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いたいのいたいのとんでいけ。
それで済めば死などいらないのです。
『めかくし』46
「庵兄ぃ!? や、やだっ……!」
私は崩れ落ちていった庵兄の身体を揺さぶる。果物ナイフを抜いたほうがいいのか、そのままにしたほうがいいのかさえ私にはわからなかった。震える手で身体を揺さぶり、庵兄の名前を呼ぶことしかできなかった。
「……こんなに死ぬことって痛いんですね。まさか即死できないなんて、こんな締りの悪さでは『零計画』も2点減点というところでしょうか……」
庵兄はそう言うと力なく笑っていた。顔に血かかっている場所以外が白くなっていくのがわかった。その表情は充足感に満ちていて、私はその様子に逆にぞくっとしていた。その顔はこの世に何も執着していないような『死にゆく人』の顔だったからだ。
「唯、悲しい顔をしないでください……あなたが悲しい顔をすると、私のしてきたことが全て間違いになってしまいます。私が奪ってきた命も、全て誤ったものになってしまう。私は何回生まれ変わってきても、同じことを望むことでしょう……無責任なことは承知の上、ですが」
庵兄はぼそぼそと、しかし訴えるような強さのある声で私に告げる。私はそれでも悲しくて仕方がなくて涙をぼろぼろと零していた。それが庵兄の頬に落ちる。庵兄は腕を伸ばして私の頭をぽんぽんと撫でていた。
「お願いです、笑ってください……」
私は庵兄のことを正しいなどと思えなかった。私一人を助けるために一体何百、何千の命を奪ってきたのだろうか。庵兄は五感家の人間は社会に適応できないと言った。それが庵兄の過去からの経験でそういう結論に至ったこともわかった。それを踏まえてみても私はそれで五感家の人間を滅ぼしていい理由にはならない、と思った。
それでも。
「あぁ、やっぱりその顔が一番似合っていますよ……」
私は笑った。精一杯口を開いて、目を細めて、頬を緩ませて、笑ってみせた。正しいか間違っているかなんて、今は関係なかった。庵兄の『正義』を受け入れたかった。それが今私ができることだと思ったからだ。
「幸せですよ、唯。あなたもどうか幸せで――――」
庵兄の言葉はそこで途切れた。私は半開きになった庵兄の口をしばらく見つめていた。次の言葉を待っていたのだった。しかし庵兄の細く開いた瞳は、私を見たまま動かない。それは『死』ではなく『停止』だということを理解するには時間がかかった。
私はふと天井を見上げた。そこには先程見た子供の持っていた風船が天井に行き着いていた。そこでも風船は風でゆらゆらと揺れることはなく、そのままただそこに静止していた。
思えば、鼻が麻痺をしてしまったかと思っていたが庵兄の椿の香りも、火薬の臭いも、血の匂いもこの空間から消え去っていた。そして静寂がただそこに広がっていた。私はその情景を見て、一つの結論に辿りつく。
この世界が『静止』をした。つまり七宮の『暴走』が始まったということだ。
その結論に確証つけたのは、私は立ち上がって観客席を見渡したときだった。刺宮の家紋が入った旗は翻る瞬間の複雑な屈曲が重なった形で、そこに留まっていたのだった。それはまるで写真を貼り付けたように動かずそこに存在していた。
私は笑顔で固まったままの庵兄に視線を移す。そして一つの考えが浮かんだ。それと同時に私は庵兄の言っていた大ホールの裏にある階段を探すため、走り出した。
庵兄は怒るかもしれないが、『零計画』を阻止する。そうすればもしかすると庵兄は助かるかもしれない。それに七宮にこれ以上つらい思いをさせたくなかった。それに『零計画』が発動された瞬間、沙也夏さんや倦さんもそこで死んでしまうことになる。
私は七宮の元へ急いだ。走ることで、足が地面を蹴る音や、私を撫でてくる風の感覚が、生み出されていく。七宮はきっと一人になるのが恐ろしいのだ。だからこそ叫ばなくてはいけない。私が証明しなければならない。大ホールの裏には庵兄が言った通り、下へと続く階段があった。
そこには灰色の埃が端にたくさん詰まっていた。しかし風の吹かない止まった世界で、埃が舞うことはなかった。階段はただただそこに立ち尽くしていた。私は階段を前にして、嫌な汗を拭う。そして首にかかっていた黄色い勾玉を左手で握り、逆の右の手で『郷愁狂臭』の鞘をつかんだ。
私は、私の『正義』を貫くために、幸せを勝ち取るために一歩を、踏み出した。埃がその時に風で吹き上がるのを視界の端で見ながら、階段を下っていった。
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