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なんでわかってくれないの?
こんなにも叫んでいるのに、もがいているのに。
もう涙で何も見えないよ。
『めかくし』45
私はパンダの着ぐるみを被った庵兄の元へ歩いて行った。私の瞳はステージに座っている庵兄しか見えなくなっている。これは庵兄の『統臭』の効果なのか、五町家の能力なのか正確にはわからなかった。この際、人が殺し合っている姿なんて見ても私のプラスになることとは思えないし、都合が良いのでこのまま通り抜けることにした。
それはとても不思議な感覚で、カメラのピントを合わせているかのように、庵兄以外の風景からの感覚が遮断されていた。異常であるのだが私はふわふわとした意識の中、導かれるようにステージに上がる。
「唯、久しぶりにこうやって会えましたね」
「…………庵兄」
パンダの着ぐるみを被った庵兄は、私を見て小首を傾げながらそう囁いた。私は目の前にいる人間に兄の名で呼びかける。勝手に名前を呼んだこの私の口は、単語を漏らしてからわなわなと震えた。
「なんでこんなことをするの……?」
そしてこんな言葉が口からポロッと落ちた。その瞬間、私は何かのスイッチが入ってしまったのか、とめどない涙が瞳を覆い、流れていく。霞む視界の中、庵兄はパンダ姿のまま座り込んで押し黙っていた。沈黙が続くかと思っていた矢先に、庵兄ぃが重たそうな身体を起こし立ち上がる。身体の影で私を包んでしまうほど、大きい身体をしていた。庵兄は観客席を指差してこう尋ねる。
「唯はこうやって滅んでいく人間を見て、どう思う?」
私はそう言われて後ろを振り返り、刺宮の狂信者達を見つめていた。先程の家族連れが私の目にとまる。一家心中の光景だった。父親であろう男が野獣のようなうめき声を上げて、風船を持ってきょとんとしている女の子の首を締め上げる。小さい掌で父親に抵抗していた。しかし、女の子の持っていた風船は彼女の手を離れ、音楽ホールの上をフラフラと浮遊していく。
「これは世界の縮図さ。大多数派の価値観が一致すれば、それが『正義』となるんだ。正義になってしまえば、それは少数派を食らって肥大化する。それが自らの身を滅ぼすものとなってもね」
庵兄はふふ、と嘲笑じみた笑みをこぼす。私は庵兄が何を言っているのか理解ができなかった。私が短い眉をひそめていると、庵兄ぃは肩をすくめた。
「この空間で『家長の命令』という正義を振りかざせば、その崇拝者は、特に家長を慕っていない人も巻き込んで命令を実行する。意味もわからず死んだ人間も中にはいるだろうね」
私が口を開こうとしたとき、この観客席で繰り広げられている惨劇全てを愛しく抱くように庵兄ぃは両手を広げていた。
「この世界、社会は大多数派でまわっている。わかりますかね、五感家である少数派は健常者と共に共存することはできないんです! だから社会に適用できない可哀想な五感家の存在を繰り返さないために、消えるんですよ。そうすればこの世界で不幸な思いをする人はいなくなります、全てを『零』に戻すのですよ」
「庵兄ぃ……わかんないよ……」
「わかりませんかではもう一度――――」
「違う! 私達はそんなに生きてちゃいけない存在……? 私だって、ちゃんと笑ったり泣いたりするできるの! こんなのおかしいよ……!」
私は腹から喉を通って、自分でも想像外なほど大きな声が出た。それは音楽ホールで鳴り続いている喧騒の中でも確かに反響している。庵兄ぃの話を聞いて、五感家の一人である自分も殺す対象だということがわかった。だからこそ、私は躊躇しなかった。
庵兄を覆っているパンダの着ぐるみの腕を掴んだ。そして反対の腕でパンダの頭を鷲掴みをする。そして首が下を向くように思い切り引っ張った。
「唯!やめなさっ……!」
私の掴んで拳の形になった手は、カタカタと震えていた。庵兄は私の腕を振り払おうと暴れる。私の手は一回弾き飛ばされたが、すぐに私はまた着ぐるみを掴んだ。
「だって……だってぇ…………!!」
私の声も震えていく。それどころか、喉で息と言葉が何かにせき止められていて、苦しさを感じた。自分の顔がくしゃくしゃになっていくのがわかった。それほどまでに私は、泣いていた。庵兄は私の様子に驚いたのか、暴れる手を一瞬止めた。その時、私の手は再度、パンダの首を下に折る。
すると頭を垂れた重たいパンダの顔はズルリと腹のあたりまで落ちて、ぶらりと皮に繋がっている状態で地面に落ちた。そして背中に着ぐるみを着脱できるチャックがあったのか、そこから人が出てきたのだった。
その人は顔を真っ赤に染めていた。それは紅潮させているという意味ではない。言葉そのままの意味で赤黒い液体で顔を濡らしていた。顔だけではない、衣服も血で染まり身体にへばりついていた。
それを庵兄だと目で認識する前に、私はその人型を抱きしめた。血が顔を汚すことに気を止めることはなかった。顔を胸に埋めて吐きそうなほど強烈な血の匂いの合間で、懐かしく優しい『椿』の匂いを嗅いだ。それがひどく、苦しい。
「なんでこんなに庵兄ぃはボロボロなのに、笑っているの……?」
庵兄の掌からは血がどくどくと流れ続けていて、抱きしめても、人間の身体なら当然あるはずの肋骨が折れているのか、今にも崩れ落ちてしまいそうだった。他にも無数の擦り傷や、痣が服の間から見え隠れしている。私は庵兄ぃを見上げる。その表情は、仮面のような薄っぺらい笑みだった。私はこの表情を昔見たことがあるような気がした。しかし視界を涙が覆っていき顔の輪郭くらいしかわからなくなっていった。
