【二章】あなたには綺麗な世界で生きて欲しい
坊について大きな街道を抜け、細い路地が入り組んだ貧民街を進む。
貧民街ーーその日暮らしの日雇労働者の住む地区には、なるべく近寄らないようにと言い含められていた。
まさかこういう形で一気に約束を破ることになるとは思ってもみなかった。
まあ、勝手に孤児院を抜け出した時点で何個約束を破ろうと同じことよ。
開き直った俺はそっと周囲に視線を巡らす。
まだ日の出ている時間帯だというのに、通りに人の姿は少ない。
恐らく屋内で仕事をしているか、先程真横をすれ違った悪臭を垂れ流す男性のように、昼間から酒を飲みに出ているのかもしれない。
流石の俺も男とすれ違う時は、心臓がバクバクと早鐘を打った。
男は酔っているのか、ドロリと濁った瞳でどこか遠くを見ていた。
誰も映さない瞳に、寒いものが背中に走る。
ガラリと変わる空気、風景に警戒する俺に対して、坊はさして気にした風もなく、意気揚々と足を運んでいる。慣れた足取りに、ここが彼の拠点なのだろうと思われた。
かけるべき言葉を探して、結局は何も問えずに手を引かれるまま俯いて進む。
家といえる建物は殆どが雑な造りで、強い風が吹けば直ぐに倒れてしまいそうだった。
ボロ小屋という単語がまさに当て嵌る。それら一つ一つに住む者がいると思うと、不容易な発言は出来なかった。
同情とも表せない感情に、落ち着きなく視線を彷徨わせる。
ポツポツと建物の数が減り、貧困街を抜けるとあとは森へ続く道のみになる。
坊がなんの迷いもなく、森へ踏み入ろうとして俺は咄嗟にその手を引いた。
俺の抵抗に動きを止めた坊は、不思議そうにこちらへ顔を向ける。その仕草は、森に入る危険性を知らない無邪気さも内含していた。
「坊、もしかして森に行くつもりだったのか?森は流石に子供だけで行くのは危ないって。野生動物もいるし、なにより魔獣や魔物に会ったら、俺達パクっと食われるぞ」
街の近くということもあり、野生動物にしろ魔獣にしろ出会う可能性は低い。
ーーーが、わざわざ危険な森へ大人を伴わず向かう程、俺はそこまでお調子者でも、怖いもの知らずでもなかった。
俺の忠告に対して、坊はゆるりと首を横に振る。
「食べられないよ」
断定して可笑しそうに答える坊に、何故かここ何日かで知りえなかった新たな一面に出会った気分で、俺は言葉を失くした。
無防備に立ち尽くしている隙に、グイッと力強く手を引かれる。
抵抗する気も抜け落ちて、たたらを踏みながら坊に付いて行かざるをえなかった。
俺の些細な、抵抗とも言えない制止の言葉なんて何の価値も無く、とうとう森の中へと足を踏み入れた。
最初こそ茂みの向こう側から獣が飛び出してくるのでは、と警戒していたものの、坊が笑顔で「ここだよ!」と目的地に到着したことを伝えた時には、それも吹き飛んでいた。
「うおお!!すげぇ・・・・・・っっ」
思わず感嘆の声を上げる俺に、坊はクスクスと笑う。
整地された道を外れて1時間もかからない場所に、突如として花畑が出現した。一つ一つは傘のように丸まった白い花冠、中心に赤い模様が連なって円を描き大層可愛らしい見た目をしている。街の花屋でも中々見ないそれは、白と赤の対極が目にも鮮やかだ。
木々に隠されるようにして、群集する花々に目を奪われた。
風で花弁が舞い、雪のようにヒラヒラと辺り一面に降り注ぐ様は、幻想的でさえある。
花特有の香りに全身が包まれる。思考が一つ鈍くなる程には、空気があまい。
「凄いなぁ・・・・・・坊、ここまで連れて来てくれてありがとう」
