九 くすんだ色
「あの人ったら、セピアって言葉を知らなくてね。くすんだ色なんて表現して。まぁ、間違っちゃいないんだけど」
くすくすと笑う母親にキトは悲しげに頷く。転院の手続きをする父を置いて、気分がいいからと車椅子で散歩に出た母は、半身になった身体で、存外に元気そうだ。半身になったとは言っても、痩せた父よりも未だ膨よかで、先日、余命を告げられた人物とは思えない。
母の希望するホスピスに空きができたと転院の連絡が来た。看取りの病院で空きが出た、とはそうことで、ここ数日で転院が決まるとは最優先の順位だということでもある。突きつけられた現実に、キトは無言で頷くしかないのだ。
ーーにも関わらず、母は次々と自身の葬儀について話す。
「約束よ。遺影は要らない。でもどうしてもって葬儀屋がゴネたら、セピア加工してね。ついでに別人ってくらい痩せさせてよ。絶対に仏間にあるような正面からのダサいのはやめて!」
「香典も供物も不要って断ってね。それでも持ってきたら、香典返しはしません、っていうのよ。あれ、面倒くさいんだもん」
「あーでも、面倒だけど、お寺さんに恨まれると体裁が悪いから、法事やらは最低限で頑張って。スルーできたらそれがいいな。あっ、仏壇なんかいらないから」
残されたキトが煩わしくないように、そう思える程度の要望だが、輪廻ですぐに生まれ変わるのだからと供養不要を告げたいらしい。だがここは田舎町。いくら本人の希望だと言っても生きている者に悪い噂が立つのは嫌な様で。要は、まぁほどほどに上手くやってくれということだろう。
『虹のステーション』
いかにもの名前のホスピスは、中規模病院の跡地に造られていて、短いが遊歩道が設けられている。枝ばかりになったイチョウが足元に少しの黄色い葉を落とし、ツバキの赤が目印のようにまばらに咲いている。キャラキャラと回る車輪がなだらかな坂を重くなる車椅子を押して上る。頂上に石畳の丸い広場。中央には桜の枝が陽にさらされて白銀に光っていた。
軽く乱れた息を母親に気付かれぬように整えて、キトは柔らかく言葉を紡ぐ。
「いいところ、だよね?」
うふふと笑った母は、ニット帽をとって頷く。さわとなびく毛を嬉しそうに押さえた。
「ねぇ、わたし、治療しなくてよかったって思うの」
木枯らしに頬を冷やして彼女は続けた。
「痛い思いも辛い思いもしなかったし、ほら、髪だってこんなにある。パサパサの髪だけど、こうやって風に吹かれてシャラと音を鳴らせば、あんたのペットとセッションができるんじゃない?」
ぶっと吹き出すキト。ポケットで微睡んでいたエイラがひょいと顔を出した。
「髪の毛とトランペットのセッション? 馬鹿じゃねぇ?」
「いいじゃん! 馬鹿なんだから。あんたの母親は馬鹿だったって笑えばいいのよ。一生ね!」
( 一生、なんて……。あんたの一生は、後どんだけあるんだよ。治療だって……できなかったんじゃないか)
ニヤニヤと笑いつつ、泣き出したい気持ちをごくんと飲み込む。今日に限って冬晴れの澄み切った青空だ。
風に乗ってきゃぁとふざけるエイラに母は気づかずにすくと立ち上がった。スタスタと歩く足取りは軽い。彼女は桜の幹に手を添えると、大切なものを撫でるように愛おしむように頬を寄せ……、それから幹にもたれかけてキトを見た。
「来人。 あんたに会えたことが奇跡だから。もう、奇跡はないよ。あんたに会えたから……」
一瞬光った目元が、蒲鉾のようにしなった。正面から受け止めた笑顔は、もしかして初めてかもしれない。
「来人。母にしてくれてありがとう」