の声だけでもどよめく。
「石蕗先輩の声ね、素敵!」
「ね、聞いてくださる? 私今朝、石蕗先輩と沖谷先輩が一緒に歩いているところを見たんですの。思わず見とれてしまいましたわ、なんて美しい二人なのかしら……!」
「私なんか今日は、石蕗先輩と目が合いましたのよ!」
「まぁ、羨ましい!」
言葉遣いこそ上品で優雅だが、話している内容はといえば、かなり浮わついたミーハーなものである。女子生徒の盛り上がりに乗せられて、男子の間でも声があがる。
「僕、剣道部に入ろうかと思ってるんだ」
「やめておけよ、相当キツいって噂だろ」
「でも副会長にお近づきになれるチャンスなんてなかなかないだろ?」
「そういうことなら、俺なら軽音楽部に入るな。あのInoのバックで演奏できるかもしれないし」
「無理に決まってるよ、文化部で一番人気だよ?」
目が合っただけできゃあきゃあと騒ぐ女子生徒たちも、なんとか個人的に近付こうと企む男子生徒たちも、どっちもどっち、似たようなものだ。声を聞いただけでこの反応とは、と苦笑を交わす直姫と真琴に、クラスメイトの一人が声をかけてきた。
「佐野くんと西林寺くんはいいわね、紅先輩や夏生様たちと放課後いつも一緒なんだもの」
「いつもって言っても、放課後の二時間くらいだよ?」
「それでも、役員以外入室禁止の部屋でどんなふうに過ごしてるか、気になるわ」
「ねえ、先輩たちは、生徒会室ではどんなふうなの?」
「どんなって……えーと」
尋ねられた真琴は、困ったように直姫に視線を泳がせた。彼の眉尻の下がった困り顔は、まだ数週間の付き合いの直姫もすっかり見慣れてしまった表情だ。
しかし他人事ではなく、その質問は直姫にとっても答えづらいものであることに代わりはない。
居眠りをしたり、夏生と聖の遅刻に苛立ったりする紅は、確かに生徒会室の外ではなかなか見られる姿ではないだろう。だが同時に、准乃介の砂を吐くような甘い態度に、冷ややかな視線を向けたり真っ赤になって動揺したりもするなんて、そんな情報を漏らせば、後が少し怖い。
そんな准乃介はやはり紅にちょっかいを出してはかわされ、からかっては怒られる日々だ。恋宵はいつもとなんら変わらないテンションで常にギターを抱えているし、聖は恋宵と一緒に歌っているかお茶会を開いているか、とにかく七人の中で一番口がよく動く人物であることは間違いない。夏生の本性なんてうっかり口を滑らせようものなら、自分の立場が危うくなるどころか、学校の秩序が崩壊してしまうような気さえした。
頭の中で素早くそんな考えを巡らせた結果、ここは適当に無難に答えておくのが最善策だろう、という結論に辿り着いた。
直姫は真琴に代わって口を開く。
「いつもとそんなに変わらないよ」
「あら、そうなの?」
「あの部屋でしか見せない顔、なんてことがあるのかと思ってましたのに」
「そうよね、だって夏生様と紅先輩と柏木先輩は、幼馴染みなんでしょう?」
「仲はいいみたいだけど……僕は高校からだから、あんまり」
知らないんだ、と口には出さずに、真琴は苦笑いで伝えた。すると、彼に話しかけていた一人の女子生徒が、頬をほんのり赤く染めた。なぜそこで赤くなる、と直姫は思ったが、口にも顔にも出しはしない。
「そ、そうね、佐野くんと西林寺くんは高校からの外部入学なのよね」
「でも、ずいぶん仲がよろしいのね? まるで以前からのご友人みたい」
「あぁ……まあ、同じ苦労を知ってるからね……」
「くろう?」
クラスメイトたちが揃って首を傾げる前で、直姫と真琴は、乾いた笑みを漏らすしかないのだった。
◇
放課後、直姫と真琴が生徒会室に出向くと、他の五人はすでに顔を揃えていた。
「やっと来たの。遅い」
行儀悪くも机に腰掛けた夏生が、嫌味なほどさまになる仕草で脚を組み替える。