景色に魅入っていた俺は、視線を無理やり引き剥がして坊に向けて笑い返した。
どうりで、坊が興奮してここに案内してきたかったわけだ。
この花畑は、自分達だけで楽しむには勿体ない。俺もマリーナやエレナ、皆を連れてこの世界を見せてやりたいと思った。
「ーーーー気に入った?」
おずおずと緊張しながら問いかける坊に、俺は親指を立てて力強く頷いた。
「もちろん!!」
「よかっーーー・・・・・・」
突如、黒い物体が目にも止まらぬスピードで坊を襲った。
その風圧で、近くに立っていた俺は紙切れの如く、呆気なく飛ばされる。
花が降る。
視界が白と赤に染まって、何が起きたのか分からない。
近くでドンっとボールが落ちた音、ぴちゃぴちゃと濡れた音がして、塞がる視界が余計に恐怖を掻き立てた。
両手をふるって花弁を掻き分け、ようやく開けた視界にあったのは、坊だった。
「坊!!大丈夫ーーー・・・・・・」
色を失い花畑に倒れる坊へ駆け寄って、俺は言葉を失った。
花に埋もれた坊は、首から下が無かった。
首からドクドクと流れる血に、白い花は容易く赤に色付いていく。
「・・・・・・ぇ・・・・・・」
くらりと視界が揺れて、俺はその場に尻もちを着いた。
花が下敷きになったおかげで痛みは無い。
反して、心臓が痛いくらいに鼓動して、ぶわっと額から汗が溢れ出す。
青白い坊の顔、虚ろな瞳、口からは犬のように舌がダラりと垂れている。ボールのように転がった顔の所々に土が付着して、頬や額が切れて血が滲んでいた。
それは、死んだ人間の顔であった。
尻もちを着いた俺の傍にまで、赤い花が伝染する。
俺は花を気にかけることも忘れて、潰しながら後退った。
「あ・・・あぁ・・・っっ・・・・・・う、うぁ・・・」
肩で息をしながら、俺の視線はずっと坊だったものに引き付けられていた。
信じられなかった。
坊はついさっきまで、俺に笑いかけて、話して、生きていた。
何が起きた・・・、心臓の音が煩い・・・、息が苦しい・・・・・・、怖い・・・何だ、これ・・・っっ。
喚き散らして、泣いて、怒って、誰かに縋りたい気持ちを抑え、周囲を見渡す。
「グルルルルルルルル」
坊の体は、5m先に倒れていた。
そして、坊の体にのしかかる存在に息を殺す。
闘牛のような大きさ、所々皮膚が剥げて臭気を放ち、赤黒く濁った眼光の黒狗が坊の体を貪っていた。
顔を上げることなく、一心不乱に坊の体に牙を食い込ませ、血肉を啜る。
口から入りきれなかった血が、ぱたぱたと撒き散る。それは、醜悪という言葉一つで表しきれない。
あまりの悍ましさに俺は逃げることも出来ず、ただその場にへたりこんでいた。
幻想的な花畑、黒狗に食べられている坊の亡骸、何もかも、現実味が無い。
ただ甘い香りに混じって、濃い鉄錆の臭いを知覚した時、反射的に吐いた。
「ーーーヴェッ・・・ハァー・・・ゲェェッ」
土下座に近い形で体を丸め込み、中身を吐き出した。
胃がムカムカして、気持ち悪さに何度も体が痙攣する。消化しかけていた昼食の中身がそのまま出てきた。
気分は最高に、最低だ。
ほんの数時間前まで、俺は安全に、のほほんと過ごしていたというのに。
「ありえねー」と軽口とともに先程までの己を嘲ってみせる。
そうしなければ、心が折れてしまいそうだった。
恐怖からか、脱水でか手が震え、家に帰りたくて堪らなかった。
食事をして風呂に入り、寝て起きてーーーその繰り返しの日常が今は、遠い。
悶えた弾みにヒビ割れたクッキーがポケットからぽとりと落ちた。




