第二十五話:咲かなかった理由
花の海の中心で、風が吹いていた。
無数の花が、ざわりと揺れる。
白い花弁が、ひなの頬をかすめて落ちた。
ひなは足を止めたまま、目の前に立つ春人を見つめていた。
「……春人」
ひながその名を呼ぶと、春人の肩がわずかに揺れた。けれど振り返らない。
ただ静かに、花を見つめている。
ひなは胸の奥がざわつくのを感じながら、小さく訊ねた。
「どうして……私だけ、咲かなかったの?」
その声は、自分でも驚くほど小さかった。
花々が擦れ合い、さざ波のような音が広がった。
春人はしばらく黙っていた。
沈黙が長く落ちる。やがて、低い声で答える。
「君だけが、この花に侵されながらも……花にならなかった」
ひなの喉が小さく鳴る。
春人はゆっくり振り向いた。
その瞳は静かだった。けれど、その奥には長い痛みが沈んでいた。
「君の中にはこの花に吞まれないものがある」
「……吞まれないもの」
「ああ」
春人の声は風に溶けそうなほどかすかだった。
「花は君の中に根を伸ばした」
ひなの指先がぴくりと震える。
「芽吹こうとした」
春人は続ける。
「けれど、咲けなかった」
風が吹いた。
花弁が二人の間を流れていく。
「君の中で、この花は止められた」
「拒まれたんだ」
ひなは息を止めた。
胸の奥で、心臓だけが強く鳴っている。
「それが……私?」
春人は静かに頷いた。
「君だけが、咲かなかった理由だ」
その言葉が、花の海へ落ちていく。
ひなは白い花々を見渡した。
村を覆っていた花。旅の途中で見てきた花。記憶を持つ花。誰かだった花。
すべてが、ここへ繋がっている。
「このままだと」
春人が言った。
「世界は、全部花になる」
その声は穏やかだった。
なのに、刃のように胸に刺さった。
「村も、人も、記憶も、全部」
ひなの手が震える。
白い花弁が指先に触れ、すぐに風にさらわれて消えていく。
「……止められる方法はあるの?」
しばらくの沈黙のあと、春人は小さく頷いた。
「ある」
ひなは息を吞む。
春人の視線が、花の海の中心へ向けられる。
そこに咲く、ひときわ白い一輪の花。
「最初の花を終わらせることだ」
ひなも、その先を見る。
陽菜の花。すべての始まり。
春人が何百年も見続けてきた花。
風が吹く。
花びらが空へ舞い上がった。
白い光のように揺れながら、空へと溶けていく。
「……どうして」
ひなの声は震えていた。
「どうして、私なの」
春人はすぐには答えなかった。
その喉が、わずかに上下する。
言葉を選ぶように、静かに息を吐く。
そして、ひなを見る。その瞳に、何百年の孤独と何百年分もの願いが沈んでいた。
「君だけがだったからだ」
低く、静かな声。
「君だけが、この花に吞まれなかった」
風が吹く。
白い花々がざわめく。
「だから俺は、君を探していた」
ひなの胸が、大きく鳴った。
旅の始まり。村での出会い。
春人が自分を見た、あの日の視線。
なぜ旅へ連れて行ったのか?
なぜ自分だったのか?
そのすべてが、一つに繋がっていく。
自分だけが咲かなかった理由。
自分だけが花の声が聞けた理由。
自分だけが、ここへ来た理由。
風が吹いて、花の香りがあたりに満ちる。
ひなは静かに目を閉じた。
瞼の裏で、白い花が揺れていた。
そして思う。
(私は、何のためにここへ来たんだろ……)
その答えがもうすぐ、手の届く場所にある気がした。
花の海が、ざわりと揺れた。