こんな姿は確かにここ以外では見られないだろう、と思いながらも、これを見たいという彼女らの考えは到底理解できない、とも直姫は考えた。
なにしろ、『悠綺の王子さま』である(直姫も、はじめてこの通り名を聞いた時は、不覚にも笑ってしまった)。実際にこの本性を知れば、果たして彼女らは幻滅するのだろうか。あのおおらかすぎるセレブ気質ならば「ワイルドなギャップで素敵!」なんて言い出しかねないと思って、ぞっとして考えるのをやめた。
それにしても、休み時間のあの呼び出しはなんだったのだろうか。真琴はある程度わかっているようだったが、直姫にはさっぱり検討がつかないでいた。
用事があっても、数分でもいいから、必ず来るように、なんて、今まで言われたことはなかった。基本的に毎日生徒会室の鍵は開くが、それほど忙しい時期ではないのもあって、顔を出すのも帰るのも自由、という適当な感じだったのだ。
訝しく思うも無表情な直姫を見て、紅が口を開く。
「早速だが、本題だ。今朝の悠スポは見たな」
直姫が動じていないようなので、真琴同様、事情を知っているものと思っているのだろう。実際のところは顔に出ないだけで、困惑しきりなのだが。
「盗撮魔、ですか?」
「そー。そのことで、にゃ」
なにか知っているようなのに、真琴のほうが戸惑っているように見える。相槌を打った恋宵の、その言葉を引き継ぐように、夏生が言った。
「テニス部顧問からの依頼。盗撮魔を捕まえてくれ、って」
「い……、依頼?」
今日は朝からずっと疑問だらけだな、と、直姫は脳味噌の端の隅っこのほうで考える。
「あれ、直姫も聞いてたんじゃなかったの?」
「いえ……真琴に聞いても答えてくれなくて」
「あ、僕からなんて説明したらいいかなあって……」
「どういうことなんですか?」
「なんだ」
目を丸くした聖が、「あのね、」と続ける。
「校内の悪い噂とか、揉め事とか。そういうのが起きた時に解決するのが、生徒会の役目なんだよ」
「悪い噂? 解決って」
「要は校内トラブルなんでも屋。正式なご依頼を通せば、トラブルシューターでもなんでもやりますよ、っていう」
「トラブルシューター……?」
「ほんとになんにも知らなかったんだねえ」
准乃介が、意外そうに言う。聞けば、特に隠れて依頼を遂行するわけでもないので、近隣の中学高校にもそれなりに知れ渡っていることなのだとか。
「理事長、それも教えたうえで特待勧めたのかと思ってたけど」
「全然知りませんでした……」
「自分で言うのもなんだけど、生徒会役員は、校内での知名度も権力もあるからね。俺たちが動くことが周知になれば、学校の評判を下げる事件も減るし、面白い学校だって宣伝にもなるでしょ。理事長のアイディアで、五年くらい前からはじめたらしーよ?」
准乃介の言葉に、直姫は「やっぱり悠子さんか……」と呟く。彼女のすべての行動理念は、「面白いか、面白くないか」。そういう人なのだ。
とにかく、今優先すべきは、生徒会へと寄せられた盗撮事件解決の依頼である。問題の更衣室を部活の時に使用している女子テニス部から、いち早く依頼が舞い込んだらしい。
「そんなわけだから。新入りさん、頑張って」
「えっ?」
ひらりと手だけ振っていかにもやる気なさげに言った夏生に、真琴が眉尻を下げる。子犬のような、という表現がぴったりだ。
「冗談だよ」
「半分本気だっただろう……バカ」
紅が呆れたように言うと、准乃介が「あ、今のバカの言い方かわいー」なんてへらりと笑って、さらに彼女の眉間のしわを深くしていた。
聖が慌てて口を挟む。放っておくと、准乃介は紅が顔を赤くして怒るまで煽り続けるのだ。怒った顔を楽しそうに見ているその様子に、実はマゾなのでは、いや一周回ってサドなのでは、なんて噂がまことしやかに流れている。
