【二章】美味しい瞬間
ポトリ、と心許無い音を立ててそれは落ちた。
昼間、厨房でお姉様方からもらったクッキーは、坊と2人で分けようと忍ばせていた物だ。
喜ぶかな、と思った。
2人で「美味しいなぁ」って笑いながら、食べるつもりだった。
鈍った体を叱咤して、ノロノロと顔を上げると、黒狗と目が合った。
「ーーーーーーーーっっ」
ヒュッと息が止まる。
今更ながら逃げなければと思考が働き始め、どうやって?という難題に沈黙に包まれる。
黒狗の筋肉に覆われた太い前足が、坊の体に深く深く刺さり、どぷどぷと絶え間なく血が溢れ、花弁を染色していく。
あの前足が一振されれば、俺の体は簡単に一閃される。
「ーーーーハァ゛ァ゛ァ゛ァ゛ァ゛・・・」
漏れる吐息とともに、べシャリと鋭牙にかかっていた臓物が滑り落ちた。
一咬みされればそれこそ、俺は絶命する。
俺と黒狗の距離は5m、あまりにも心許ない距離だ。
俺が立ち上がって駆け出そうとした所で、結局は獣の能力に劣る。
唐突に理解した。
死だ。
俺は死ぬんだ。
あの牙で、爪で、あの巨躯に、いいように弄ばれて、屠られて、貪られ、骨にされるのだ。
知らん顔で突如として現れた死を目前に、どうして恐れないでいられるだろうか。
様々な死に様を想像し、恐怖を掻き立てられてか思考がまた一つ、鈍る。
黒狗が1歩、こちらへ歩を進める。
俺はそれを現実感なくただ眺め、享受していた。
「ヴーーーーーーー・・・・・・・・・」
こちらを警戒しながら血を滴らて1歩、また1歩と前身する獣。
俺の死が、くる。
逃げたい、足が動かない。
逃げたい、手を動かす。
逃げたい、それに触れた。
俺の手は、先程落としたクッキーの包みを握っていた。
坊と食べるつもりだった。
素朴で甘味も薄いクッキーは、もう袋の中でバラバラになっている。
坊と、食べるつもりだった。
ーー笑ってまた遊ぼうと駆けていく坊とーー
俺の友達なんだよ。
ーー遊びにいつも夢中な坊がーー
返してくれよ、俺の友達を。
お前に殺されていい奴じゃないんだ。
返せよ・・・、返せないなら・・・・・・
手の震えが、止まる。
「ーーーーーーお前を殺してやるっっっ!!」
黒狗の胴体に水剣を突き刺した。
「ギャアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!」
俺の攻撃に黒狗は雄叫びを上げ、地面に身悶える。しかし、命を狩るには満たない。その瞳に殺意を乗せて俺を見据えた。
体勢を整えて飛びかかる獣に、俺は口角を上げた。
「1つで足りなきゃ、幾らでも出してやる!!」
何十、何百、何千の水剣を創り出し、それらで黒狗を穿いていく。
傾ぐ世界、俺は地面に倒れ伏した。
体に力が入らず、腕を上げることも出来ない。生死をかけた闘いに、尋常じゃないほどの集中力を使ったせいか視界がボヤける。
頭だけをなんとか上げ、信じられない光景に瞠目した。
水剣が黒狗を貫き、針山になった状態でも奴は、俺に牙を剥いていた。
敵意も露わに、ふらつきながら、俺の息の根を止めんと大口を開ける。
「ーーーークソっ!!クソったれめ!!動け、動けよ!!!」
足が、腕が、体が、どれだけ己を叱咤しようと微塵も動く気配が無い。
無闇矢鱈に放った水球は、獣に何の打撃も与えない。
近付く牙を眼前に、それでも諦めきれず、俺はただただ吼える。
「動けえええええええぇぇぇぇぇぇ!!!!」
『だぁい、じょうぶ』
背後からかけられた言葉には、身の毛のよだつ気味の悪さと、ひと匙の甘さが含まれていた。
瞬時に丸太のように太く、血管がボコボコと隆起した腕が俺の横を過ぎり・・・・・・、とてつもない威力で黒狗を殴り飛ばした。
「ギャンッッ!!」
飛ばされた黒狗は、遥か向こうの木々にぶち当たる。
最初に当たった木があまりの威力に折れ、それを突き抜けて後ろに控えていた大木が黒狗の巨躯を受け止めた。流石の獣も、先程の一撃を受けて立ち上がることは無かった。
都合のいい夢でも見ているのかと、パシパシと瞬きを繰り返す。
しかし、幾度も瞼を開けた世界は、黒狗のひしゃげた姿をまざまざと俺に見せつけ続けた。
ーーーー助かった・・・・・・の、か・・・?
