偽善者藍子
悪いことは続く。土曜の天水稽古の日、藍子は聾唖者の門下生、かのんに怪我をさせてしまったのだ。かのんは志穂の聾唖学校時代の同級生で、秋の昇級審査に向けて稽古に励んでいるところだった。
その日の稽古は前方投げ。向かってきたかのんの手首を掴み、藍子は前方に投げ飛ばした。藍子はアイコンタクトを怠った。清彦の事、麗華の事、駿との過ちの事で頭が一杯で稽古に集中出来なかった。合気道を始めてまだ三ヶ月のかのんは受身のタイミングを逃し、畳に手を付けずに肩から落下した。彼女はしばらく立ち上がれず痛みで呻いた。手話で自分の状態を訴えようにも、今のかのんは左手が全く上がらず、痛みと不安で泣き出してしまった。
「病院に行こう」藍子が口の動きを見せて言う。同じく聾唖の龍二と志穂が手話でかのんを励ます。 急患を受け入れる整形外科では「鎖骨骨折」と診断が下された。藍子は携帯の画面に「鎖骨が折れているって。明日改めて近所の病院を受診して下さい。本当にごめんなさい」と打ち込んでかのんに見せた。かのんは落ち着いた表情で頷いた。
「座薬が入っているから今は痛みはないと思いますよ」
そばにいた看護師が言葉を添える。藍子もかのんも着の身着のまま道着姿だ。一度着替えのために道場に戻った。
聾唖者に怪我を負わせしまう。それは天水が一番恐れていたことだった。
「鎖骨骨折でした。済みませんでした」
藍子が天水に頭を下げると、
「僕にじゃなくって本人と親御さんにお詫びをしなさい」
と強い口調で叱責された。藍子の目の裏で涙がわっと湧いてくる。藍子は涙を零さないように目を見開いて畳を睨みつけた。
幸いかのんの自宅は道場から遠くはなかった。かのんと藍子、そして大悟もタクシーに乗り込みかのんの自宅に向かう。
両親は聴者だった。藍子が事の次第を説明するまで、大悟が娘に怪我を負わせたと思っていたようだった。
「お嬢さんがやっちゃったの?」
父親は目を丸くする。藍子は済まなそうに頷いた。
「手話も出来なくさせてしまい、申し訳ございませんでした」
藍子は泣かないように歯をくいしばった。ここで加害者の自分が泣いたら、かのんとかのんの親は藍子を許さない訳にはいかなくなる。
「まあ鎖骨はすぐ折れるというし。ある程度の怪我は仕方ないわ」
母親がそうとりなす。かのんは胸の前で広げた手を左右に振る仕草をして、「大丈夫」の手話をした。
藍子と大悟はいとまを告げて、歩いて駅に向かう。藍子は重い気持ちのままだ。
「私のせいだ。障害者に怪我を負わせて」
「今はかのんちゃんの回復を願うばかりだな」
と大悟。
「そもそも天水先生は聾唖者を入門させることに反対だったよね。その時は随分冷たい人だと思ったけれど、今にしてみれば先生が正しかった。障害がある人が怪我をしたら、生活が立ち行かなくなる」
「藍子、さっきから障害障害って却って失礼だぞ。かのんちゃん達は普通に合気道やっているだろ」
「そうだよね。私は偽善者だし」
「誰もそんな事を言ってねぇよ」
大悟はうんざりした顔で応じる。堪えきれず、藍子は宵闇に紛れて涙を零した。いやに無口になった藍子を見て大悟は驚く。
「泣かなくって良いから」
大悟は焦って言う。
「何だか色んな事が上手くいかないよ」
「怪我をさせちゃったことは仕方がないよ。お見舞いを贈るなり誠意を見せろよ」
大悟は藍子を慰めたが、藍子の気持ちは晴れなかった。藍子は自分の気持ちを吐き出した。
「私、自分が嫌だよ」
清彦は麗華に取られ、好きでもない男と寝て、更には聾唖者支援を気取っていたのに肝心の聾唖者を傷付けてしまった。悩みと自責ばかりだ。観音のご利益があるはずの四万六千日から藍子はいつも沈んでいる。