「はい! はいはい、悠スポに載ってる情報をまとめると、北校舎一階、第二更衣室。東側の階段横のほうね。そこが今回の現場です、と」
「裏庭に面しているな。とすると、盗撮は裏庭から?」
「気付いたのは昨日なのにゃ?」
「うん。えーっと、四時半ごろ、更衣室にいた女子生徒が、換気窓の外からのフラッシュとカメラのシャッター音に気がついて、発覚したらしいね」
「四時半ごろって……俺らが帰った頃じゃないの」
確かに、昨日は放課後すぐに集まって、一時間ほども裏庭でわいわいやっていた。盗撮犯は裏庭の中央で生徒会が集まっているのをわかっていて、大胆にもその同じ場所でシャッターを切ったというのだろうか。
ふと直姫は、昨日の放課後、桜の中にきらりと見えた光を思い出した。
あれは東側の端の桜のあたりだったはずだ。恋宵の歌う桜ソングが意味不明すぎて、わざわざござから立ち上がって様子まで見に行ったのだ。確かに、北校舎端の壁には高い位置に換気用の小さな窓があって、それは開けられていた。四時半ということはつまり、直姫があの光を見たのは、盗撮魔の存在が気付かれるほんの少し前のことだ。
同時に、木に近寄った時に聞こえた音のことも思い出した。かしゃん、だとかぱしゃり、だとか、そんな音だったと記憶している。その時は周りに誰もいなかったので気づかなかったが、あれは今思い返してみると、確かにアナログカメラのシャッター音によく似ていた。
「入れ違いだったのかなー?」
「あ、あの」
「うん? どしたにょろ、直ちゃん」
「自分、昨日、カメラのシャッター音聞いたと思うんですけど」
「え? ……ええ!?」
「フラッシュも見ました」
驚く彼らに、直姫は昨日の状況を説明する。話してみても、やはりそれは盗撮犯のカメラ以外にありえないという結論に至った。
「そんな遠くのフラッシュ、よく見えたにょろね?」
「目はいいほうなんです」
「フラッシュが桜の中に見えたってことは、犯人は木に登って撮ってたってことですか?」
「更衣室の窓は換気用のが一つだけだし、位置が高いからねえ」
「盲点といえば確かにそうだな……そんなところに誰かが隠れてるなんて、普通思わない」
賢いのかそうでないのかよくわからない犯行である。見つかりにくいとはいえ、万が一見つかった時に退路がないのだ。はじめから逃げることは考えていないのか、もしくはなにか思いのよらないルートがあるのか。
だが、どこから撮ったのかがわかったおかげで、もう一つ解けた謎があった。
「だから第二更衣室か……」
「東側の端の木が一番背が低くて、幹が曲がってて登りやすそうですからね」
「そういえば、幹にかけられてる板も縄も、あの木だけボロボロでした」
「あ、足掛かりにしてたんだ」
「もしかしたら、昨日がはじめてじゃないかもしれないってこと?」
「だが、それがわかったところで……」
「いえ、案外手がかりになるかもしれませんよ?」
紅が目を瞬かせたのを見て、夏生は続ける。
「裏庭に人がいるのに、しかもあんなに大声で騒いでたのに、犯人はそれだけではやめなかったんですよ。木に近付いた直姫に見つかっててもおかしくなかった」
「……でも、犯人は自分が近づいてから、もう一度シャッターを切ってます」
「でしょ? しかも、見つかったら逃げ場のない桜の木の上で。いくらなんでも無謀すぎる」
「……て、ことは……」
恋宵が、細い顎を撫でて、ゆっくりとした口調で言った。
「犯人は……目立ちたかった。騒ぎを起こしたかった、とかかにゃ?」
「と、いうよりは」
眉をひそめた聖が、風を追いかけるようにして視線を流す。その先には誰がいるでもなく、ただ裏庭で今にも散りそうな花を掲げる、大きなソメイヨシノが、窓の向こうに見えていた。
「犯人は……捕まりたかった……?」