緊張から解放され、弛緩する精神を蹴りあげて、花をいくつか千切ってしまいながらも、なんとか上体を起こす。
声がした方を今度こそ振り返り、直後に、声にならない叫びを上げた。
「ーーーーー・・・・・・・・・っっ」
俺の背後に悠然と立っていたのは、猿の魔物だった。
肌色は赤く、頭頂部から腕にかけて赤茶色の体毛に覆われている。人でいう所の腰骨部分からは、図鑑で読んだ虎のような四肢に繋がっていた。
特に目がついたのは、皺だらけの顔面に、喜色を湛えて俺を見下ろしていることだ。
この喜びは、俺という獲物を前にして、空腹を満たせる事への期待からか。
次から次へと現れる敵に、眩暈と頭痛に襲われる。
巨大な魔物相手に出来ることは、もう・・・何も、無い。
黒狗でさえ、倒す事も満足に出来なかったというのに。
と、ここまで考えて、黒狗を倒したのが、この猿であることを遅まきながら理解した。その証拠に、猿の拳には黒狗のものと思われる血と皮膚が付着している。
『だあぃじょおぉぉぶぅ?』
赤猿の問い掛けが、理解出来なかった。固まったように動かぬ幼子を前に、赤猿は妙に人間くさい仕草で首を傾げた。
「ーーーー・・・坊・・・・・・?」
化け物に対して、どうしてそう思ったのか。
此方を不思議そうに見つめる仕草に、既視感を覚えた。
姿形、種族さえも異なる存在に、坊の姿が重なる。
『ーーーー・・・・・・ァル』
返答に、驚きと衝撃が襲う。
俺の名前を発し、俺を助けて、俺を食べず嬲らず、ただこの身を心配する化け物を『化け物』と一括りにしてはならないと、心が叫ぶ。
「なんだよ、それ・・・・・・坊、坊なのかよ・・・っっ」
嬉しいのか、悲しいのか、喜んでいいのか、嘆いていいのか、何が正しいのかも判然としないまま、坊の手を取り額を寄せた。子供の手よりも何倍も大きなソレには、鋭利な爪。赤い皮膚は、ちょっとやそっとでは傷がつかない程に、固い。
坊とのあまりの差に、心の整理が必要だった。
黒狗を一撃で倒すほどの力がある魔物ーーー坊に触れても敵意さえ感じず、逆に俺の背中をぽんぽんとあやす様に叩く。
力任せに動いていた坊とは思えない、繊細な行動だ。
ーーーーーでも・・・・・・・・・、お前が坊なんだな・・・・・・。
「ごめん、ありがとう・・・坊。俺は大丈夫、大丈夫だから」
衝撃が過ぎて、落ち着きを取り戻したその時、坊の身体が返答代わりに地響きを打った。
地響きというより、腹の虫とみた。
その豪快な虫に、張り詰めていた気が抜けて馬鹿みたいに笑えた。
落としてしまったが、元々坊と食べる予定だったクッキーを2人で分け合った。坊の大きな体と比べると、小さなソレをひょいひょいと口に放り込んでいく。
『おぃしい』
目の前にいる化け物を坊だと理解していなければ、赤猿の満面の笑みに恐怖したことだろう。
あの可愛らしい坊のイメージが無ければ、漏らしていたかもしれない。
坊のイメージを脳内で無理やり赤猿に重ね掛けしている状況だ。
濃い蜂蜜色の髪、興奮で赤く染まる頬、海を連想させる碧い瞳、人懐こい幼子の姿と、今の坊では乖離し過ぎていて交わることがない。同一人物と見ることを脳が拒否している。
「・・・・・・美味しかったなら・・・・・・良かった、よ・・・」
口が思うように言葉を紡がず、思考に影が差す。
今日一日で、限界を越えた身体が悲鳴を上げ、休息を欲していた。
虎の腹部分に身体を預ける。思いの外柔らかい毛並みにより眠気が誘われる。
「ごめ・・・・・・ちょっと・・・、寝る・・・・・・」
むにゃむにゃと発した言葉は、口内にこもるばかりで意味をなさない。
閉じた瞼の裏で、坊が「おやすみ」と笑いかけた気がした。




