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藍子の武者修行  作者: 山口 にま
第三章
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美紀師範の微笑み

 藍子は週末川辺の道場に行くと、新年の挨拶もそこそこに天水夫妻の前に座り、志穂のことを切り出した。

「聾唖の女性が合気道をやりたいそうなんですが」

藍子の訴えに天水は困り顔だ。美紀は正座のまま軽く身を乗り出し、聞いた。

「またどうして聾唖者が合気道をやりたいなんて言うのかしら」

「護身術の為に。言葉が不自由だと性犯罪に遭いやすいらしくって」  

美紀は心当たりがあるらしく

「そう言う話は聞くわね」 

と相槌を打つ。

「実は聾唖の方が特急電車の中で被害に遭いそうになっていて」

藍子はいわきからの帰りに遭遇した事件を聞かせた。天水は渋い顔で

「君が割り入らないで誰かを呼びなさい。大して強くもないくせに」

藍子を叱る。

「誰かを呼べるような状況じゃありませんでした。それに犯人を捕獲した後も私が騒いでいるのに誰も来ないんですよ。日本人は冷たいや」

藍子は口を尖らせ、続けた。

「犯人が言うには、聾唖の方が駅で手話を使っているのを見て、悪いことを思いついたと」

「まぁ」 

美紀は険しい顔をする。

「一度彼女に見学に来て貰っていいですか?」

藍子は願い出た。天水は腕を組んで考え込む。

 分かった僕に任せろ、二年で黒帯にしてやる、藍子は天水がそう言うと思った。しかし天水の返事は

「いや、うちでは預かれないよ」

だった。

「怪我でもさせたら大変だよ。障害の程度も分からないし」

「読話は出来るようです」

藍子は言う。

「読話?」

天水の疑問に美紀は

「読唇術」

と言葉を添える。

「うーんそうだなぁ。ちょっと考えさせて貰っていいかな?」

天水が気乗りしない返事をすると、大悟が礼をして道場に入って来た。志穂の件は性が絡む話なので男性には聞かせたくない。藍子は天水夫妻に再び礼をして離れた。美紀は残念ねと言いたげな顔で藍子を見た。


藍子は天水の答えに納得をしていない。天水先生は夢を持て何でもチャレンジだと言うけれど、私の夢は志穂みたいな聾唖者が安全に暮らせるようになることなんだけれどなぁと藍子は思った。

 さらに天水について疑問に思うのは、紗羅が連れて来る欧米人は何の詮索もなく受け入れるのに、日本人で素性の明らかな志穂は障害があると言う理由で入門を拒んだ事だ。欧米人にとって合気道入門は単に日本滞在の思い出作りで、結局数ヶ月で帰国を理由に合気道から離れてしまう。対して志穂は何度も性犯罪に遭っていて、合気道習得は火急の件なのに。

 とは言え藍子にとって、天水は不可能なことはないスーパースターだ。そのスーパースターが二の足を踏むほど聾唖者の指導は難しいということか。

 稽古が終わり、藍子は床に座って袴を畳んだ。志穂に何て言おうかと悩みながら。天水は道場管理人に呼ばれて離席している。美紀が藍子の隣に腰を下ろし、言った。

「さっきのこと、少し時間をくれないかしら」

えっ、美紀先生が志穂を指導して下さるの?驚いた藍子は顔を上げて美紀を見た。美紀は門下生の思っている事など手に取るように分かる。彼女は微笑みながら頷いた。


天水と美紀は夕食後別々に過ごす事が常だった。天水は自室に籠もって洋書に噛り付いていた。美紀はドアをノックして天水の部屋に入った。

「さっきの聾唖の女の子の件だけど」

美紀は切り出した。

「何?」

天水は面倒臭そうに本から顔を上げた。

「私に預からせてくれないかしら」

天水は手を頭の後ろで組んで、

「怪我が怖いからなぁ」

と聾唖者の入門に難色を示した。

「あなたの稽古日には行かせないから迷惑はかけないでしょう?」

と美紀は天水の干渉を遮った。天水は尚も意見しようとしたが、

「君の勝手にすれば良い。僕は知らないよ」

と話を打ち切って、また書物に没頭した。美紀は天水の頭越しに英文を拾い読みした。「Tibet medical」と言う文言が見て取れた。天水はのめり込み易いのだ。今度はチベット医学か。新しいおもちゃを与えられた子どもみたいだ。美紀は呆れた気持ちで天水の背中を見つめた。

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