第三話:花の声
夜になると、世界は少しだけ怖くなった。
昼間は綺麗に見える花も、暗闇の中だと別のものみたいだった。
月明かりに照らされた花弁が、静かに揺れている。
誰もいない駅前。
聞こえるのは風の音だけ。
……のはずだった。
しゃあ、とジョウロの水を注ぐ。
お母さんの青い花へ、ゆっくり。
「今日はちょっと暑かったね」
返事なんてこない。わかってる。
それでもひなは話しかけてしまう。
「旅人って変な人だよね」
コンビニの奥では、その旅人が勝手に寝床を作っていた。
図々しい。
でも追い出さなかったのは、たぶん少し嬉しかったからだ。
ひとりじゃないのが。
水をやり終えて、ひなは小さく息を吐く。
その時だった。
『……さびしい』
耳元で声がした。
「……え?」
ひなは反射的に振り返る。
誰もいない。あるのは花だけ。
風が吹く。
蒼いか弁が揺れる。
『ひな……』
ジョウロが手から落ちた。
がしゃん、と大きな音が響く。
「お、お母さん……?」
喉が震える。
(そんなはずない。だって花になった人は喋らない)
動かない。
ずっとそうだった。
なのに。
『さみしく、ない?』
「っ……」
涙が出そうになる。
ひなは震える足で青い花へ近づいた。
「お母さん……なの?」
返事はない。
さっきまで聞こえなかった声も、もう聞こえなかった。
風だけが吹いている。
「……気のせい」
そう呟いた瞬間だった。
「気のせいじゃない」
後ろから声がした。
びくり肩が跳ねる。
旅人だった。
コンビニの入口に寄りかかりながら、こちらを見ている。
その顔は妙に真剣だった。
「……聞こえたのか」
「え……?」
「花の声」
心臓が嫌な音を立てる。
「なに、それ」
旅人はすぐ答えなかった。
代わりに、ゆっくり青い花へ近づく。
そして静かに見下ろした。
「普通は聞こえない」
「普通って……」
「お前、本当に抗ってんだな」
意味が分からない。でも、旅人の声はどこか苦しそうだった。
「ちゃんと、水やってたからかもな」
「だから何言って――」
「花は終わりじゃない」
その言葉に、息が止まる。
旅人は花を見たまま続けた。
「咲いた人間、まだそこにいる」
頭がおかしくなりそうだった。
「そんなわけないじゃん……!」
ひなは思わず叫んでいた。
「だってみんな動かない!喋らない!もうずっと……!」
「それでも残る」
旅人は静かに言う。
「想いも、感情も、本音も」
夜風が吹く。花弁が舞う。
ひなは訳が分からなくて、でも目を逸らせなかった。
「……なんでそんなこと知ってるの?」
旅人は少し黙った。
月明かりにが、その横顔を照らす。
その時首元から、何か見えた。
花弁みたいな痕。
皮膚の下に、青黒い蔓のような模様が浮かんでいる。
「……っ」
ひなの視線に気づいたのか、旅人はとっさに首元を隠した。
一瞬だった。でも見間違えじゃない。
「なに、それ?」
「……見るな」
「見たよ」
「忘れろ」
旅人は低く言った。今までで一番冷たい声だった。
ひなは少しだけ怖くなる。
でも同時に思った。
この人もきっと、“普通じゃない”。
沈黙が落ちる。
遠くで花弁が揺れていた。
やがて旅人は、小さく息を吐く。
「この街を出るぞ」
「え?」
「ここにいても、もう何も変わらない」
ひなはお母さんの花を見る。
離れたくなかった。でもさっきの声が頭から離れない。
『さみしく、ない?』
旅人は静かに言った。
「咲かない場所を探す」
「咲かない……場所?」
「花がない場所だ」
そんな場所、この世界にあるんだろうか。
旅人は空を見上げる。
「そこに、お前が咲かない理由があるかもしれない」
風が吹く。青い花弁が月明かりの中で揺れていた。