「――――私には、一つの願いがありました」
庵兄は、まるで私に絵本を読み聞かせるような優しい声色で、こう呟いた。そう思ったときには庵兄ぃの掌は私の頭の上にあった。大きくてくしゃくしゃな庵兄ぃの掌だ。
「私は昔から『統臭』という自分の能力に気づいていました……、それにより人を操ることさえも可能だということも、です。それにより人と関わるのが怖くなりました。人が自分の思い通りになるのが恐ろしくなったのです。その時に私は学校でいじめられましたんですよ。唯は覚えていないかもしれませんが」
私は庵兄の言葉を聞いて、顔を下に向けたまま首を振った。その時のことを私はしっかり覚えていた。確か小学生のときだっただろうか、庵兄は汚い言葉で落書きをされた教科書を手に、泣いていた。小さいながらにも、悪意ある行為をされたことくらい、私にはわかっていた。
「その時に唯が、いじめっ子達を殴って叱りつけてくれたんですよ。大事な庵兄ぃに何するんだ! ってね。すごく、嬉しかったんですよ?」
そういえば、そうだった。庵兄が泣いているのを物陰に隠れて笑っているやつらを私が見つけたのだ。私はカッとして思わず殴りつけてしまったのだった。何度かそのいじめっ子達に蹴り返されたりしたが、私は応戦をして相手を敗走させたことを思い出した。しかしそれは、言われなければ忘れているような記憶であって、庵兄にこう言われなければ私が思い出すことはなかっただろう。
庵兄がその時に五感家の能力に対してこのような苦しみを持っていたことも、知らなかった。あんなに近くにいたのに、私はそれに気づかず普通の生活を過ごしていた。普通ということがどれだけかけがえのないものかも知らずに。
「嬉しいと同時に、兄である私が妹に守られることが、なんだか恥ずかしく感じました。だから……いつか、私が唯を守れるようになりたいと思いました。せめて、唯は普通に学校へ行き、普通に部活をして、普通に恋愛をするような……そんな人生を送ってほしかった」
私は庵兄の顔を見ることができなかった。そんな庵兄の思いなんて私はまったく知らなかったのだ。だとすれば私がしてきたことは、どうだっただろう。自分から五感家の抗争にのめりこんで行って、どれだけ心配をかけたのだろうか。私は自分を責める気持ちでいっぱいになった。
「私達が両親を亡くしてから、唯が智君と行動することになって、私は驚きましたよ。私は二人をひきはがそうと思いましたよ。だから遊園地の件で智の『暴走』を見せれば、唯が恐怖をするか、智君の良心で二人は離れると思ってました。でも、あなたは今、私の前に立っている。――――唯は智君のことが好きなのでしょう?」
「えっ、そ、そんなこと……ないよ!」
私は庵兄からいきなり言われた言葉に、ぐちゃぐちゃになった泣き顔のまま顔を上げた。庵兄はふっと柔らかく笑った。それは張り付いたようなものではなく、まるで子供の隠しごとを微笑ましげに見る親の表情だった。
「いいえ、好きなはずですよ。私がいうのだから間違いありません。あなたは智君と幸せに過ごしなさい。この大ホールの裏に下へ続く階段があります。そこの隔離室に彼がいますから会いに行ってあげてください。……さて、そろそろ良い頃合でしょうかね」
庵兄が話し終わったと同じタイミングで、弾けるような発砲音が聞こえた。私は鼓膜がおかしくなるくらいの大きな音に振り向く。黒服の男性がスローモーションを見ているようにゆっくりと倒れていく。観客席は庵兄と会話を交わしている間に閑散としていた。立っている人間は誰一人としていなかった。
私はじとりと脂汗が頬から垂れるのを感じた。庵兄と話している間、これだけの人が死んでいくことにまったく気がつかなかった。感覚が遮断されていたということか。途端、私は庵兄が恐ろしく感じた。すぐに私は庵兄のほうを向き直す。
「唯、あなたは特別な人間です」
振り返った先には、またソファに深く座り込んで、果物ナイフを握っている庵兄の姿があった。だがその姿には似合わず、庵兄は本当に安心したような場違いな微笑みを浮かべていた。
「あなたには『無臭化』があります。その能力は物事を無臭にするだけではありません。あなたには自分自身に『無臭化』をかけることができます。するとどうなるかわかりますか? あなたは五感家で秀でた嗅覚を失うことができる。『五感家』であり、『五感家』でなくなる。『優性民族』でもなければ『劣性民族』でもない――――『異端児』と成る。あなたは、智君の『暴走』の干渉を受けない」
私は頭がパンクしてしまい、庵兄の言っていることがよくわからなかった。彼の持つ果物ナイフがくすんだ光を見せる。だが庵兄はそれ以上を説明することはなかった。
「唯、『五感家』などいない世界で、幸せになりなさい。……というわけで、すぐに排除しうる五感家にはご退場願いましょうか」
そして庵兄は、果物ナイフを握る手を上へ持ち上げる。私は庵兄が何をしようとしているのか今更、気がついた。私は庵兄のナイフを取り上げようと手を伸ばした。しかしそうした時には、庵兄は自分の首元に深々と果物ナイフが突き刺さっていた――――。
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